葡萄酒と組合
その時、詰めかけた群衆の裾で、またざわめきが起こった。
「どきなさい! ここは私の家なんだから!」
波は伝播する。男どもの波はまたしても割れた。その狭間を歩いてきたのは、今度は馬でも、彼らの指導者でもなかった。
僕に捨てられて、そこから歩いて帰ってきたのだ。
「ニコ」
僕の後ろでフェルを庇うように立っていたジージが呟いた。
見ろ。あの少女を。チュニックが涎かけに見えるぐらいだ。
やってきたのは、ちゃんとした食べ物を食べるようになって、幾分栄養状態は良くなったものの、それでも、ふくよかとは到底言い得ない、痩せて、哀れな、子供。
話は聞いていたらしい。
「Dさまも大変ね。こんな鼻くそみたいな連中、切り捨ててしまえば良いのに」
彼女は彼らの、僕の、ジージの、フェルの傍を抜けて行き、玄関前の縁石に立つと、実に見事に振り返って見せた。
彼女は蔑むように、だが憐みを込めて、言った。
「可哀相に。貴方は縛られている」
目を細めた彼女の視線は遠く、僕を見ているわけでもなく、彼らを見ているわけでもなさそうだった。
その達観したような横顔はどこかあの老婆のものに似ていた。
「そんなもの、私にはないのに」
にやりと笑ったのかもしれない。あてつけなのかもしれない。
彼女はまたしても見事に振り返る。舞台で見得を切る役者のようだ。そして、玄関を音もたてず開けて家へと入って行くことで、彼女は僕らの世界からいともたやすく消えてみせたのだ。
僕らは全員、たった一人の女の子に取り残されてしまった。
僕も指導者も言葉を失っていた。彼女の声が届かなかったであろう後ろの方はまだざわめいていたが、今の僕にはまるで夢の中の音楽のように虚ろで、遠く、他人事のように聞こえていた。
僕は吹き出しそうなった。
そりゃあないぜ。
「あの子のことをどう思う」
つまりはそんな気分のまま、僕はかの指導者に尋ねた。彼は引き攣ったように大きく口を開けて、重心が右へ左へと揺れていた。
しばしの逡巡の後、彼は深い息を吐き出しながら苦々しい顔で答える。
「……憐れだと…思いますよ?」
「それは、僕たちが言える台詞ではないだろう」
彼は眉をひそめた。
僕にはすぅすぅという海の波音と海鳥の鳴き声が聞こえるようになっていた。蒼い海が絶壁に打ち当たり、弾ける音と、白い羽を落としながら空を切る音だ。
彼はまた一つ小さな溜息をつくと、背後に控える者たちを抑え、ぴょんと黒い敷石から飛び降りた。そして、ついて来い、と目配せして崖の方に向かって歩いていく。僕も使用人たちを置いて、一人黙って彼についていく。
しばらく歩くと彼は崖の淵で立ち止まった。僕は彼の隣に立った。誰もついてこなかった。
「何故、こうなってしまったのだろう」
「希望が見えないからですよ」
「つまり?」
「ただ貧しい島で老いていくだけ。でも、皆、慣れてしまった」
「それは悲しいな」
「連中、無力でしょう? 流されてきたからでしょう。これはずっと昔から続いてきたことなのでしょうけども」
「いや、一人でどうなる問題ではないだろう」
会話を聞かれる恐れがなくなったのを確認したからか、彼はこんなことを言う。
風はなかった。太陽は傾き始めていたが、まだお尻は高いところにあって、夕凪のきらきらする華やぎはまだ長い時間が必要に思えた。
彼はポケットから再び例の数式が書かれた絵ハガキを取り出すと、太陽に透かすようにして空にかざした。こんな場面を、いつかどこかの劇場で見たことがある。雨を渇望し、太陽を憎み、乾いた己の土地に立ち、溢れる汗を拭いもしない一人の農夫。
「ここからならば、軽く押すだけで僕を殺せる」
冗談交じりに、そんなことを言った。
「そんなことを考えるやつがいたら、私が殺します」
ふざける様子も無く、明瞭な声で彼は答えた。
「我々は貴方がまだほんの赤子だった時から知っているんですよ?」
彼は殉教者のように気高く、背筋を伸ばしていた。
今にも絶壁の下の岩岩に身を投げてしまいそうだった。彼の厳粛さに僕は圧倒され、動けなかった。
「ご自分がどのようなことをなさろうとしているのか、お分かりになっていますか」
「わかっているつもりだった」
「いえ、そのような意味ではありません。彼らの生活も重要ですが、今私が言いたいのは貴方のことなのです」
「僕?」
ええ、と彼は頷き、言い淀んで次の言葉を探す。
「我々は貴方のお父様から返しきれない御恩を受けました。しかし、我々は工場を守れませんでした。島は死んでいきます。それはきっと避けられないことなのでしょう。人には人の持ち得る責任があって――だから、心配なのです。あなたが立ち向かおうしているものはあまりに激しく、厳しい」
「僕はそんな大層なことをするつもりはない。ただ、面白そうなものを作って、お金を稼ぐことができたなら。そう思っただけなんだ。――いや、違う。あなたが求めているのはこんな答えじゃないな。どう答えたらいいんだろう」
僕は少し口を噤む。
考える必要もない。
「誰かを巻き添えにするかもしれない。不幸にするかもしれない。でも許してほしいんだ。――これはお願いなんだよ。そして、大丈夫。僕の責任を僕は負えるはずだ。貴方が皆をここに連れてきてくれたように、僕もやるしかないし、苦しむしかない。貴方だってそうじゃないのか。僕のことをとても愛してくれている。でも、貴方はこうするしかないのだろう」
「ひょっとして、それは謝罪のつもりなのですか? 私には開き直りにしか聞こえない」
「確かに開き直りかもしれない。違うものと言えば、それはもう覚悟ぐらいだから」
「覚悟?」
覚悟?
こんな言葉が出てくるなんて自分でも不思議だ。
彼のかざした腕はしなやかに、空へと向かっていた。
それは……、と彼は言いかけ、首を振った。
そして、
「信じていますよ」
そう、力強く、短い言葉で、言い切ったのだ!
音も無く、凪が破れた音がした。番った海と空に直線を引いて彼の腕が落ちた。
さっ、と彼が動いたのと、僕の息が漏れたのは、ほぼ同時だった。
彼は身を投げなかった。
彼は絵葉書を破り捨て、海へと捨てた。ヤシロの黒い鉄船が細切れになって、太陽の光を照り返しながら、白波立つ海の中へ吸い込まれていった。
一服のくどい匂いを伴って、潮の飛沫が跳ね返った。
僕らは来た道を引き返す。果てしなく引き伸ばされたコンサティーナの低音のように、会話は無くなっていた。一歩一歩に風が立った。
突然、彼は立ち止った。そして背伸びして自分の顔を僕に寄せると、僕の耳元にこんな言葉を残した……。
「私たちが計算器を認めることは絶対にありません。それは仕方がないことですよ。ですが、Aさま、お好きにどうぞ。お先にどうぞ。私は、私の、私なりの闘争を継続しながら待っておりますから。Aさまがご自分の夢へもう一歩踏み出すとき、またお会いすることになるのでしょう」
彼は顔を離した。
「ああ、私はどうしようもないやつだ。初めから初めから知っていたというのに」
ジージが背を向けて倒木に座っていた。目の前で座り込んでいる男たちを一人で堰き止めようとする堤防のようにどっしりと。彼らはお互いの顔も見ず、短い言葉を交わした。
彼は晴れやかな顔で男たちに向かい、彼は解散を宣言した。三四人が騒いだが、彼の持つ渺茫たるものに押し潰されるようにして消えた。彼が一礼して坂を下っていくと、引き波のように、彼らも一緒に去っていった。
後に、ジージが言った。
「クボに初めて組合を作ったのはあいつです。ナガイから追われ、この島に流れついた。葡萄酒を造ろうとして大陸の連中に叩き潰されたこともあった。良い奴でしたよ。確かに友達でしたよ」




