憐れむべきですらない人たち
事態は全く飲みこめなかった。
だが、一心不乱に馬を急かすこと、それが僕の仕事なのだと判断した。
家に近づくにつれ、違和感は強くなっていく。見知った道なのに、知らないざわめきや怒りがある。
鬱屈だ。不安だ。無力感だ。僕が今抱えている気持ちと同じだ。
突っ切れ。
僕らは街道を曲がる。川沿いに人はいない、平常通り海へと流れ込んでいる。声は上から聞こえていた。僕は慎重に先へと進み、坂から頭を出した。
掌のような地に溜まる海の空気には、ナカクボから来る魚の腐臭が混じっていた。タンポポやナズナ、菫は惨めにも踏みつけられていた。
馬が一瞬怯み、脚を止める。ジージが恐恐とした息を吐く。僕も唾を飲み込む。
異様な光景だった。
大勢の男たちが黙して座り込み、僕の家を取り囲んでいる。二百人はいるだろう。新聞を呼んでいる者や、ぼんやりと煙草を吹かす者もいるが、共通しているのはその覇気のない顔、痩せた頬。灰色や黒の地味な服はいかにも出来合いで安手、何も主張するものがない。
僕らは馬を静かに進め、彼らの向こうに回り込む。彼らは僕の到着をちらりと見やったが、しばらくすると大部分の視線がまた新聞や虚空に戻った。残りの者も隣の者に、まるで今朝の天気を話すかのように、あれが例のやつなのか、と問う程度の関心しか向けてくれない。
そうか。彼らは自分の意志でここにいるわけではないのだ。
なら、何故君たちはここにいるんだ?
群衆に囲まれ、怯え、消耗しながらも、フェルは家を守ろうと小さな玄関にしがみついていた。彼らと彼女の境に馬と僕の身を滑り込ませる間、僕は奇妙な解脱感を味わった。抜け出た魂が雲の上から、自分を見ているかのような。まるで打ち出される文字や絵を眺めるように、この瞬間、僕は自分の奥底をしっかりと見ていた。
馬が興奮して嘶いた。
僕は猛る彼の脇腹を抑え込む。ジージは僕の後ろに回り、フェルを助け出す。僕は彼らの盾になる。
「僕に何か用があるのか?」
わあわあと声が重なった。ざわざわと面が重なった。一つ一つに込められたものが奇妙に同調し、ただ単純に足したものより大きく見せかけていた。
ある男が足元の石を投げた。ひゅっ、と耳元をかすめ家のガラスが割れた。
収拾はつかず、誰の言葉に反応すればいいのか分からなかった。主張と言うにはあまりにも淡白で、即物的で、理屈を欠いているように見えた。ただ不満と苦痛がぼんやりと、だが剥き出しで襲ってくる。食らいついてくる。
わあわあと声が重なる。ざわざわと面が重なる。
何を責めているのだ? 君たちは。
男が一人、すっくと立ち上がった。彼はしばらく何をするでもなくこちらの方を眺めていたが、突如動きだし、気力なく座り込んでいる他の者たちの合間をすり抜けていった。
――そして彼は駆けだした!
僕の方へ向かってくる。あの表情と言ったら、仮面のようじゃないか。明白な敵意を隠して。
彼は跳躍した。面長な顔に収まった鼻が大きく開く。
そして彼は馬上の僕を見上げ、息巻いた。
「あなたにはわからないんだ」
言葉足らずで、回らない口を一生懸命動かして。
彼は毅然と僕を見上げた。
「あなたにはわからない。この島の人ではないから」
「違う」
浅黒く、清潔で、柔く、皸のない、己の手が目に入る。力強く主張している。
――これは僕の手だ。
「僕はこの島で生まれたよ」
「いや」
彼はかぶりを振る。
「あなたにはわからない」
そして彼は手を伸ばした。幼げの残るその顔とは対照的に、彼の腕は驚異的に鍛え上げられていた。一方の僕と言えば、完全に無力で、ただ傍観するほかなかった。島の地面からにょきにょきと肉が生えてきて、打ち据えられそうになり――僕はその光景をぼんやりと眺めていた。
「何をやっているんだ! やめろ!」
遠くで声が上がった。
その後にざわめきがついてきた。僕は思わず手綱を引き、馬が腰をひねる。伸ばされた手は僕の服をつかみ損ね、空を切った……。
見れば、また十人程度の一群がやってきたようだった。そしてめりめりと呻き死を迎える老木のように、群衆は裂け、一人の男を捻り出した。
彼はまっすぐ僕の下まで歩いてくると、少し高くなった黒い敷石に上がり深深とお辞儀をした。生真面目に切り揃えられた短髪の上で、チェックの鳥打帽が浮き、戻る。清潔ではあるがこれまた個性の感じられないジャケット。
歳は五十中ごろ、身長は百四十あるかないか、口が異様に大きい。クボ人ではない。昔輪読したアゴタの古い韻文詩に出てくる、顔の白い小人を思い出させた。
彼の動きは紛れもなく、指導者、扇動者のものだった。
「お久しぶりです。覚えておられないとは思いますが、五年ほど前まで貴方のお父様の下で働いておったものです。御無礼をお許しください。Aさま」
彼は無言のまま、そこに立ち竦んだままだった男に帰るよう手で合図した。それに従い、屈強な男はおとなしく帰って行った。
不気味な静寂を背負う彼は、不気味なほど遠く響く声を操った。記憶にはない。だが、「Aさま」と僕を呼ぶのなら、きっとうちの工員であったのだろう。
「私の親戚には軍人がいて、砲兵の指揮をしております。その者に聞いたのですが、敵を狙い撃つのはなかなか難しいそうで、数式が必要なんだそうです。戦闘中に複雑な弾道計算をするには少なくとも十八人の人員が必要なのだとか」
また石が飛んだ。今度は馬の足元を転がり、馬が暴れる。
「誰だ石を投げたのは! 俺はこの人と話しているのだ!」
彼は懐から一枚の絵ハガキを取り出し、背伸びして、馬上の僕にくれた。猛る馬にも怯まない程の勇敢さ。だが、勇者というには、彼の双眸は寂し過ぎるのだ。
裏には夕日を背に黒光りする軍艦が雄々しく描かれていた。そして表には、メモ書きのような数式が幾つから並んでいる。
「見覚えがある。うちに手紙が来ていた」
「送ったのは私です。貴方の使用人、ジージから話を聞いていたものですから。貴方が今この島で何をしようとしているか、を」
僕は振り返る。ジージはフェルを強く抱きしめながら、屹然として男を睨んでいる。それは裏切られたという怒りか。それとも、互いに承諾した演技か。
僕は絵ハガキを彼に返そうとして身を屈めた。そして目撃した。彼の後ろに控える餓えた連中の様を。
絶望。それは恐ろしい程の絶望だった。彼らのではなく、僕の。
その通りだ、僕には分かるまい。
気付いた。彼らの生というもの、蓋をされた臭いものたちに、僕は目を背けていたのだ。彼らに何ができようか。彼らの過去と今と未来に目を向けて見ろ!
そこに何がある?
「ああ」
僕はたまたま恵まれていた。そうでなければ、初めからこうなるのだ。この島に住んでいれば、男はこうなる。彼らに妻子や養うべき親がいるならばなおさらだ。中途半端に筋肉の付いた体を隠し、目を窪ませ、ただただ生きることになる。そして、それは憐れんでよいことでさえないのだ! ――僕にはそんな資格はない。
「海戦において移動する敵船を正確に捕捉するためには射撃管制装置が必要になります。これはその基盤となる数式です。変数に何を代入するのかさえ、私は知りませんが」
「そうなのか」
「ええ。でもそんなことはどうでもいいのです。分かっているのは、情報を観測、入力し、そいつに計算するのに一隻十八人の男が雇われ、十八の家庭が養われているということだけなんです。先日、楽器工場の工員が私の事務所に駆け込んできました。Aさまが作られたものを目撃したのです。彼は怯えていました。このままでは自分の仕事が無くなってしまうと」
彼の厚ぼったい瞼が開かれていく。口が不均衡に歪む。
「いつかどこかの街で農業が、製鉄が立ち行かなくなったように。これが、この無礼な行為を決意させた理由です」
彼は何かを言おうとしている。
恐れるな。今度こそ、目を背けるな。
「計算器? 貴方のなさろうとしていることを、私は絶対に認めない」
そして、僕は彼と正面からの対峙を決意した。
馬から降りると地面が揺れているように感じた。日射病のようだった。太陽は眩し過ぎた。足腰が力を失い、嫌な汗がじわりじわりと握った拳を濡らし始めていた。
彼を説得する言葉を、僕は持っているのか?
そして、それは誠実であり得るのか?
「なら、僕はどうすればいいんだ」
「何もなさらないでください」
「で、でも、それじゃあ、どうしようもないじゃないか! 君も、僕も、この島も!」
「どうしようもないのです」
「で、でも!」
「Aさま」
彼は僕の名で僕の言葉を遮った。目で視線を断った。
「我々を苦しめないでください」
声の出しようがない。
苦しめる? 何故?
彼の言葉を反芻すればするほど、僕は完璧な混乱に落ちていった。全身が自律を諦めていた。しかめっ面を作ったまま、膝から崩れ落ちそうだった。
野次が飛んだ。酷く訛っている。僕には聞き取れなかった。きっとひどい意味を持っているのだろう。でも、そんな言葉では傷つかないじゃあないか。
どこからか声が聞こえた。悪意の無い、羽毛のように優しい声だった。
でも、良かったじゃないか。これは完璧なアリバイだぞ。初めからそいつが簡単に成り立つことを知っていたくせに。この食わせ者め。ああ。ああ。
その選択はあまりに甘美だった。きっと、それで誰もが幸せになれるのだ。
誰の不幸も、痛みも引き起こさない。それは幸せというものではないだろうか。何故、抗う必要があるのだろう。
「Aさま」
僕は声に応えようとしていた。手を伸ばしていた。
時が来た。




