蛇苺
家に戻り食堂に入るとジージが女たちを前にして演説をぶっていた。話は関係者への謝辞から始まったようで、ちょうど僕を称えているところだった。
その功績とは減法の試行に補数の概念が応用されていることを発見したこと、らしい。女たちのうち、幼く見える方は酷く退屈そうな表情であり、若く見える方は手を前で組み謹聴している。
「と言うわけで、やっぱりちゃんとしたところでお勉強された方はやはり……」
目ざといニコは僕の影を見つけるとすぐさま投げやりな言葉をかけてきた。
「お帰りなさいませー」
話を切り上げさせるだしに主人を使うとは。
「ああ、Dさま! お待ちしておりましたよ。ささ、早く早く!」
さっきまで僕が紅茶を飲んでいたテーブルの上には彼の――彼に言わせれば「私たちの」――複製品が既に、栄光あるデモンストレーションを控え、設えてあった。
使い方は単純である。
例えば、a+b=c を考えてみよう。
まずダイヤルのつまみを動かし九桁のダイヤルをaの値にする。そして、箱の右側面から突き出したクランクハンドルを時計回りに一回転、aが左下にある十桁のダイヤルに反映される。次に、bの値に九桁のダイヤルを調整し、もう一回転、これでcの値が右下にある十一桁のダイヤル得られるわけだ。減法の時は二度目のクランク方向を逆時計回りにすればよい。
乗法のやり方は不明だったが、例えば、10×3=10+10+10なので、枠内の値を000000010に調整し三回、右回転させればよかった。似た方法で除法や小数点の計算もできた。
もちろん、問題もあった。例えば、乗法において153×148などという計算はかなり骨が折れる。148回クランクハンドルを回す時間より、紙と鉛筆で計算した方が早いのは明白だろう。それでは何のための計算器なのか分からない。
「楽しみですね。ねえさま」
きらきらと目を輝かせるジージの後ろで、先程の無関心さとはうって変った様子のニコがねっとりと言った。
彼女が期待しているのは鉛のような……いや、それにしても、ねえさまって呼ばせているのか、あいつ。
困惑が顔に出たのかもしれない。僕の心を見抜いたかのように、フェルがまさしく十八娘の笑みを僕にくれる。
「わかったよ。うーん。とりあえず、一+一を計算してみようか」
000000001
そして、クランクハンドルを時計回りに二回転。
ガチリ。がちゃり。
四つの顔が寄せ合って、八つの目が十八つの数字の変化を見つめる。
「あれ?」
回答は予想とはまるで違うものだった。
「ふーん」
ゼロ。
計算器曰く、答えはゼロだった。
「これはまた、大分哲学的なお答えですね」
この機械を作った者の出自を知らないくせに――難しそうな単語を並べただけなのだろうが――ニコはある意味、的確な嫌みを僕たち残し、庭手入れに戻っていった。
彼女の揶揄もジージの鼠色の耳には届いてはいないようだった。彼は見るも哀れに消沈し、がっくりと肩を落とす。あまつさえ心配げな表情でフェルが頭をポンポンと叩き慰めたものだから、いよいよ子供に見えてくる。
「申し訳ありません。糞餓鬼の前で恥をかかせてしまいまして……。全て私の責任です。内部の鉄筆が取れたのかもしれません。すぐに直してきます……」
ジージはそんなことをぼそぼそ言うと、計算器を抱えまた自分の工房へと引き返していった。丸まった背中は冬眠明けの呆けた熊のようだ。先程はあんなに軽そうに持ち上げた箱が、今度は心なしか重そうに見えた。
「大丈夫かな。ジージのやつ」
長年連れ添った者として代弁しなければならないと思ったのだろう。フェルは僕の顔の方に振り返り、優しさを湛える露草色の目で強く頷いた。
彼の背中が坂を下っていくのを二人で眺めていると、大の大人をへこませた張本人、ニコが戻って来た。うちで働くようになって以来、彼女の顔は血色が良くなり、また少女らしい丸みを帯びたものになりつつあった。それが打ちのめされた五十男の固く黒ずんだ皺と対比され、僕たちの間にまた憐れさが増すのである。
「Dさま、このようなものが届いておりました」
丁寧な口調とはちぐはぐに、彼女は一枚の手紙を乱暴に突き出す。
「おいおい。もう少し丁重にな。お前が盗んだ金を立て替えたのは誰だ? 警察に罰金を払ったのは誰だ? 寛大な主人に感謝しろよ」
「そのようなことはご自分でおっしゃることではないかと」
その真面目くさった顔。
フェルも苦笑いするしかない。落ち着け。既にさんざん油を絞られたのだから、僕が小言を言うのもかわいそうだろう?
手紙の裏には三つの数式が書かれていた。
それ以外何も書かれていない。
差出人は不明だったが、その人物が父の工場に何らかの形で関わっていたことは確かだった。手紙の表にこの家の住所と、「Aさま」という古い知人しか知り得ない名が書いてあったからだ。
悪戯にしては、まるで意味をなさぬものだった。そもそも今の僕は悪戯をされるに値する人物でもない。
数式の一字一字の背後には、悪意にしろ、善意にしろ、何かしらの意図が潜んでいるはずだったが、この限られた情報からそれを読み取ることは不可能だった。
せめてその数式がどの分野に属するのか、それが分かりさえすればある程度正解へ近付けたのだろう。だが、本の類は全てアゴタに置いてきたし、いまさらのうのうと先生や友人に照会し、手を煩わせるのも申し訳ない。
「悪戯かな。手紙箱に入れといて」
余計な不安は煽らない方がいいと思い、そんなことを言って、手紙をニコに返す。分からないことは分からないのだ。思い悩んでもしょうがない。
「分かりました。了解しました」
「ああ、わかった。頼むよ」
被害妄想かしらん。こんな何気ない二言にも心がさざめくのは。手紙箱に手紙を入れるため、彼女は食堂を出る。
―――――
カミクボにフェルと二人で契約だ何だのと雑事をこなして、シモクボに一泊し、帰ってくると、食堂のテーブルの上に書置きと地図がのっていた。
「じいさんがマムシにかまれた。すぐ消毒屋につれていって、ヒルで毒をすいだしてもらったから大丈夫だけど、はずみで腰をうったみたい。二日はあんせいがひつよう。あと、ひまつぶしに計算器をもってきしてほしいって」
内容を見たフェルはうろたえ、買ってきた南瓜を抱えた腕からぽろぽろとこぼした。
「軽く摘めるものを作ってくれないか。出発の支度しておくから」
フェルはこくりと頷いて、台所にぱたぱたと駆けて行く。
ジージはニコを伴いナカクボに行っていた。街の手前の頭にかかりそうな森林地帯でやられたのだろう。計算器の部品購入のため、彼は行ったのだ。
僕は野菜を拾い集めながら、窓の外を見た。残暑。夏の面影に蝉が鳴いていた。
寝起きのように乱れた髪は彼女の気持ちだった。一張羅を慌てて着込んだのか、フェルの胸元のボタンは上下に一個ずれていた。後ほどに来た速達転送を後生大事に抱えた彼女にそんなことを言うのは気が引けた。僕は指摘できなかった。
「で、どこだっけ。医者は」
自分が怪我したわけでもないのに、彼女の顔は青ざめ、何も聞こえていないようだった。医者(?)から直接送られてきた速達には様々なことが書いてあったが、内容は要するに、ニコの書置きと大して変わらなかった。彼は大丈夫だと言うことだ。
「おい、大丈夫か。地図を見せてくれ」
ようやく気がついたフェルは、ぐちゃぐちゃになった地図を胸元から慌てて解放し、僕が見やすいように見せてくれた。
「もう曲がるはずなんだがなあ……」
奇妙な地図だった。地図は幹線を曲がって、山を登れと言う。道などあっただろうか。何度も通った道だが、そんなものがあったかどうか……。
僕は馬を止めた。辺りをぐるりと見渡してみる。
木、木、そして、木。森。
幻術の最中で、神隠しにあったようだった。
「………!」
突然、僕の袖をフェルが引っ張った。彼女の差す指先には、微かに人工物と分かる柵が内陸の方に続いていた。
馬車から下りて確認すると、確かに柵に沿い道らしきものがある。繁った植物で道と言えるか怪しいものだが、なんとか馬車でも通れそうだ。
柵に絡んでいたのは、実の無い蛇苺だった。
道に傾ぐ植物は捻じ切られた針金で人為的にゆわってあった。だが、その植物も、道を登り腐った卵のような臭いは強くなるにつれ、減っていく。道はいくつも分岐し、その分岐の真ん中に、それぞれ「空」やら、「入」やら、まるで連れ込み宿のような表示板が立っている。鼻につく臭い、荒涼とし始めた景色とも相まって、どこか猥雑ながらも寂寞とした、言葉を吐くのが羞恥で憚れるような雰囲気があった。
奥に進むにつれて人為的に舗装された道になってきたが、凸凹の石畳で、良い道とは言い難かった。
僕たちは何度も揺さぶられた。老朽化著しい馬車と馬はともに悲鳴を上げ、僕の腰と尻も崩壊しそうになる。優先してジージに車軸を直してもらうべきだった。
しまいには、ごどっ、と嫌な音がしたかと思うと、馬車はほとんど動かなくなってしまった。
目的地と思しき建物は目視できず、まだ距離があった。
僕はフェルの手を取り、彼女を馬車から下した。車輪のリムは歪み、ハブはいかれた車軸のせいか、ガタガタになっていた。馬はもはや絶え絶えで、耳をふるふるさせて疲労を訴えていた。
「どうやら、歩いていくしかないようだね」
僕の腹が鳴ったのはそんな時だった。
間抜けな程、タイミングが良かった。
フェルは最初きょとんとした表情をしていたが、僕の状況が飲みこめると、あたふたと荷台から網籠を取り出した。中身はチーズと茹で卵を挟んだパニーノだった。
「ジージは大丈夫らしいし、ここでランチしても構いやしないさ」
彼女の気が咎めるのも分かるが、一旦落ち着いた方がいいし、現実腹が減っている。
僕は腰掛けるに手ごろな岩を探し、ハンカチを敷いて、フェルを座らせた。彼女は膝に網籠を置いて、海老を挟んだパニーノを取り出す。
「ああ、このリムはもう寿命ですよ。スポークも外れそうだ」
顔を上げると、見知らぬ子供が一人、目の前の岩場に立っていた。




