夏蜜柑の匂い
「船の連中曰く、似たようなものはあるそうなんですよ。例えば、大陸のどこかの民族は縄の結び目で計算をするとか」
「僕らよりよっぽど賢いじゃないか」
「そういうこともありますよ」
そんな会話の産物として、僕とジージはシモクボの港に来ていた。
聳える大堤防の上に座り、輸入雑貨屋から買った縄紐の一式を漆喰の地面に並べていた。輸入雑貨屋は水捌けの悪い低利用地にあったので、保管には致命的なはずの湿気が多く、事実、目の前の縄の半分は腐っていた。
縄を束ねていた細い白紐を解き、ばらばらになった一本一本を風に流すと、まるで春に浮かぶ綿毛のように飛び去り、そして、いつの間にか海に消え去るのだった。
「私が馬鹿なのか、連中が馬鹿なのか」
「いや、連中は僕たちよりずっと賢いんだよ」
絡まった縄を前にして硬直する僕たち。周囲には「同じ考え」を持っている連中が立ったり座ったり、遠く水平線の向こうを眺めている。
うららかな空を貫いて差し込む陽光が、紺碧の水面に反射し、鈍く心地よい午後を完璧に作り上げていた。海より吹き寄せる潮風は積み上げられた煉瓦壁を垂直に駆け上ると、僕たちや滑空する海鳥を巻き、ゆっくりと草葺く土塁に沿って下っていく。
解いた縄は風に従い、今度は町中に吹き飛ばされていく。その時、海の彼方を眺めていた男がおもむろに指をさして叫んだ。ジージは立ち上がり、
「Dさま、来ましたよ! ありゃあ、大きな船だ。金持ちが乗っている!」
水平線に見えた黒点は風を受け、みるみるうちに大きくなっていった。見る者をたじろがせる巨大な体躯、真っ黒な塗装、それに加え、西に傾き始めた太陽を背に影をまとい始めたため、まるで鉄の塊が降ってくるような圧倒感がある。潮風の巻き方さえも影響を受け、鳥たちの漂い方も変わる。
僕たちは縄を捨て、斜面を駆け降りる。
―――――
いつどこで手に入れたものかわからないが、ジージは赤いジャケットを持っていた。彼の好意は嬉しかったが、胡散臭いという言葉を具現化したようないでたちである。
「アゴタじゃあ詐欺師でももっとマシな服を着ていたぞ」
「ある意味、ペテンみたいなものでしょう?」
窮屈な肩を揺らし、屈託のない笑顔で彼はそう答える。十六でうちの工場に雇われる以前の彼に関して、僕は何も知らない。客の目を引き付ける術を身につける必要があったのだろう、雑踏の中でも通る声とこの赤い服は持っていたわけだ。
「さあ、よってらっしゃい!」
新しく出来上がった試作品を僕は市場に出しても耐えられるものと判断した。いや、その言い方は誤っている。要するに僕はテストをしたかったのだ。「計算を機械に任せる」という新しい概念を人々がどこまで受け入れくれるのかを。
僕たちがいたのは堤防の裏、暗渠のように日の当たらぬ四辻だった。大堤防に沿って船員や低賃金労働者向けの飲食店が集積するどや街と水門からのびる整備された大路が交差する。ここは比較的人通りが多く、営業上の煩わしい申請も要らなかった。
「おや、また来ましたよ。見てください、あの先頭を歩いている人の服を。たいそう質のいい絹だ。そして色合い、粋な紫ですなあ」
絢爛な大型船でやってきた身なりのいい人々が通り過ぎていく。ジージの張った声も彼ら相手には通じない。彼は肩で息をつくと、こんなことを言う。
「女の子呼んできて、きわどい格好をさせましょうか」
「貧乏人が集まるだけだよ」
クボの金融機関はあてにならなかった。アゴタ資本の銀行には島から預金を集める気はあっても、島に投資する気は無かった。
僕たちは必然的に、古典的なやり方をとらざるを得なくなる。金を持った趣味人、パトロンの庇護を得る。事態突破の端緒はそれしかなかった。
僕らが行き詰っている理由は二つある。一つは資金の問題、そしてもう一つが世間における認知の問題。前者の問題にはお金を貸してもらうことで解決する。後者の問題には彼らが世間に持つ影響力を使い、計算器に対するイメージを変える。
例えば、一ヶ月ぶりに僕はナカクボに住む楽器工場の親方を尋ねた。彼はこの島で五本の指に入る大きさの工場を経営し、それに見合う工員の数を抱えている。太い骨を鋼の筋肉で包んだ如何にも現場の職人という見た目ではあるが、酒や煙草、馬から舞踏歌の歌唱まで、多様な世界に対して深い造形と影響力を持っている。
僕は彼と彼の三人の息子の前で計算器を動かし、回転、熱、空間、光、水を生みだして見せた。そして、決め台詞はこうだ。演算士五人と工員百人が同じとはいいますが、これは一台で演算士五人に匹敵します。しかも、操縦者は高賃金の熟練演算士でない、初等学校を出た一般労働者でいいのです。まだ値も張りますし、粗削りなところもありますが、今に……。それは、これからお金をいくら集められるかにかかっています。
正直に言えば、親方の反応は良くなかったな。
一方、子供たちは楽しそうに犬の尻尾を回して遊んでいた。虚空から尻尾を引っ張られて犬は混乱し、吠え喚く。親方がうるさいぞ、と犬に怒鳴りつける。この一連は残酷と言えば残酷だが、何故だか僕は少し元気付けられてしまった……。
四辻でやることも同じ。違うのはターゲットだけ。僕たちは大型船舶の入港するタイミングだけを狙ってシモクボに来るようになっていた。
「ジージ、もっと声を絞った方がいいかな。それじゃ、お客さんが怖気づいちゃうよ」
「すみません。どうも昔の癖で。目立たなければいけないと思いまして。そろそろお昼ですか。何か飲み物を買ってきましょう」
日は正午を回っていた。黒から白、襤褸から綺羅。あらゆるものが綾なす雑多な賑わいを切り裂くように、一人の高級商人とその取り巻きが、頭に軽く乗せたアゴタ布の帽子をふかふか浮かせて歩いてきた。
商人はニヤニヤしながら露店の果物を手に取ると店主に金も関心も払わず一齧りする。そして、残りの部分はそのまま捨ててしまう。対する店主は嫌な顔一つせず、愛想笑いを浮かべる。昔の帝国の軍人のリリーフが刻まれた硬貨をたくさん恵んでもらえるのだ。皆すっかり慣れてしまった。そうやって僕が湿っぽい思索に落ちていると――悪い癖だと分かっているのだが――辺りから浮き出て凛と締まった声が響いた。その声は僕を指しているようだった。
「BC君じゃないか。何やっているんだい?」
声の主は白いブースカに紫の肩掛け飾り、黄色と朱色が混じったスカートに脛で切れたパンツという奇天烈ないでたちで、シモクボの人間でないことは明らかだった。背後に美しい娘を控えさせ、堂々とした立ち姿である。口元を防塵布でできたクーフィーヤで覆っていて、目元しかわからないが、その低い声には聞き覚えがあった。
「俺だよ、分からないのか?」
「……もしかして、アジュデビさんですか」
クーフィーヤがくるくると解かれると、そこにあったのは日に焼け更に黒くなったアジュデビさんのにやにや顔。
「会うたびに違う格好をされていますね。分かりませんよ」
「ちょっとアゴタに用事があったんだ。郷に従えって言うだろう?」
アゴタの人ってこんな服装だったかしらん?
「帰省ですか?」
「いや、金を借りに行ったんだ。渡航券を買ったのは西海がやらかす直前だったから、危なかったよ。別会社で何とかしたけど、とにかく便がなくて」
「大変でしたね。例の玩具を売ってきたんですか?」
「そうそう。でも、王立取引所も立会所もしっちゃかめっちゃか。ああ、この椅子座っていい? ちょっと待ってくれ」
アジュデビさんはそう言うと振り返り、後ろに控えていた娘にお金を渡して、飲み物を買ってくるようにと命じた。使用人であろうその彼女は恭しく頭を下げると、純白のスカートで日光を散らしながらはたはたと駆けていく。いいなあ。うちの若いのとは大違いなので、少し嫉妬してしまう。
「タカシラあたりも債権が焦げ付くわ、地価が暴落するわ、投資家が身を投げるわで大変らしいぞ」
先輩は煙草を実にうまそうに吸い、愛嬌ある笑みを浮かべながら、高い煙草はいいぞ、と乳白色の煙を吐く。まるで宣伝ポスターの中の男優のようだ。
「それで、BC君は何してんの、こんなどやで?」
「こんなものを作ったんです。計算器と言って、この枠の十二桁までの計算をすることができます。こいつを売りたくて」
「ほうほう、見せてくれ」
興味深げな声で答えると、先輩は机の上に陳列していた僕らの自信作を手に取り、観察するようにあらゆる方向からそれを眺めた。
僕は先輩の顔が曇っていくのを見た。慌てて使い方を教え、実際に計算もして見せたが、先輩の顔は変わらず、何というべきか考えあぐねているようだった。
「これを売るのか?」
正直、肩すかしを食らったことは否めない。
ガッカリというよりは驚き。どうしてだろう。僕は先輩ならこいつを受け入れてくれるだろうと思い込んでいたのだ。
「はい。そのつもりなんですが……。駄目でしょうか?」
「…ふむ。これは俺が子供だった頃の話だ」
と、アジュデビさんは前置きを置いて話し始めた。
「確か、アゴタであった行政主催技術振興関係のイベントだったな。親父はよく俺をそういうところに連れて行った。考えてみれば、あれが俺の原点だ。きわものから真面目なものなんでもあった。夢があったよ。難破船を引き上げ、真珠と竜涎香を回収する潜水艇なんてのもあった。水域の独占権、潜水器具を武器に目論見書では百パーセントの利益率。投資? 今思うと詐欺以外の何物でもないわな。そんな連中と一緒にどこかの奴が『計算を助けてくれる機械』なるものの発表していた。どうやら、舞台でアゴタ一の熟練演算士と勝負するらしい。俺は親父にねだったよ。難しいものばかりで、子供だった俺はそういう分かり易いパフォーマンスを見たかったんだ。ショー内容は単純。提示された計算を解く。早く解けた方が勝ち」
「どっちが勝ったんですか?」
「演算士だよ。本当のことだ。みんな失笑していた。時間はかかるわ、単純な計算ミスするわ。自分で商品の価値を下げてどうするんだよ! ってね」
申し訳なさそうに先輩はこう付け加えた。
「誰もやらないってのは何かしらの理由があるからだぞ」
それは僕の意気を打ち砕く、止めの一撃となった。
僕は相当に落ち込んだらしい。常に飄々とした先輩を動揺させてしまうほどに。先輩は僕の落胆に気付き、慌てて調子を砕けたものに戻すと、今までの話を笑い飛ばすかのように僕の肩を叩いた。
「おっと、危ない。頭が固まるところだったぜ。これじゃあアゴタの頑固な古詩人を笑えないよなあ。はっはっは」
先輩は僕のやることが成功するとは思っていないのだろう。
だが、それ以上に先輩は自分の哲学を信じている。常道というものがある。運命というものがある。それは覆せないものなのだろうか。厳然としてそこに動かずに佇む真理なのだろうか。
「あの」
その時、例の少女が藍色の瓶を二本携えて帰ってきたので、僕は言いかけた口を噤む。可愛いえくぼを作り笑いかける彼女からはほんのりと夏蜜柑の匂いがした。
「まあ、飲め。それじゃあ、ゆっくりもしてもいられないからそろそろ行くよ。もう一本は君の使用人ちゃんへ。お邪魔したな」
「アジュデビさん!」
先輩立ち止まって振り返る。僕は上手く言葉を作り出せず、口ごもる。
「僕はどうしたらよいでしょうか」
アジュデビさんは少し困ったような顔で、
「そうだな。とりあえず、誰に何を売りたいのか、いくらで売るのか、どう売るのか、どう知ってもらうか、ぐらいは考えた方が……あーいや、違う」
言い淀み、少し考えた後、先輩が語った内容はとても簡潔かつ抽象的だった。
「やれることをやるんだよ。そうすればできる」
できること。
僕に、できること。
それは難しい問題だった。




