出る者と出ない者
僕ら三人は馬を小屋へと引き連れていった。
小屋の隅で犬が伏せて怯えていた。この犬がここら一帯から足を踏み出したことはない。
ここで生まれここで死んでいくのだ。何もなければ、あんなに大勢の人間に出会うことも無かったはずだった。
規模は違えど、それは僕たちだって同じこと。
家の中に戻った。相変わらず全てが僕たちに不釣り合いなほど大きかったが、それでも手応えというか、不思議な漲る意気を感じていた。フェルは食事をこさえに台所に行く。ジージは風呂を沸かしに行く。
――寂しくはない。
僕は食堂の椅子に腰をかけた。僕が成人したお祝いに買ってもらった木製椅子。凭れるとギシギシ鳴るが、壊れる気配は微塵もない。
そうだ。ニコに謝らなければ。大人気なく、彼女に鬱憤をぶつけてしまった。ナマケモノのように表情を変えないやつだが、あれはあれで思うところがあるはずなのだ……。今度ばかりはあいつに助けられた。
僕は深く椅子に沈む。
天井が近い。梁が見える。あの上に僕が隠した母の指輪がある。女物の装飾品だが、五歳の僕には欲しくてたまらないものだった。だから、烏のように盗んで隠したのだ。成長して落下の恐怖を知り、僕は梁に登れなくなってしまった。家の皆も登れなかった。母は僕を叱らなかった。昔はペアであったらしいが、横着な父はまるで付けてくれる気が無いと、母はこぼした……。
そんな思い出が去来するのは疲れたからだろう。
眼鏡を外して、瞼を閉じ、開ける。
ぼやけた世界の中、目の前に、大麦のパンと赤いスープが並んでいる。調理に使われたクボ産オリーブの強い香り。
一瞬目を瞑っただけのつもりだったが、二、三十分は時が経過してしまっていた。
空腹は感じていなかった。
眼鏡をかけ直すと、赤いスープの正体が鰈と浅蜊のトマト煮であることが分かった。テーブルの上には皿が四つとパン籠が一つ。
空席に目が行く。いるべき人間が、一人足りない。
向かいに座るジージとフェルはそわそわと、どこか落ち着かない。僕もまた、自分が眼鏡をかけていない状態のように心もとない気持ちであることに気付く。
「ニコは、どうした?」
僕は欠伸を噛み殺しながら二人に問う。叱られた犬のように、フェルがしゅんと悲しそうな顔になる。しばらくして、渇いた下唇を噛んでいたジージが答える。
「いなくなってしまいました」
何故、とは聞き返さない。僕は驚かなかった。
そうあるべきという、不思議な合点があったからだ。
僕はオウムがえして。
「いなくなってしまった?」
だが、何故、とは問わない。
いなくなってしまった。
「探したのか?」
彼女が消えてしまうわけがなかった。どこかにいる。僕の住む世界のどこかに。それは不思議でもなんでもなかった。
どうせ、島をでてよろしくやるつもりなのだろう。
前々からそう言っていたではないか。
――だが、その確信は儚く弱く、頼りないものだったと打ち明けねばならない。
それは、もはや形式的なやり方だった。フェルが探したと小さく頷くのを待って、僕は立ち上がった。
「僕も探そう」
冷めゆく料理をテーブルの上に残して、僕らは敷地内に散った。僕は階段を上り、彼女の部屋に向かう。ノックもせず、扉を開ける。
「ニコ」
薄く積もった埃の上に残る跡や、開け放たれたまま軸が固まってしまった窓、以前より軋むようになった床。
些細な一つ一つに彼女の存在した証がある。それでもやっぱり彼女はいない。
彼女の部屋に入れば、恐ろしいほど生活感の無い灰色の景色が広がっていた。壁と壁に渡されているロープに掛けられた衣服や下着が無風の中で揺れている。絵立てはそのまま残っていた。
僕たち三人に囲まれ、不愛嬌な顔の彼女。初めて彼女をここに通した時、空は暗かったので分からなかったが、おそらく窓は打ち付けられた潮や泥でひどく曇っていたはずだ。
ところが、今、この部屋は日の光を溢れんばかりにくみ取り、真っ赤だ。あらゆる段差、隙間、縁取り、影の、紅。空気中の埃までが燃える蚊柱を思わせ、幻想的に見えた。
もはや、ここを去る時が来た。
こんな台詞を吐いたのかもしれない。
空想の中の彼女を真似て、慳貪に言い捨ててみた。すがすがしかった。
三人で食卓を囲む。フェルは冷めた食事を温め直してくれなかった。
家から消えたのは銀1枚。彼女の先週分の給与である。
僕はスプーンを取り、口に運んだ。妙な味。磨かれ曇りの無くなった銀が味を変えてしまったのか。
僕が食事に口を付けたのを見て、二人の使用人は食器を手に取った。食物などどうでも良かった。
問題はそこではなかった。
僕は眼前で揺れる二人の目がひたすらに赤いスープを沈んでいくのを見た。二人は夫婦に見えた。憐れな老夫婦に見えた。子供が家を去り、取り残され、後は死を待つのみだ。木から葉は散った。冬が来る。根を張ったこの大地が、己の意思とは関わらず雪に埋まっていく。
日は沈んでいく。夜が来る。冷めたスープはいよいよ冷たくなる。
呼び鈴が鳴った。
「……!」
フェルが立ち上がった。一握の藁にしがみつくような切ない期待を顔に浮かべ。
僕とジージも立ち上がった。
「すみませーん」
彼女はまた、椅子に沈んだ。
ニコの声ではなかった。
僕は食堂を出て、玄関を開けた。痩せこけた少年が帽子を斜めにかけ、息を切らし、立っていた。
「郵便です。夜分遅く、すみません」
彼は肩掛けのバッグから封筒を取り出し、僕に渡す。
差出人を見る。
来た! トゥバーディロだ!
「では失礼します」
息を飲む。少年が去ると、僕は玄関の鍵を閉める。そして食堂に戻りながら、震える手で封筒の頭を破いた。
手紙にはこんなことが書かれてあった。
「平素は格別のお引き立てをいただき、厚く御礼申し上げます。さて、先日ご応募いただいた表記の件についてですが、慎重に選考を重ねました結果、まことに残念ながら今回についてはご期待に添えない結果となりました……末筆ではございますが、貴殿のご活躍とご健闘をお祈り申し上げます……」




