生姜、蜂蜜、葛粉
「よう、フェル。ニコに字を教えて正解だったな」
ジージは実に柔らかそうなベッドで寝ていた。顔色を見る限り実に健康そうで、ここまでの道中が馬鹿らしくなるほどである。
壁際にはこん黒く汚れたニコがふてぶてしく椅子に背中を預け、腕を組んでいる。清潔で衛生的な部屋だったが、彼女の服は泥にまみれ、染み一つという塩梅だ。
僕はジージの飲んでいた生姜と蜂蜜の効いたレモネードを一口ばかりもらった。唾液腺が驚く程の濃さ。酸っぱさに凹んだ頬の感覚が戻れば、爽やかな辛さをもった、まろやかな甘み。ズルイやつ。僕の心配を、金か、労働か、愛想をもって返還していただきたいものだ。
フェルはジージの様子を見て安心し、気疲れがどっときたのだろう。深い息をつき、スカート裾の捻じれもそのままに、へたり椅子に座りこんだ。
「お前、胸元のボタン、変にズレているぞ」
指摘を受け、フェルがボタンのずれを直すため胸元を一旦開放しているちょうどその時、少年が一人、部屋に入ってきた。大陸人らしい小麦色の丸い頬。男の子で短髪なのに髪止めをし、フランネルのシャツ、つんつるてんのズボンを穿いている。彼はフェルの乱れた格好を見て、顔を赤らめ、恥かしげに俯いた。
「Dさん。来ていただけますか。母が呼んでいます。お金の件だそうです」
変声期前の澄んだ声。
彼に馬車の応急処置をしてもらい、僕らはなんとかここまで辿り着けたのだ。
とりあえず、ジージは大丈夫なようだし、フェルが傍にいるのなら尚更そうだ。こう判断して、僕は部屋を出て、彼の言伝て通りに建物の奥へと進む。
家は継接ぎ、とでも言おうか。増築に増築を重ねた結果だろう。ここから先は十年前の造り、そこから先は二十年前の、といったように材質の違いや変色もあって、奇妙な線が天井や廊下、壁に走っているように見える。
山岳部によく見られる厚い青瓦を背負った一階建て横広の共同住宅がコンクリートの壁にめり込んでいる。それでいて、中から見ると、腐りかけ黒ずんだ鎧ばりが目立つ仮設小屋だったりする。
あまりにもちぐはぐで、雑。そのくせ自信満々で、威嚇するようにこちらを睨み返すのだ。
廊下の突き当たり、建物の一番奥にその部屋はあった。
さて、何をどれだけふんだくられるんだ?
覚悟しろ。おそらく、相手は……。
僕は唾を飲み込む。弟切草特有の薬品臭が漂っている。
ノックをして扉を開けると、まず左右にそびえる背の高い本棚が視界に入った。箱におさまったクロス装の本たちが並んでいる。中央にはマホガニー材の机が鎮座しており、その向こうには背をしゃんと伸ばし椅子に座る老婆が見えた。
彼女は僕を認めると手に持っていた手帳を机の上に置き、鼻先にずり下がった老眼を人差し指で持ち上げた。勧められて椅子に座る。彼女も少年と同じ大陸の人らしいことは外見で分かったが、それ以上にその理知的な雰囲気で肉感的に感じることができた。目に見えぬヴェールで覆われた彼女の瞳は蒼く輝き、多くの秘密を語っていた。
老婆は僕を穿つように見つめた。何かが欠落した微笑を浮かべ、一言も発しないまま。僕は必死にその意味を理解しようと努めた――でなければ、不安で仕方なかった。
「本当に大陸生まれではないの? やはりそう見えないけれど」
ようやく発せられた声には、意外にも深い情愛の念が込められているように感じた。
老婆は肘をつきながら、唯一の飾り気である指先にはめた銀の指輪をはめ直した。瞳と同じ色のアメジストを抱えたビショップ・リングだった。
「ええ、母の生まれはそうですが、僕の生まれは違うんです。母はヤシロ出身でした」
「ヤシロ。……そう」
彼女の沈黙には深い含みがあった。何かを見透かされたような気分になり、僕はどきりとした。
老婆はまたずり下がってきた老眼をあるべき場所に戻した。
老婆は立ち上がると、後ろの窓を開け、ウノ、という名前を呼んだ。外で打ち水を撒いていた少年は桶を持ち、建物正面の方へ向っていったようだった。
老婆は窓を閉め、再び僕に向き直った。微かに熱された岩に焼ける水の感じが入りこんだ。
「到着早々、下世話な話でごめんなさいね。お金の話なんだけど、そんなにはいらないわ。何日あの人がここに居るか分からないけれど、ここを出られるようになったら費用は精算しましょう」
僕は安堵しかけるが、そうことが上手くいくはずもなく、老婆は、ところで、と続けるのだった。
「唐突なお願いで申し訳ないのだけれど、あの子に勉強を教えてやってくれないかしら。二日間でいいから。あなた、アゴタで大学を出ているんでしょう?」
えぇ、と困惑で喉の奥から変な音が出た。いやいや、唐突にも程がある。
「確かに大学にはいましたけど、僕は中退ですよ。そんなこと、無理です。そもそも、そんな話を誰から聞いたのですか」
「あのニコって子が自慢げに吹聴していたわよ? 仲がよろしいのね」
まさか、と思う。僕の困惑は混乱へと転ずる。
ニコが? あの娘が陰で僕を自慢していたって? 想像できない。陰でこそこそと僕を小馬鹿にするさまなら、ありありと想像できるのに!
頭がくらくらしていた僕の後ろで、扉が開いた。そのウノという少年ははにかみながらぱたぱたと駆けてくると、僕に対し勢いよくお辞儀した。
彼は既に僕の生徒になった気でいるようだった。
「困ったなあ。ホントにやるんですか?」
「ええ。お願いします。二日間、簡単にで構いませんから。もちろん、寝場所、食事は提供させていただきますよ。どうしても駄目だと言うことでありましたら、それはそれで仕方ありません。正規の料金を徴収させていただきます。安くはないですよ」
つまり、初めから選択肢はなかったのだ。僕はいよいよ観念し、クボ人らしくなくこんなことを問う。
「そういえば、何とお呼びすればよろしいですか?」
「忘れてしまったわ。長い間使っていないもの。この土地が登記されていると思う?」
彼女は手をひらひらさせて答えた。
―――――
「最初の魔法が生まれたときの話を知っているかい?」
三人の生徒が木箱やベッドに腰掛けている。僕の問いに全員だんまりを決め込む。
「今から数百年前、ヤシロの説教師がアゴタに呼ばれた。当時のアゴタはオアシスにすがる貧しい国家で、ヤシロの方がはるかに栄えていた。だから、今でもヤシロの人たちはプライドが高いんだよ。アゴタは隣のオアシスに侵攻する際、敵に打ち勝つため、説教師に呪いを依頼した。考えてみれば、これはおかしな話だ。当時のアゴタ人は宗教というものを何にも知らなかった。ヤシロの宗教家に呪術の能力など無い。教義の体系に『呪い』というものが存在しないからね。だが、期待を裏切るわけにもいかなかった。広場には既に縛り首用の台が設置されていた。結果はともかくすることに意味がある。真摯な姿勢が必要だった。彼は難解な三次関数を三つ並べ、適当にヤシロの童謡もどきを歌いながら、解いてみせた。庶民の知らないテンゲンタ語でね。それで、連中を欺けると思ったんだろう。こんな塩梅に。
こねこちゃん こねこちゃん
私の毛布はどこ?
海に隠した? 砂に隠した? 岩に隠した?
私の知っているところに?
当然の如く、彼流の呪いは失敗した。神の加護を受けたはずの1300人の男たちは砂漠の真ん中で包囲され全滅した。だがそのとき、」
「そのとき?」
興味に目を輝かせたウノが、そのゆっくりとした調子で話を急かした。
「アゴタの裁判所近くに今でもその謂れの露店カフェが残っている。その店定番の……まあ、何というか、そのせいで定番になった料理のあるものが紛失したんだ」
ジージが何かを言いかけ、ニコが肘で打った。よく意思疎通ができている。
「話を続けていいかい? 正解は葛粉だ。まあ、とりあえず何故か説教師の掌には白い粉があった。理由は誰にも分からない。ヤシロに自生する葛の根を挽くとアヘンによく似た粉末になる。当時はあまり流通していなかったけどね。今もだが、アゴタは建前としてはアヘンに非常に厳しい。最終的に、次の日早朝、説教師は極刑になった。それであの店の定番は極刑カレーだ。僕も食べたことがあるが、とろみがあってなかなか旨いものだったぞ」




