巻き上がる錨鎖
僕は船上からこの世で最も美しい夜明けの一つを見た。
はぐれた一叢の雲が低空に影を滑らせながら、密度を失って透明になり、薄紺色の薄れゆく空に、大いなる意思で散りばめられとしか思えない星星をほんの少しだけ隠そうとしていた。
家は鎧戸が閉められ、弱い人間の隠れ家となっていた。街頭のガスは消えていた。鳥も犬も見えなかった。やるせない、孤独な声だけがどこかで鳴っていた。
明瞭な生命は背後で息を潜めながら控えるフェルだけだった。
彼女は木のように何物も傷つけず、ただそこにあった。白く艶やか、雪花石膏のような肌に朱を差し、乗せた紅を上唇で延ばして、静止した目を遥か遠くにやっていた。
甲板の下からは「消毒屋」に押し込められた子供たちの騒ぐ声が聞こえていた。
子供は元気だ。どんな劣悪な環境でも楽しくて仕方ない。彼らの嬌声に起こされて外に出てきたのだが、不快な気持になることはなかった。
錨鎖ががりがりと巻き上がる。緩慢に船は動きだす。
甲板下の誰かの父親だろう。季節外れの半袖を着て、船を見上げている男が、あまりに遠い桟橋に一人立ち尽くしている。彼は己の子供の名を呼ぶでもなく、泣くでもなく、エールを送るでもなく、ただただ無力に立ち尽くす。
地味な顔立ち。うっすらと靄がかかったように彼の顔は判別しにくい。
不吉な予感がする絵ばかりを描き続けた画家のテンペラ画のようだ。
僕は振り返る。フェルの長い睫毛の先に微かな露が光っている。瞬きの瞬間に光は散る。
その時だ。島と空の接合部をこじあけるかのように光が溢れだしてきたのだ。
光とはこんなに熱いものか!
赤が、橙が、黄が、緑が、青が、藍が、紫が、たちまち、ここに、あそこに、生まれ始める!
とても懐かしい気持ちだ。
とても嬉しい気持ちだ。
この時ばかりは、大陸におわすという神というものを信じても良いと思えた。
僕は考える。
僕の人生がどれほど長いものになるか。それを正確に推し量ることは不可能だ。特に何もなければ、五十年。よくて六十年。その程度で寿命が来る。
そのうち、僕はあのニコという少女とわずか三ヶ月しか時を共有しなかった。
しかもその時間は特別なものですらなかったかもしれない。
それでも、時折彼女の名を思い出し、そしてとても懐かしい気持ちになるのは、以下のような顛末があったからである。
―――――
屑籠の底に手紙が一通、残っていた。
半ぴらの粗悪な偽紙は既に溶けかけていた。手紙は昨夜、ニコの母親が危篤に陥ったことを、今すぐこちらに来るべきことを訴えていた。文面を量産する際にインクを滲ませすぎたのか、判子で押し出された文字は擦れていた。
手紙は救貧院から来たものだった。
一か月が経過した。
ニコは去り、秋は暮れる。
僕は諦めなかった。ジージと僕は計算器に関わるあらゆる問題を洗い出した。
僕は元うちの担当だった銀行員をシモクボの喫茶店に呼び出した。
「書類審査で蹴られた……トゥバーディロで?」
憂鬱な空。禿げた板塀の塗装。鐘楼のような音のする鈴を鳴らして、ドアを開ければ、白漠とした煙と熱籠る店内。脂のこびり付いた煉瓦。便所脇の角に押し込まれた、べとつく二人掛けのテーブル。
周囲は不景気な船乗りで一杯であり、誰もが煙草を吸い、昼間から酒を飲んでいた。僕たちの紅茶から立ち上る湯気は巻き込まれ、吊り下げられたランプの明かりの下でくゆり、たゆたう。
熱にとりつかれたように、僕は彼に語った。彼は答えた。
「ことトゥバーディロにおいて、書類審査で蹴られることはまずあり得ない。彼らはさもしい程もうけ話に貪欲だからな。少なくとも、話ぐらいは聞いくれてもおかくしはないはずだ。考えられるとすれば、そうだ、彼らも金を出してもらって経営をしている身。出資者には逆らえないんだろう」
彼はベストの右ポケットから万年筆を取り出した。
「時期が悪かった。あの西海も破産した。誰もがリスクを恐れている。端的言えば、君は差別されたんだ」
「生まれはリスクですか」
「リスクだ。彼らにとって」
紅茶を口に含む。
レモンの味が強すぎる。唾液が出る。
彼は万年筆を回しながら、ベストの左ポケットから複写式流用伝票の書き損じを取り出し、裏返した。白いD票の裏、その重心にペン先を置く。
「でも、そこには救いがある」
彼は苦い顔で肩をすくめながら続けた。
「否定されたのは君の出生だ。君の発想が否定されたわけではない」
「僕は喜んでいいんですね」
「ああ。そうだ」
彼は万年筆を滑らす。シモクボ郊外の一等地の住所を書きつける。
「また軍艦を作るんだろう? いや、あのとき作ったのは鉄でしかなかった。今度こそ”我々”が”軍艦”を作るんだな。分かってるよ。私もそれが見たい。旅費ぐらいは貸そう。今度うちにおいで」
僕はとあるペテンを思いついた。
企みを起こすには、共有するには、そこに何がいるだろうか?
僕はアゴタの学生服を脱いだ。一等のブランデーを携えて、シモクボの急斜面を登った。空っ風が吹き下ろしていた。
アジュデビさんの家はますます立派になり、名士という名がふさわしい建物になっていた。ペンキは塗り替えられ、雑草は奇麗に無くなっていた。
以前見かけた少女が日除け帽をかぶって枯葉を集めている。中庭からは岩が取り除かれ、代わりに立派な一本のカラマツが植えてあった。何も生えていなかった花壇は掘り返され、養分を貯め込み、来年の耕作を今か今かと待っていた。少女の足元で紅い葉が積もっていく。
「やあ。おはいり。今度はうちのが美味しい夕食を作ってあげよう」
通された客間兼食堂の窓枠に、赤いホーロー材のマグカップがちょこんと乗っていた。中身は土で、フェルちゃんからもらった球根を植えたよ、とのことだった。
料理が来る前に、僕はブランデーを開けた。先輩は、繊細な柔らかい線を持つナガイ製のグラスを二つ持ってきてくれた。小ぶりな器だったが、酒の琥珀色の濃淡が良く映えた。この酒にぴったりだった。
「問題は四つあります。つまり、顧客、製品、流通、価格」
間をあけず、前のめりに僕は続けた。
「複製元の計算器を作った哲学者も、アジュデビさんの見た山師も、計算器を玩具か芸術品と捉えていたふしがあります。つまり弄ぶことに意味を見出し、計算をするという本来の機能を軽視していた。彼らはそういったものを有難がったり面白がったりする層に売り込むつもりだったのでしょう。研究職の知的エリートの玩具、その令息の情操教育等々」
「君はどうなんだ」
「売り込む先は金持ち、資本家に変わりありません。ただし、これは玩具とは捉えません。あくまでも道具です。その認識の下で売り込む。資本家の先の、大量の労働者。これが僕のターゲットです。認知が広がり、大量生産ができるようになれば、単価が下がる。そうすれば、資本家の媒介も必要ないでしょうが、今はそうではありません」
「なら、製品とは」
「製品の定義を如何に設定するかということです。まず、十二進法を十進法に。まあ、それは当然です。商品になりません。むしろ重要なのは、複製元の計算器に十八ケタの枠があったことです。高等教育を受けていない大勢の労働者に任せられている計算など程度が決まっています。だから、桁を削る。今後は分かりませんが、当座、僕たちは『改良した』十二桁の計算器しか作りません。これだけで歯車の数は三分の二、コストは半分に、製造にかかる時間は三分の一になります」
「価格をどうしたいかは大体想像がつく。俺が聞きたいのは流通だな。話を聞くに、大量の金属が必要だろう。製鉄の盛んなタカシラあたりで製造して、各都市に隊商を雇って配送するのか?」
他のあらゆる問いはどうでもよかった。それこそが核心だったから。
「クボで作ります。この島には鉄鉱資源が豊富ですから。工場も持っている。買戻します」
まさか、といった顔を先輩はする。
「だとしても、だ。輸送に金がかかる。今値を下げるといったばかりじゃないか。そのためにはコストも下げなければならない。損益分岐点が圧迫される。これは簡明な理屈だよ。安価なものは大量に売らねば利益にならない。BC君、君はクボ‐ヤシロ間の海上輸送費、ヤシロ‐アゴタ間の運送費、それぞれいくらかかるのか知っているのかい?」
「道はあります。転送を使うのです」
アジュデビさんは瞼を擦って、こめかみを中指でぐりぐりと押した。
「まてまて、それじゃあまるで答えになっていない。安定して転送可能な重量はせいぜい五キロまでだ。だからこそ、現在郵便ぐらいでしか応用されていないんだ。君の計算器は十キロ前後はあるんじゃないのか?」
「分割しましょう。つまり、島でデザインし、鉄を作り、部品を作って、ヤシロに送る。ヤシロでは組み立てて、各地に販売する。この一繋がりの総括をクボでする」
「小口だとしても一日に何個も転送していたら送り先の転送局に負荷がかかる。彼らの事業はあくまで郵便だ。本業が圧迫されるようだと、いずれ受け取りを拒否するか制限をかけるか、割高な値をふっかけてくるだろう。されなくたって、そもそも問題、手紙何百枚分の輸送料が一台ごとに徴収されるんだぞ。どう考えても割に合わない」
「承知しています。アジュデビさん。そこでお願いがあるのです。あのときの袋を頂けませんか?」
個人での転送を可能にしたあの袋。
僕の命を救ってくれたあの袋。
アジュデビさんは一瞬目を見開いて、砂を噛むかのように顎を動かした。
とっくの昔に、彼の目は先輩や友人の目ではなくなっていた。火傷しそうなほど鋭利な、商人の目。人を値踏みし、推し量る目。どこか嘲笑しているかのような微笑。
「なるほど。あれがあれば、確かに可能だな。だが、君はあれの値を知っているのか?」
「僕にはアジュデビさんのあらゆる要求に答える準備があります」
「ならBC君、フェルちゃんをくれるかい?」
「ええ。もちろん」
僕は即答した。
あらかじめ答えはあった。冗談めかした表情も声色もなく。
アジュデビさんは一瞬あっけにとられたような表情をしたが、すぐに体裁を整えて、苦笑し、かぶりを振った。
「君は俺を買いかぶっているよ」
雲雀の甲高い鳴き声が秋空の果てから聞こえてきた。僕は深く息を吐いて、木の器に盛られたピスタチオの実を口に入れ、噛み砕き、ブランデーで一気に飲み干した。
先輩も続いて酒を煽り、言った。
「本気なんだな。こちらの窓は良い。安く貸してやる。だが、あちらで受け取るためには、もう一つ窓が必要だ。その窓を作るにはまず金が要る。それもちまちました金じゃない。莫大な金だ」
「ひっくり返っても、そんなものは出てきません」
彼の指は西を指さした。遍歴の僧のような軽妙さ、巧みさで、僕を導く。
「ヤシロに行け。ヤシロは独立心の強いところだ。自前の経済、市場を持っている。アゴタの混乱の余波も届いていないだろうから、投機家どもはまだ元気だろう」
「クボ生まれの僕がですか? あの排他的なヤシロで?」
「そこだよ、そこが問題だ」
先輩はうんうんと小刻みに何度も頷いた。
「連中は閉鎖的だ」
「つまり」
「君はヤシロの人間にならねばならない。見た目は大丈夫だ」
「クボで生まれたことを捨てて」
「徹底的に」
「ええ。徹底的に」
組手のような会話に、先輩はくすくすと笑った。
僕も吹き出しそうになった。
「俺はまだ、計算器というものを信用していないよ。本当の話だ。だが、これは俺も知りたい問いなんだよ。人は何が欲しいんだ? 俺にもまだ分からないが…まあいいさ、契約書を作っておく。失敗したら、君が破産するようなことがあったら、本当にフェルちゃんをもらっていってやる」
彼は興奮していた。彼の言葉は、今こそ詩的な響きを持って僕に聞こえていた。
「まだ何かありますか?」
「もちろんだ! 山積にも程がある! でも、ああ! これは最高かもしれないぞ!」
「努力します。可能な限り」
高ぶりをひょうきんな仕草に替え、彼はいたずらっぽく目を見開いた。




