かがやける一日
ジージの病室は賑やかな教室となっていた。彼がそう望んだのである。
元は肺病み用の病室と見えて、窓は大きく、清涼感のある風をたっぷりと入れ込む。彼のベッドが一台、椅子代わりの木箱が三つ、机も鉛筆も無い貧相な教室だった。
「魔法なんて何の役に立つの? 私は必要だと感じたことが無いけどな。長々とした数字を書かなくたって、マッチを使えば、パンは焼ける、明かりは灯るわ」
何故、魔法の歴史を語ろうとしたか。
それは、右のようなニコからの挑発に対して反撃したいという気持ちや一二年次にあった一般教養での成績が良かったからという安易な妥協もあったが、僕を熱狂させたブラウワー先生や家庭教師への憧れもあったことが大きかった。僕はそがウノのために役に立つと確信できる。
彼らはかっこよかった。僕もそうなりたかった。彼にそうなってほしい。
僕は語った。言葉を尽くして。
「それは難しい問題なんだ。本人がそのつもりでなくとも、やっぱり世界は魔法を中心に動いていかざるを得ないんだ。これは強制的で、ある面悲しい話なんだよ。例えば、」
如何にして、転送システムとそれを軸にした海上交通網が整備されたのか、を。
如何にして、安価な穀物がクボの島に流入したのか、を。
如何にして、価格競争に負け、クボの農業がブドウとオリーブに傾斜していったのか、を。
如何にして、大陸で二十年も続いた戦争により穀物供給がストップし、クボに大量の餓死者が発生したのか、を。
ノックの音が三つ聞こえた。老婆だった。
「さあ、今日はここまでにしよう。日も暮れてきた」
僕はゆっくりと立ち上って、ジージの耳元で、わっ、と短く叫んだ。彼は生命の危機だとでもいうような顔で眠りから目覚め、ニコも木箱から転げ落ちた。
やれやれ。
僕の貴重な理解者は、皮肉なことに使用人でも何でもないこのウノ、彼しかいないのであった。
テーブル一つ、椅子が四つしかない質素な食堂の壁には、銀細工の堂々たる柄に入った装飾用の剣、そして名家の紋章と思わしきものが縁に沿って並べられた五角形の盾が掛けられてあった。
これだけの格式を得るには、僕の家のように三代では足りまい。治療代の代わりに得られたものならば、何と悲しい宝物だろう。
僕の使用人もまた、老婆から雑務を要求されていた。フェルは着替え調理場に立ち、料理が終わるまで、椅子に座り、僕と老婆は雑談をした。
――何てことはない会話。例えば、西海株式会社が破産したせいで、物品の輸送にかかる船を調達するのが難しくなっている。それに加え、急に契約が破棄されたりするものだから、捨てられ腐った大量の魚の悪臭がナカクボに満ちているという話。例えば、往来減少のあおりを受け、老婆馴染みの料理人が店をたたんでしまった。今、彼はナカクボの役場で臨時職員として、慣れない帳簿作りをしているという話。
老婆は言う。もう一度彼の料理が食べたい、だがあのレーズンがふんだんに入ったアシュレを味わえる日はもう二度と来ないのだろう、と。
フェルの手伝いで、ウノは自らの尾を追う若い犬のようにくるくる動きまわっていた。パンを配膳し、塩漬けの豚肉を切り出し、空いたグラスに水や酒を注ぐ。彼の奮闘はふんぞり返って椅子に凭れるうちの使用人とは対照的で、本来一番ふんぞり返ってもよいはずの僕が居た堪れなくなってしまうほどだった。
僕は彼の気持ちを理解できるような気がした。例えば夜の航海中、灯台の明かり、そして港の華やぎを見つけたら、僕は必至で櫂を漕ぐだろう。彼は寂しかったのだ。
だが、彼は少し頑張りすぎてしまったようだった。葡萄酒の瓶を抱えた彼が髪結いのゴムを咥えたままのフェルと正面から衝突したのは、ちょうど調理の終えた彼女が戻ってきて髪を解こうとしている時だった。ウノはその場に卒倒してしまった。フェルの薄い胸に頭をぶつけて怪我をするわけもないだろうに、彼は完全に茹で上がりのびてしまっていた。
罪深き女。倒れた少年を抱いて困惑する彼女の表情、こいつはある意味見もので、見事な深紫に染まったニコのスカートは実に芳醇だった。水を飲ませてやると、ウノはすぐに復活した。だが一方、ニコの怒りは不完全燃焼を起こし、食欲として僕やジージの夕飯に向かってしまう。パンはもう半分もない。フェルの保護下のウノに手を出せなくとも、主人の食事には手が出せる。彼女は一体誰に使えているんだろう、と。
残ったパンに肉汁を染ませ、口一杯に頬張り、何度も咀嚼する。古い小麦粉で作ったのか、弾力が強く、牛のモツのように噛みごたえがある。これはこれで悪くない。
ジージを支えて寝室に連れて行き、フェルが彼の按摩に向かうと、汚れた食器が残った。老婆に続いてウノが腕まくって食器を集め始めようとしたので、嫌な気配を察したのかその場から逃走しようとしていたニコの首根っこを捕まえ、僕はこう老婆に伝えた。
「皿洗いは僕たちが手伝います。ウノ君は頭を打ったのだから安静が必要でしょう」
「ええ。そうしてくれると助かるわ。久しぶりにお客さんが来て興奮し過ぎたのね」
ニコはまるで首の皮を掴まれた猫だった。そして遂に観念したのか、振り返り、キッ、と噛みつくような一瞥を僕にくれた。
―――――
宵の明星は虚しく、寂しげだった。
沈着とした月が夜に貼りつけられているからだ。贅沢にも幾億の星星が砕かれ無個性に散らされている。地の果てから空の向こうまで静寂が満ちていた。
静寂は青色だった。
映し出しだされる影は黒々と見えたが、それにしても濃紺に過ぎなかった。背の低く丸い鼠が岩陰から現れ、岩陰に消えた。
乾いた灌漑用の掘割を越えると、風で飛ばされてしまいそうな屋根が石井戸を抱えていた。井戸蓋を固定していたねじは製造年代が特定不可能なほど錆ついていた。
井戸水は冷たい。手が芯まで冷えれば、火照り始めた肌が肉を膜のように包む。
クボを出るまでは食器洗いは使用人たちがやっていた。クボを出てからは水を使わず砂で洗うようになった。アゴタは暑かった。わずらわしくて皿洗いがたまったっけ。
食堂と台所を隔てる薄い暖簾を捲る。思いのほか奥行きが無く、狭い。その為か、壁に一面に釘が打ち込まれ、その頭に木製のおおべらや銅のおろし金、鈍色の鍋蓋等、調理器具が掛けられている。まな板を置けるような場所はごくわずかで、そこに山盛り食器や汚れた鉄鍋がでんとそびえ立っている。
老婆は皿を貯めた水にくぐして糸瓜の海綿で擦っていった。そして汚れが取れると、水で濯いでニコに渡す。それを僕が分別整理し、あるべき場所にしまうのだ。
「ウノ君は頑張り屋ですねえ。でも、少し自己主張が苦手なのかもしれませんね」
「ああ、そうねえ。ウノ。ウノの性格がああなのは私のせいなの」
「長男には躾を厳しくし過ぎるもの聞きますが」
「いえ。そういうことではなくて。当時、私は助産の知識がなかったの」
理解できないでいる僕の様子を察してか、彼女は説明を付け加えてくれた。
「あの子の母親はナガイの生まれだったかしら。逆子でねえ。頭が出てこなかったから引っ張るしかなかったのよ。きっとそのせいだわ。産婆なんて出会ったこともなければ、存在も知らなかった。常識の必要無い家に生まれて十六で家を出たから社会経験なんてその程度なのよ」
長男。ウノは長男だった!
僕は後悔した。
それがどういう意味をもっているのか、理解した。
思い出す。そうだ、彼女は消毒屋だったのだ。それとも……。いや、それよりも、
何故、ウノは長男になり得たのか?
老婆がまた皿を流した。藍で絵付けされた平たい大皿で、渡されたニコは水気を拭くのに精一杯の様子だ。必然的に、僕の手は空く。
老婆が手を休めた。この静穏な夜にコンサティーナの音が聞こえてきたのだ。按摩を終えたフェルが弾いているのだろう。
「少し、あなたの授業を見せてもらいました」
「どうでした?」
「久しぶりに人を殴りたいと思った」
老婆がニコッと歯を見せたので、冗談だと分かり、ひとまず動揺を抑え込むことができたが、似つかない言葉が僕の緊張を天辺まで持ち上げたことは言うまでもない。
「そんなに下手でしたか? 確かに落後者を出してしまいましたけど……」
それとも、消毒屋に言及しそうになったからですか?
「ごめんなさいね。変なことを言って。そういうことじゃないわ。実はウノを貴方たちと一緒に下山させようと思っていたの」
「はあ、それは・・・」
「いいえ、勘違いしないで。これは、今に始まった話じゃないわ。ずっと前からそんな考えが私の頭にはあった」
ニコはやっと拭き終わったようで、大皿を僕に渡してきた。
「そう思うとね。あの子を盗られてしまうような、そんな気がしてきてしまうの」
ニコから渡されてきた大皿は重かった。僕はこのこわれものの片づける場所を求め、狭い台所をさすらう。ない、ない。どこに行けばいい。すれ違おうとして背中を擦る。
代わりに答えたのはそのニコだった。
「そんな計画やめればいいじゃない。一緒にいたいなら、そうすべきよ」
彼女はぶすっとした声で言った。不機嫌なのが手に取るように分かった。
「未来ある子供がこんなところにいてもどうしようもないわ」
「どうしようともあるわ」
鼻息荒くニコは答える。また新しい皿を投げるように僕に渡してくる。
否定するでもなく、柔らかく、老婆は答えた。
「何と言うか、これは不可避の選択なのよ。他にいくらでも選択肢はある。でもその中のある一つを選ぶしかないというか……」
「それ矛盾していない? 選択し得ないなら、選択肢があるとはいないでしょ」
「そうねえ。でもね、ニコちゃん。あなたにも分かる時が来るわ。人間生きていれば、それを避ける方法がいくらあっても、目に見えて不幸だったり、くすんでいたり、湿気ていたりする道を、どうしても選ばなければいけない時が来る」
それって悲しいことよ、と老婆はまた皿を水にくぐして言った。
「でも、私はこうも思う、それって、凄いことじゃない? って。自分以外はその選択を避けることができるのよ。いとも簡単にね。自分だけができない。自分だけがそれをできないの。だから、きっと私はそうでなくちゃいけないし、ウノもそうでなくちゃいけないし、それでいいんだと思うのよ」
「ついさっきうちのご主人を殴りたいって言ったじゃない」
「難しいものよ。人間って」
老婆の顔には上品さがあった。若かった時分はさぞかし美しかったのだろう。その気品を最大限に武器として用い、丁寧さを加え、高ぶりや乱調が消滅した先にある無為な微笑みが作られると、さっきまでの威勢もほろろにニコは完全に黙ってしまった。万事心得ている――問答無用に包み込んでくる優しさは恐ろしくさえあった。
しかし、奇妙ではないか。明らかに彼女は語り過ぎている。他人に過ぎぬ、僕たちに対して。
「ごめんねえ、変なことを長々と話して」
ちょうど皿洗いも終わるところだった。僕が最後の食器を片づける前にニコは台所から去っていった。向こうではまだフェルがコンサティーナを弾いていた。
あれは牧歌的というには少し物悲しい歌だったな。確かこんな歌詞ではなかっただろうか。
『ありきたりで かがやける一日を
たった一握の 草の葉を
どこにでもある 干し草を
通り過ぎる 馬の群れ
どこまでも続く 耕された畑を
僅か一粒の 小麦の実を
もう一袋だけ 撒くべき種を
ごはんを食べる 子どもたち
ちっぽけな 人生を
ありふれた 言葉を
平凡な 愛を
ああ、かがやける今
……』
僕たちが寝泊まりすることになったのは離れで、山小屋を基礎とした大きな部屋(建物)だった。ニコは濡れた服を脱いでいるところだった。彼女は僕の存在を無視して着替えを終えると、細く脆い体を布団に包み窓の外の月を眺めた。
「あの人、馬鹿ね。尼さんみたいな臭いがする。なんでもっと素直に生きられないんだろう」
「いや、人間はあれで精一杯なんだ。そんなものだよ」
「そんなものかな。そんなのは嫌」
見ずとも、僕には彼女の頬が膨れるのが分かっていた。
『』内の歌詞
「Just Another Diamond Day」より
作詞作曲 Vashti Bunyan 1970 日本語訳はオリジナルです。




