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D、もしくはクボの街々  作者: ベイズ335
そして小麦はことごとく失われたと
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歯車が噛み合う

 老婆には不思議な魅力があった。彼女の所作一つ一つ(指先の動き…目のやり方)が頭にこびり付いて、言葉言葉が胸をざわめかせる。

 燦燦たる太陽を秘めた曇天のように、何かを焦がらせ、不安にさせる。それは忌み嫌うようなものではなかった。

 

 その夜、彼女は夢に出てきた。彼女は光沢艶やかな絹のヴェールを被っていた。その濃緑色は密した森のように深く彼女を隠していた。


 僕は身を捩じらせた。草が撫でつけられ、強い風の予感があった。そして風が吹き、ヴェールがめくれ、そこに収まっていたものが露わになった。うら若き、可憐な十六、七の娘の顔。とろけそうな瞼と唇。大陸の強烈な日光を浴びていたとは思えない、白く透き通るような肌が、裕福さ、生まれの良さ、上品さを表していた。

 何と言うか、これは不可避の選択なのよ。

 それで、彼女は何かをした。

 何か。何かをしたはずだった。そこで目が覚めた。


「昨日はお疲れだったかしら」


 布団をはねのけて起きると、日はもうすでに高く、ニコもフェルも部屋にいなかった。朦朧とする頭をふり、目を擦って、ううと唸り、布団の中へと戻る。 

 老婆と目があった。ああ、そうか。ここは僕の家じゃなかったんだっけ。


 慌てて、僕はもう一度布団を跳ねのけ、腰と脚を直角に座り直す。

 老婆は老婆だった。老眼を乗せた鼻横の皺には太陽がもたらした数十年分の作用があった。手は厚く硬く赤く、そして罅が入っていた。髪の色素は焼け変色していた。


「朝食はできているから、ご自由におとりになってくださいな。では、失礼」


 そう言うと、洗濯物を入れた籠を持って老婆は部屋を出ていった。

酒を飲み過ぎたわけでもないのに、二日酔いの気分だった。体全身が妙に重く、頭を支えているのも辛い。あー、とか、うーとか唸りながら木目の天井を見つめていると、雲雀の囀る音が聞こえたので、眼鏡をかけ窓の外に目をやる。

 

 青天井の抜けるような空。空気は少し甘い匂いがして、驚くほど澄んでいる。フェルがいる。鶏に餌をやっている。三羽の燕が低く滑空し、彼女の足元で絡まっている。明日を雨にしたいのかい、フェル? 頭を支えるのに疲れて、僕は再び布団に沈んだ。


「あら、貴女にお願いしたのは夜だけのつもりだったけれど。ああ、でも手伝ってもらえるならば、それはありがたいわ」


 いくつかのやり取りの後、窓の外から聞こえてくる老婆の言葉から察するに、結局仕事は二人でやることになったらしい。昨日の晩といい、フェルは働き過ぎる。でも彼女が働いている姿を見ると、いつもどこでも家にいるような気分になり、安心してしまう。そんな雰囲気がある。労働は美学だとか、勝手の良い使用人だとか、余計なことを言うつもりはない。ただ、働いている彼女の姿はとても素敵だ、そう思うだけだ。

 

 さて、いい加減起きなければならないだろう。

 冷水で顔をはたくと気分がすっきりした。僕の学生服は洗ってもらうことにした。代わりに老婆が置いていった服は、しまいっぱなしの布団の臭いがしたが、着られないことはない。ゆったりと曲線が強調されたシャツにタイトなズボン。それを唐草模様の刺繍が施されたベストでまとめる。褪せた色は落ち着いていて好ましかったし、古典的で正統な感じがして気に入った。

 

 簡単な朝食を済まして、僕はジージの部屋に向かった。昨日と全く変わらない服装のウノが扉を開けてくれた。体調は良さそうだった。ジージは寝ていたが、僕の顔を見るなり布団をはぐって起き上がった。彼もまた、体に何かしらの問題があるように思えない。彼の傍には、ニコ。老婆が若い頃来ていたという白いブラウスは、文字通りワインレッド染まったスカートに映え、上手くさえ染まっていればお前はどこのお嬢だ、と言うことができたかもしれない様子。


「見てください、ウノは優秀な職人ですよ」

 ジージは机の埃を払い、手に持っていた小さな化粧箱のような箱を置いた。月桂樹の冠を被った獅子が側面に彫られてある。ニコはジージの讃辞に照れて頬を赤くするウノに冷めた横目をくれて、その小さな箱を開けてくれた。

 

 がちゃり。

 キン、と緊張が弾け、櫛歯が戻り、響く。音楽が鳴り始める。


「へえ、凄いな。ウノが作ったのかい?」


 小箱はオルゴールだった。ジージはまだにやにやと髭を擦っている。もっと気付くべき何かがあるのだ。

 僕は耳を澄まして、ドラムの突起が弾く美しい櫛歯の響きに集中した。ガバナーの回転がせっかちな発条を押し留め、わずか三つしかないフレーズが反復される。

 時折、聞き覚えのある旋律が頭を出す。

 どこかで、聞いたことがある。

 

 ――ありきたりで かがやける一日を。

 

 文句が湧きだしてくる。音は所々違ってはいるが。

「昨日、フェルがコンサティーナで弾いていた曲だ!」


「ドラムにピンを打ちこんだだけです。櫛歯は近い音が出る他のものを使いまわしましたから。それに、発条と歯車を直してくださったのはジージさんです」


「オルゴールを作るのは時計職人の仕事だったからな」

 と、ジージは得意な顔で言ったが、

「音が所々違うのは櫛歯を流用したからです。櫛歯の歯は音階です。だから、手造りのドラムが正しい音を奏でるにはぴったり合う櫛歯を作ってやらねばならない」

 と、ウノが彼を軽々と乗り越えて話を続けてしまったので、彼の面子はみじめにも打ち砕かれ、萎んでしまった。

 なんだ、語れるじゃないか、ウノ。


「手回しオルガンの構造を知っていますか。あの箱の中には、ハンドルで回転する楽譜と連動して上下するふいごが入っています。楽譜はただ紙ですが、穴があいていて、その穴が音階と連動しているわけですね。要するに笛と似たようなもので、ふいごが送り出す空気が楽譜の穴から出て、それぞれの音が出る。僕は思うのです、あれをオルゴールに応用できないものか、と。大量の櫛歯をあらかじめ固定しておき、ドラム(楽譜)を入れ替える。例えば金属の円盤のようなものに」


「じいさんよりも計算器とうまく付き合えんじゃないの?」

「……そうしたら、おれの五十年は一体何だったんだ、って話になる。困る」

「何ですか、計算器って」


 ニコの投げやりなからかいで話は逸れてしまった。首をかしげてウノは話すのを止め、ジージが抱えていたもう一つの箱に視線を移した。


 彼が持っていたのは、5×7×12、つまり十二桁までしか計算することのできない、一回り小さくなった計算器だった。ニコにいたぶられて以来数日、ジージは計算器の信頼性向上に努めた。試みに計算可能な枠を十八桁から十五桁に。それだけで、内部部品の一割を削ることができ、不具合は減った。十五、十四、十三、十二……、桁を減らす度に、信頼性は劇的に増していく。

 

 要するに計算器は砂の上で危うい均衡を保っており、リスクを減らすには二つしかない。計算枠を減らし歯車を減らすか、歯車自体の品質を上げるか。後者は徹底的な品質管理――仕入先の業者を変え、仕入物の抜取検査する――をすればいい。後者は今の僕らには如何ともしがたい。問題は前者のシーソーをどう傾けるかである……。


 神妙な顔になったウノはジージの許可を取り、計算器の外装を取り外すと、ハンドルの回転を計算内容に反映させる軸棒を取り上げ、全体を軽く麻の袖で拭いた。はあ、と感嘆を漏らして前屈みになる。目の奥で興味が激しく燃えている。


「私は売れないと思うけどなあ。かっこ悪いもの。安心して。もしこんな不細工が人目に晒されたら、私が誰よりも大きな声で笑ってあげるわ」


 水を差すニコに目もくれず、ウノは手当たり次第に計算器を解体し始めた。初めからそんなものはなかったかのように、瞬く間、計算器は部品の山になった。


「なるほど、なるほど……そうか…うん」


 呟きだけを残し、突然彼は部屋を出ていった。そして、唖然としている僕らの丸まった目が元に戻る前に、大量の部品の山を抱え戻ってきた。彼はそれらをばらばらになった元計算器の山に調味料の如く振りかけると、逆に今度は猛烈な勢いで組立てを始めた。油染みた袖口に隠されていた小さな工具たちは踊り狂い、彼のささくれだった幼い手はパズルを埋めるように秩序を生みだす。彼自身がまるで機械のようだった。


「たぶん、こっちの方がいいと思いますよ」

 彼の持ち込んだ部品と元からあった部品は混淆され、今ではどっちがどうだと判別できない。だが、余った部品が持ち込んだ量より多くなっていることは明らかだった。


 外装を剥がれ、そこに屹立していたのは、一見、以前と同じ計算器。僕とジージはつまみやピン、移り変わるダイヤルや、ハンドルの回転具合を確認する。

結果、こう呻くしかなかった――何も変わらない。何ら性能に変化がない。


 計算器を構成する部品が掌に余るぐらい減ったにも関わらず、だ。

 

 ジージは唖然とした顔でウノの手を握った。一方のウノといえば、機械をいじれた幸福に満ち、自分が何を成し遂げたのか理解していないようだった。


「蛙は蛙。不細工は不細工ね」


 何も知らないニコが毒を吐いた。自分が話から弾かれていることにいらだったのかもしれない。彼女は僕から計算器を奪い、帰零レバーでダイヤルを全て零に戻すと、つまみを回す、ハンドルをぐんぐん回転させる。檸檬の山から腐ったものを選別し道端に捨てる果物屋のような、そんな手つきで。

 

 がちゃりがちゃりがちゃり。

 適当に繰り出された00003という数列がぐるりぐるりと積み重なり、表示可能な桁一杯に弾け飛ぶ。手前に回して、奥に回して。計算器が目を回している。おぉ、とウノが目を見開いて感嘆を漏らす。

 実に見事に、計算器は彼女の乱暴な操作に応えていた。

 

 がちゃりがちゃりがちゃり。

 余計な機構が無くなった分身軽になり、不具合の発生確率が減ったのだ。


 000000000003、000000000006、000000000009、000000000012、000000000015、000000000015、000000000015、000000000030、000000000032、……。


 信じられなかった。一瞬だけ表示された値の動きに僕は目を疑った。

「おい、まて、待て! ニコ!」

 

 びくり、と飛び上がり、彼女は静止した。無意識のうちに僕は彼女の華奢な肩に両手をかけていた。怯えたような、似つかわない表情で彼女は震えていた。

「今、何をした」

「何、って。ただハンドルを回していただけなんだけど……。でも確かに、変な手応えがあったかも………」

 

 僕は確かに見た。十五が三十に膨れ上がった瞬間を。

 その理由を見つけなければならなかった。


 僕とジージは計算器の機構を穴のあくように観察した。ジージが計算器の内奥の変化が良く見えるよう、その周りにあったキャレージやハンドルも全て外してくれた。汚れた油のついた手で擦ったせいで、ジージの鼻頭は黒くなってしまっている。

 

 そして、遂に僕たちはその理由を発見した。

「アルミ板に傷が付いている。軸棒が一度外れ、そしてまた元に戻ったみたいですね」

 

 と、僕たち二人の間に体を捻じりこみ、ウノが言った。


「そのせいで、一瞬、五桁のダイヤルの値をきちんと七桁のダイヤルの方へ落としてやれなくなってしまったようです。その代わり……驚いた! 七桁のダイヤル全てを貫く鉄棒にかかった歯車です。こいつが代わりに動いた。歯車比も何もあったもんじゃない。道理で歯が欠けていますよ。ニコの糞力だ」


 0000002――つまり、0が六つ並んで、2。七桁のダイヤルが表示する値に僕は釘付けになっていた。鳥肌が舐めるように全身を這って行った。


「そのせいで……十五が二倍になった…?」

「そうか、どうしてこんな単純なことに気付けなかったんだろう! 左ハンドル、これだ! 五桁のダイヤルが被乗数に、この無意味な左ハンドルの回転数が乗数になるんだ!」


 頭を掻き毟って、ジージが苛立ちと歓喜の混じった叫び声を上げた。


「今頃、こいつを作った哲学者は死者の国で腹を抱えて笑っているんだろうね。彼は分かっていたんだよ。だから、左ハンドルの動力を機構に反映させる軸棒を敢えて取り外しておいたんだ。嫌なやつだ。こいつは相当に性格がねじれていやがるぞ」

「何故、そんなことを?」

「何故って、当然じゃないか。ひねくれていたからだよ」


 そう、この計算器が受容されなかった時から、彼は耽々と復讐の機会を狙っていたのだ。

 同じように世界の秘密を知ってしまった者が、彼に追従しようとした時、どう困惑し、どう苦痛に顔をゆがめるか。

 男はその光景を想像し、ほくそ笑み、そして死んだ! 一文にもならぬ学問に身を投げながら、そんな陶酔を隠し持っていた、その男。

 僕には彼の歓喜と悲しみが目に浮かぶようだった。


「今すぐ、ヤシロの説教師を呼んできてくれ。ここで歯車の説教をさせてみろよ。僕たちが如何に踊らされたか、語らせてみろよ」


 僕とジージは腹を抱えて笑った。訳が分からないはずのウノも笑った。わずか10分。全てがなされるに充分過ぎる時間だった。


「つまり、何が起きたの?」


 やっといらいらを取り戻して、ニコが強い声で言った。僕は答えた。

「つまり、ニコ。お前が牛乳を温められるようになったのさ」

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