卑怯かしら?
用途不明だった左ハンドルに軸棒を接続し、計算への作用が可能になると、連鎖して今まで分からなかったものが分かるようになった。
例えば、乗法で言えば三桁同士の計算。機械の側面からはみ出していたピンを左に動かすと(先に発条がついていて自動的に中央に戻る)七桁のダイヤルが示していた左ハンドルの回転数が一桁ずれる――つまり、0000001ならば0000010になる。そして、その値は直ちに十二桁の示す値に反映され、自分が求めていた値がd導出される。
男三人は作業に没頭した。熱したナイフでバターを切るように謎が解けていく。面白かった。面白くて仕方ない。大学での幾何学の時間、皆で紗綾形を織り続けているうちに一枚の壮大なタペストリーが生まれてしまったときの、あの、何か絶対なるものに命ぜられて、作らされているような恍惚感だ。明かりをつける。誰も汚れを気にしない。誰も時間を気にしない。何もかも全てを遠くに捨ててきたように身軽で……。
気が付けば、夜になっていた。いつの間にか部屋の中には老婆とフェルの二人が増えている。ほおっておかれたニコが何をしていたのかは知らないが、三人共外にいたのかチェックのストールを頭と首に巻いている。
彼女らの頬は赤かった。この場所は標高が高いせいか、まだ秋の入りだと言うのに夜になればかなり冷え込んでくる。実際、胡散臭いものを見るような老婆を前に、興奮と疲労で頭がくらくらしていた僕も捲った腕がすうすうするのを感じた。おかげで、目が醒めた。
「これが授業なのですか?」
なるほど。そういう解釈もできるか。
ちょうどフェルがちょこんと鋳鉄ストーブの前に屈み、暖を取ろうと焚きつけ薪に火をつけようとしていた時だった。懐疑の声に僕はにっこり笑って、こう応えた。
「フェル、ちょっと待ってくれ。薪に着火する前に、少し大陸の叡智に触れてみようじゃないか。ニコ、ここに数式を書き起こすから、この計算器で計算して御覧」
僕は数式を書き付けた紙切れをニコの眼前に突き出す。
さあ、今こそ魔法を使うべきときだ。
―――――
「お休みを一日いただきます。ウノをナカクボに連れて行くついでに母を見舞ってくるつもりなので」
この頃、ニコは頻繁にナカクボに行く。母親の体調が芳しくないらしい。ウノを連れていってくれることを名目に、労賃として僕は彼女に銀を一枚渡す。
彼女がウノを連れていくと、大きな家はその大きさ故に急に寂しくなってしまった。
三日目の朝は灰色の曇り空で、それと対照的な真っ黒で小さな積乱雲が幾叢、プカプカと浮かんでいた。強風に備えて、フェルがサルビアの植えられている鉢を軒下へ移した。
僕はまだ完治していないジージの肩を支え、彼を馬車に連れていこうとしていたところだったが、ふと、老婆の姿が目に入った。彼女は桶一杯に入った何かの種子を荒布の袋に詰め替えていた。木箆のような角度をつけた手が斜めに入り、赤と黄が混じった小山を掬いあげ、そして、さらさらと種子の滝や虹を作っていく。あれは何の種なのだろう。老婆は何を咲かせ、収穫するつもりなのだろう。
老婆は僕らに二人乗りの馬車をくれた。幌の付いた黒塗りの立派な馬車である。
――私にはもう必要がないから、と彼女は言った。
長い間使用していなかったようで、可動部に油を差してやる必要こそあったが、綿はへたっておらず快適に帰れそうだった。
彼女は道が良くなるところまで僕らを送ってくれた。
ジージを乗せて、フェルを御者台に上げると、座る場所が無くなってしまったので、僕は抱えていた計算器をジージに渡し、荷台によじ登るしかなかった。その過搭載具合はまるで、土地から夜逃げする一家みたいだった。
老婆はぽつねんと一人、こちらを見上げていた。幌からたった塵が寒気に沿い斜面を昇っていった。嵐の前の静けさはいよいよ破られようとしていた。
「食事代だけくださいな。あとは後日文書で請求するわ」
お別れの挨拶を忘れていた。それだけのために僕は馬車を降りたはずだった。
今思えば、彼女のあけすけさは僕にとって最大の幸福だったのだろう。地面に降り立った瞬間、外界に対する感覚が硬直した。
謎が残っていた。
胸の内でこう訴えてくる。
曖昧のままでいいのか。誤魔化していいのか。
その存在を二歩踏み出し把握して、三歩目を踏み出し理解する。彼女は僕が馬車から下りたことに小首を傾げ、様子を窺っていたが、そのうち得心した顔で僕を迎え撃つ構えになった。
彼女の秘密に触れる、その許可が下りた気がした。だからこそ敬意を払い誰にも聞かれないよう、慎重に事を声にする必要があった――。
「最後に教えてください」
「ええ」
老婆は頷いた。
「どうしてウノを堕さなかったのですか」
老婆の狼狽えなかった。用意されていたかのように、回答は早かった。
「ふと思ったの。なんで私はこの島で望まれなかった子供を殺しているんだろうって。その問題に、私は正面から向き合ってみたかった」
「何か見つかりましたか」
「いいえ。何一つ見つかりしなかった。だからねえ、あの仕事を止めたのも、大して理由があったことではないのよ」
彼女は首を振った。何度も、何度も。
「強いて言うなれば、まだ僧院だった頃の救貧院では、毎晩鐘を鳴らしていたわ。私は毎日あの音を聴いた。だからかしら。思い出した? なんて言えばいいのかしらね。分かっていると思うけれど、私は大陸から出てきているの。若い時分は祈るなんて馬鹿げたことだと思っていたのだけど」
「ああ、不可避の選択というやつですか?」
「ええ、きっと。こういうのって、卑怯かしら?」
「いいえ、そうは思いません。そうは思いませんよ」
僕が何を問い、何を求めているのか。
僕のもう一つの幸福は彼女が万事を承知していたことだ。
ぎゅうぎゅう詰めの曇り空がぎしぎし軋みながら動き始めていた。湿気の多い嫌な風が心まで寂しくさせた。慰められているのは僕だった。
「私はこれでも高貴な生まれだったのよ。夏でも氷を食べられるぐらいにはね。でも、ある使用人にいれこんで、それでおしまい。だいたい、この辺でこれを生業としているのって、私みたいのが多いのよ。こっちに来て、帰れなくなる。まるで、昔の流刑みたいでしょう?」
「でも、貴女は僕の使用人を助けてくださった。蝮の毒を吸いだしてもらえなければ、彼は死んでいた。貴女は今も高貴ですよ。僕はそう思いますよ」
僕自身、自分の言葉が彼女に対し何の意味も持たないことは知っていた。
「貴方のお母様がこの島にどうして渡ってこられたかは存じ上げないけれど、私たちとは違うのよ。私も他に消毒屋を営む彼女たちも、ヤシロを捨てた。私が意識したのはその点一つだけ。それにしたって、ねえ。仕方のないことよ」
彼女は遠くを見ていた。僕を通し、海を渡し、その先まで。
「私は精一杯生きた。私は知っているわ。これでいいのよ」
―――――
それから一ヶ月後が経過した。
ウノから僕宛に手紙が来た。彼はアゴタに渡り布地の卸業者の下男をしているらしい。仕事は辛いが、それ以上に賑やかな場所がたくさんあって楽しいこと。市というものを初めて見て、そこで食べた新鮮な魚が非常に美味しかったこと……文面からは嬉々とした彼の声が聞こえてきそうだった。
若いとはいいわね、と脇から覗き見ていたニコがこぼした。その環境への柔軟性は彼ら特有のものなのだろうか。それともこの年頃の子供のものなのか。
結びに将来への展望が簡潔に書かれていた。
僕はアゴタで一番のオルゴール職人になりたい。
僕は彼がその才能を持っていると確信する。僕の計算器をばらしたあの手の動かし方を見たら誰だって確信する。いずれ彼は自分の夢を叶えるだろう。僕はそのことに対してちっとも心配しない。むしろ、少しの嫉妬を覚えるぐらいだ。
むしろ、僕が気にしていたのは老婆だった。彼女とウノ、二人の別れ際の光景を僕はまるで思いだすことができなかった。別れと言い得るようなものが果たしてあの場にあっただろうか。朝起きると彼はふかしたジャガイモを潰し、それぞれの皿に盛り付け、食べ、片づけ、そして散歩にでも行くような歩みでニコと家を出た。いつも通りの服を着て、いつも通りの表情で、洗われるべき食器を水に浸したまま。
仮にも親子として生きてきた者たちの別れが、今生の別れが、そんなものでいいのだろうか。あまりに寂し過ぎるじゃないか。
僕は望んでいた。血の通った彼らの関わりを。渇望と言ってもいい程まで。だからこそ、彼の手紙を読んでがっかりした。手紙の中にウノの手で書かれた老婆の名を発見することができなかったからだ。
請求は長く来なかった。
僕は老婆へ手紙を書いた。二度書き損じた。
恐ろしい予感がペンを滑らせ、紙を湿らせた。四日後に出した手紙は送り返されてきた。僕は老婆の家に向かった。転送局と郵便局にも問い合わせてみた。だが、分かったことと言えば、一ヶ月程前からあの家は空き家になっているらしい、それだけだった。




