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D、もしくはクボの街々  作者: ベイズ335
そして小麦はことごとく失われたと
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確信した夢想家のサブグリット

「昨夜未明、カミクボ沖合二百メートル上空に突如発生し粉砕された高級住宅は、アゴタ在住の投資家、A氏の邸宅であることが判明した。また、海岸に打ち上げられた遺体群も、鱶に齧られなかった体の部位や時計等の遺留品から、彼の家族と使用人であることが確認された。西海株式会社の株価暴落に端を発する金融混乱がアゴタで発生した先月十九日以降、A氏一族の行方は分からなくなっていた。関係筋によると、A氏は金融資産の八割を消失、邸宅は既に抵当に入っていた。また、A氏は代理人を通じてナカクボに広大な土地を購入しており、警察はA氏が邸宅をも含めた資産の海外移転を図り、演算に失敗したものと見ている」


 ははあ、ニコのやつ。


 四つ折りにした新聞をテーブルの上に投げだして、僕は食堂の南に面している窓を開けた。というのも、カラメルの焦げた匂いが充満し、耐えきれなくなったからである。フェルがそんな初歩的なミスをするはずがない。だとすれば、またニコが台所を手伝っている、という結論に辿り着くのは当然だろう。


 しかし、それは物事のある一面を見ているにすぎない。

 失敗は次の成功を生む。つまりだ。鼻を悩ます悪臭とともに、もう一つ喜ばしい確信が僕にはあったのである。それは、今後この家に美味しいクレームアンヴェルセを作られる人間がもう一人増える、ということ。


 吹きこんでくる秋風が心地いい。庭の金木犀が賑やかな存在感を与えている。心地よさに誘われて僕は窓から身を乗り出し、花壇を眺めた。造作主の思いを一杯に受けて特に自己主張が強いのは一列に並ぶ藍色の花たち、リンドウである。

 フェルはこの花の手入れに大変な時間を注いでいた。庭の花壇には例のチューリップやらダリヤやらも植えられている。だが、リンドウという花には特別な思い入れがあるらしい。確かに、あの色は彼女の蒼い瞳はもちろん、白い肌にもよく映える。


 小さな窓口に殺到していた苦い匂いは遠くに去り、今度はあるべき甘みがほんのりと漂ってきた。僕は思いのまま、空にあの鼈甲色の菓子を描く。そのとき、


「新聞は片付けておきましょうか?」


 と、後ろから声をかけられたので、僕は体を戻して、

「ん、いや別にいいよ。まだ読み切ってないし」

 と、答えた。そこにはトレーを持ったニコの姿。珍しく髪が梳られていて、やけに慇懃である。トレーには紅茶が載せられてある。


「例の事件の記事ですか?」

「ああ。死んだのはアゴタの元金持ちだって。この件で儲けたのは、話を持ちかけられた似非魔法使いだけなんだろうな」

「はあ、そんなものでしょうか」


 何気ない朝の雑談。彼女は昼食後の一服を僕の眼前に展開し、代わりに空いた皿をテキパキと片付ける。そして、軽く一礼すると、実に我が家の使用人らしい格調高い歩みで――ここは特に強調すべき点だ――台所に戻っていくのだ。


 変なの、と思ったが、すぐに謎は解けた。台所と食堂は通行用の穴がある一枚の壁によって分たれている。無駄に食堂が広いのではっきりとは見えないが、その境に、こちらをまんじりとして見つめている者がいるではないか。ニコはその人物のもとへ一直線に戻る。そして、手前で立ち止まり二言三言言葉を交わすと、台所の方へすいこまれるように消えていった。


 あいつ、フェルに絞られるようなことしたっけ?


 ふむ。よくよく考えてみれば、昨日の記憶が曖昧である。空かした小さな酒樽にジージがつまずき転んだところまでは覚えている。

 だが、その後が不明瞭だ。そのあたりで何かがあったのかもしれない。常に飄々とした表情で、次の一杯を、その次の一杯を飲みくだしていたニコ。水道が整備されておらず、衛生的な液体がアルコールしかない場所で育った娘。アゴタの同級生たちに陶冶された僕はともかく、長らくぬるま湯につかっていた使用人たちがかなう相手ではなかった。


 このように穏やかな朝を迎えられるようになって以来、僕はどうして落ちつかない。僕が有閑階級的な生活を送られていたのは四年前までのこと。アゴタにおける留学生活、ここ最近の劣悪な労働、僕の価値観は根本から崩され、新しいものになっていた。

 なので、こういうように何もすること無く、使用人に傅かれ、お茶を飲んでいると、言いようのない焦燥のようなものがこみ上げてくるわけだ。


「当主とはそのようなものでございます」


 と、馬鹿に丁寧な言葉遣いでジージに言われても、体が納得しない。

 一週間前、楽器製造助手の職を辞めた。

 理由は二つ。一つ目は僕の所有する工場敷地が売れたこと(正確には買戻特約付きの売買契約だ)。最悪の想定よりは大分ましで、ある程度の金が入った。二つ目は――これが一番重要なのだが――「やるべきこと」が見つかったこと。僕は無性に焦っていた。


 今回手に入った金とフェルの小さな花壇から得られる収入で一生を細々と生きることは可能だった。だが、それは、あまり魅力的な選択に思えなかった。僕には妄想のような、それでいて、妙に現実味のある野心があった。気分は常に高揚し、確信した夢想家のような力強さがあった。

 僕には限界が見えている、何とかしてそれを越えなければならない。計算器の開発、販売。容易くはない。

 努力はしていたが、机上の運動は実感しにくいものだ。傍から見ても何かしているようには見えないだろう。


 物を作り、そして売る。これだけのことが如何に難しいか。

 理想的な計算器が備えるべき機能とは? 買うのは誰? どこで売るの? 一点と一点を渡す一連なり、価値の鎖。十八の僕にとってこの問題は、考えの糸口を探し出すことさえあまりに難しいものだった。

 机の前で呆けることしかできない時ほど自分が無力で馬鹿に思える時はない。


 僕はしばらく考えこんでいたらしい。


「いかがされました? カップ持ったまま凍っていますよ」


 ジージの声だった。彼は窓枠に肘を乗せこちらを見ていた。

「小屋に来ていただけませんか。一応の試作品ができましたので」


―――――


 機械のことならばジージに任せるがいい。自分のことをよくカミクボの貧農と卑下する彼ではあるが、実のところ優秀な時計職人の息子だったそうだ。


「そろそろ長袖が必要だな」


 並んで歩きながら、僕たちは坂を下り、ジージの作業場へ向かう。陰鬱に落ち込みがちな森はうららかな秋日に干され、パステル画風の息遣いに満ちている。


「良く言えば芸術品、悪く言えば制作者の自己満足といったところでしょうか」

「と、言うと?」

「構造が複雑すぎます。歯車を一体何個使ったことか……。作ったやつは正気じゃありませんよ。眺めすぎたせいで、空を見ても歯車が浮かんで見えるようになってきました。そう、世界は初めから神様の創った歯車通りといった次第に」

「ヤシロの説教師が聞けば泣いて喜ぶぞ。とりあえず、お疲れ様」


 計算器の複製という作業はジージという存在が前提となっていた。それほどこの計画において、彼が負うところは大きかった。彼は嫌な顔もせずに僕の野心に付きあってくれた。この素晴らしい使用人を雇ったのはおじい様だ。こういうわけで顔も知らぬご先祖様に今僕は膝を折って感謝するのである。


 ジージの作業場は元は通いの工員たちが馬を留めておく小屋だったものを改造したものである。厩舎の作りは丈夫だったし、近頃茶色の着色ニスを塗り直したので、それほど見栄えも悪くない。工場に続く道を左に逸れ少し進んだところ、売却した土地と手元に残した土地の境界近くで、木に囲まれた円形の小さな野原の中心にある。工員たちがまだたくさんいた時分、僕は年配の熟練工に命じられ、蹄鉄投げ遊びに使う一式をここによくとりに来たものだった。

 重い蹄鉄を何本も腕にかけて、よたよたと運んでくる幼い主人。その様は彼らの目にどのように映ったのだろう。


 つまずき、ななめに転がっている三輪。うち捨てられ錆ついた鉄製のスコップ。傾いた直木。破れた柵……。全てヒメジョオンの大群生に飲みこまれようとしている。食い散らかす馬ももういない。外敵不在の中、のびのびと育つ彼らを蹴散らしながら、その先へ、厩舎の中へ入る。


「ここ三日で更に散らかりました。足元に気を付けてください。いやあ、いつもはきれいなんですよ。悪いのはあの変質狂の哲学者です」


 彼の言う通りだった。馬が並んでいた固い土の地面には、試作品やそのできそこない、サンダルの革を突き破ってしまいそうなガラスの破片や釘が散乱し、危険極まりない様子である。それら危険の向こうの一段高いところに板張りで小面積の床があり、そこが実質的な彼の作業範囲となっているようだった。


「ああ、いつもはきれいだもんな」


 僕の皮肉に小さく笑いながら、ジージは板張りの床にあがる。僕も付いていく。


 飾り気の無い机の上には例の計算器の複製があった。真鍮製の左右に取り付けられた取っ手。9×10×18、三つのダイヤル。つまみに、用途不明の左ハンドル(回しても作用するものがない。ただの予備?)。丁寧なことに箱にはニスまで塗られている。


「おお、全く同じじゃないか」

「どうぞ動作も確認してみてください」 

 箱に使われた木を調べるためだけにわざわざナカクボの材木屋に尋ねに行ったという執念は見事な程にその完成度を高めていた。鉄盤、段付歯車、軸、等々も、先の例のように元の材質が特定され、使用されている。昔個人によって製造されたものと同じ規格の物があるわけもないので、一つ一つ手作りである。ダイヤルに掘られた溝に到るまで、職人としての気概が感じられ、溜息が出んばかりの美しさ。


 ガチリ。がちゃり。ガチリ。がちゃり……。


 ダイヤルのつまみを適当に回し、加法、減法。僕の指した数字同士が組み合わさり、打ち消し合い、新しい数へと変わっていく。


 九桁の枠一杯に使って、僕は新しい数を生み出していく。あまりにも単純な形而上の遊び。僕は耽る。例えば、


001234567+002345671=003580238


 ふと思い出したのは、父が教育係として雇った家庭教師だった。精悍で、どこか達観したような彫りの深い横顔。母の遠縁だった彼は敬虔な信仰者でもあって、あらゆるものを介して神と繋がることができた。

 初めての授業、彼は僕にコンパスと三角定規を与え、方眼に円を描くよう指示した。その円周上のある任意の点を中心とし、先の円の中心を通る第二の円を描く。二円の交点を中心に次の円も同じように描く、次の円も…。中央の円の周りに六つの円が生まれ、正六角形を抱え込む形になる。更に円を何個も描かせ、彼は言った。さあ、辺の真ん中を一つおきに結んでこらん。芯を置く。線を引く。そして僕の掌で星が輝く。正三角形二つからなる六芒の星。方眼の空が星々に満たされてしまうのに時間はかからなかった。星と六角形のみがパターンとして繰り返されるサブグリットの世界に魅了されてしまった。あの無窮さ、神秘。あの美しさを知らしめるため、僕は夜通し円を描き続けたのだ……。


「素晴らしいじゃないか!」


 恥ずかしそうにジージは頭を掻く。

「そうですかねえ。よく分からない機構がたくさんありますし、不十分です。そっくりそのまま作るだけなら、昨日、小娘に飲み負けたような私にでもできますが……」

「相変わらず卑屈なやつだなあ」


 どうやら、彼の自尊心を取り戻してやらなければならないようだ。


「まあまあ。そのうちやりもがわかるようになるさ。そうだ、それよりこいつを女たちにも見せてやろう。そうすればジージ、昨日の汚名を返上できるかもしれないぞ」


「ははぁ」

 との感嘆と同時に、大きく開かれる目。眉はへの字に、頬は柔らかな円になり、口角がつり上がる。まるで悪党が悪だくみを思いつく、戯画の一場面のようだ。


「なるほど。いいですね。いっちょ、私がいかに優秀か見せつけてやりましょう」


 そんなことを言いながら、彼はひょいと計算器を持ち上げると、待てないと言わんばかりにゴミの山を走破して外に出ていってしまった。主人を置き去りにして、である。慌てて追いかけ、外に出ると、そこにはヒメジョオンがなぎ倒された跡だけ。


 一直線に家へと向かうジージの轍を踏む。しなった茎が音を隠し、陽気な空気が更にその沈黙を強調していた。

 僕は無性に他人の声が聞きたくなって、挙句には、自分の声でもいいから聞きたくなって、わざとらしく鼻歌を歌う。時折風が吹き、雑草を撫で、木々を揺らし、影を弱弱しくする。吹き溜まっていた僕の声も何処かへと流されていく。

 

 僕は野原を抜け、木立を抜け、元の道に合流する点に戻ってくる。何となく振り返ると、木々の向こうに黄色い旗がはためいているのが見えた。それは残暑厳しい中、銀行の代理人がさしていったものだったが、黄色は彼らの言葉でいえば「売却済み」。吹きだした汗をハンカチで拭いながら作業に没頭する彼は、屈託の無い笑顔を振りまく五十過ぎの、白い帽子がよく似合う男だった。

 僕は彼を家へと招き、一服するように誘った。お茶を飲み、煙草を呑んで話すうちに、その昔、彼がうちの工場を担当していたことが分かった。彼は出世していた。


「戦争でもあれば、鉄の需要も増えたんだろうけどねえ……」


 開けた胸元を帽子で仰ぎながら、彼はそんなことを言った。

「ここの工場を整理したのは私でね。本当は若いやつに任せるべきなんだろうけど、最後まで責任を取りたくて。今じゃクボと言えばアヘンと中絶だが、それこそ昔、君の家はある種、私たちの矜持だっただろう? シモクボの港に入るヤシロの軍艦を見て、あの鋼鉄は我々が、うちの島が作ったんだぞ、って」


「そんなものだったんですかね」

「ああ。だったんだよ。それにしても、似てきたなあ。若いころのお父さんに」

「そうですか? 母似、大陸の顔とはよく言われますが。でもまあ、もちろん親子ですから」

「ああ。でも言わせてくれ。許してくれ。昔が懐かしいんだ。歳をとる者には感傷に浸る権利がきっとあるのだろうから」

章題「そして小麦はことごとく失われたと」

「物語」より 

作 安藤元雄 『秋の鎮魂』収録 位置社 1957

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