なんて頼りない
救貧院は貧困に喘ぐ者が安らかな死を迎えるための末期施設であり、行き場の無い老人病人が三百人程収容されている。同じ名の施設が大陸、ナガイにもあるが、その目的はまるで違う。あちらの救貧院はまだ体の動く者のみ収容し、労働集約的な産業に強制的に従事させる受付口である。
馬を建物の近くに生えていた立ち木に係留する。特に警備の者がいる様子もなかったので勝手に中に入った。
戸口には緑色の明かりがともっていたが、建物の中は暗かった。僕の履いているラクダ革のサンダルが高い音を狭い廊下に響かせる。
寒い。そして、果物の腐ったような、あるいは肉桂を思わせる匂い。
奉仕者たちの部屋を通り過ぎ、回廊を抜けると、だだっぴろい中階の広間があった。来賓用の宿泊施設、食堂、死体安置所、見張り塔、牢獄……。全ての意味合いは文字通り混在している。収容人数を増やすため、建物を支える基礎となるべきものを除いてほとんどの壁や柱は取り除かれ、あらゆる役割を付加され区切られていたはずの空間は一つに統合されたらしい。
堅そうなベッドがキチンと強迫的に並べられていて、その全てが布団に包まった人間たちで埋まっている。全員が全員眠っているわけではなさそうだった。闇の中にちかちかと点滅する赤光は煙草か、それともそれに準ずるもの何かか。
深夜の闖入者をネタにしたひそひそ話。もちろん寝息も聞こえる。すやすやという心地よさそうなものも苦しげなものも。
大きな鼾も遠くから間断なく聞こえる。彼らを刺激しないよう起こさないように、足の踏み場を慎重に探し、僕は燭台の上で今にも消えそうな蝋燭が照らす木製テーブルの上、台帳のもとに辿り着いた。
259さんから聞いていたニコの母親の登録名で引く。あった、ここにはいない、下階だ、と分かる。台帳を閉じると埃が舞った。咳をしながら、顔を上げると、聖母が金魚鉢を抱いているモザイク画が目に入った。透明なガラスの中に真っ赤な金魚が二匹、狭すぎると言わんばかりにくるくると泳いでいる。
手摺の無い階段を下り、下階へ降りた。湧昇してくるこもった空気には昼時の熱の残滓と瘴気が感じられた。巣食う闇はいよいよ人の目では太刀打ちできるものではなくなり、一寸先も分からない有様になってしまったので、僕は携帯していた小型の使い捨て魔法ランプを取り出し、ボタンを押して発光させる。この照明具は使い勝手が悪く光量を調節できないため、有り余る光を掌で覆い、周りへ配慮する必要がある。掌の明かりを頼りに辺りを見渡してみる。
上階も下階も同じような構造らしい。とにかくだだっぴろい。それが最初の感想だ。そして、投げ込まれ、敷き詰められた病人たち。筵が敷かれただけの冷たい床の上に雑魚寝している。隙間なく積み上げられた石の壁に突き当たるまで、人、人、人……。唸り声。そして、
その先に、僕は一対の眼光を見た。生気の無い弛緩した空気の中で、異様な緊張をはらみ、野犬のそれの如くぎらつく、それ。
咳一つ聞こえなかった。
爪先と太股に力が入った。でなければ、吸いこまれてしまいそうだった。
「Dさま? あら、よくここが分かったものね」
一握の手水を水面にこぼしたような反響を伴い、無感情な声が響いた。
病人の誰かが苦痛に歪んだ悲鳴を上げる。眼が立ち上がる。
「手切れ金なんて、いらないから」
僕は彼女への態度や処分も用意するのをすっかり忘れていた。そして曖昧に、
「そんなことはしないさ」
と、こんなことを言うのだ。彼女は近づく。遂に顔が現れる。それは、恐ろしいことに、昨晩使用人たちに飲み勝った娘のものと寸部も違わないのだ。
「同情ならやめてほしいんだけど」
光の照らす縁にしがみついて、彼女はそう言い放った。
「そんなこと言える立場か。身の程を知れってんだ」
僕は彼女の言葉を切り捨てる。対する彼女はにやりと不敵に笑うだけ。
この子は一体いくつなのだ?
いや、僕が対峙しているのはこの十二の娘ではない。
そこに顕在しているのは、遥か昔から埋め込まれている、もっと深刻で根本的な矛盾なのだ。
足元に寝転ぶ人々が明かりに目を痛め、体を返したり、唸り始めたので、僕は彼女を促す。
彼女は歩み始めた脚を一旦戻した。その場に屈んで秘密事を語らうように呟き、そこにいるのであろう人物の髪を撫でる。
再び卑屈で抜け目ない粗野な使用人の女に戻った彼女は黙って僕の合図に従った。建物の外へでると同時にランプの明かりも消えた。それでも、月明かりがなみなみとあったので会話に支障はなかった。
「ほら、僕の前に乗りな」
僕は馬に跨り、彼女に向かって手を差し出した。押し黙ったまま、彼女も手を伸ばす。触れた手は柔らかく、見た目通り少女の手だった。
僕は馬を進める。彼女は不気味なほど無抵抗だった。
「昨日、と言っても、たった数時間前だけど、救貧院の上階の人たちが何を食べたか分かる?」
救貧院が遠く見えなくなってようやく、彼女は話し始めた。
少し考えてから僕は口を開く。
「いや」
「甘く煮た鶏肉にいんげんのスープ。まあ、分からないわよね。それじゃ、中階にいる人たちは何を食べたと思う? こっちは簡単だと思うけどな」
「同じものじゃないのか?」
「違う。ナツメヤシの実を干したやつを二つばかり。部屋中そんな匂いだったでしょ? 最後に下階にいる人たちは……どう? 想像できる?」
話の流れから、その有様を想像することは容易かった。
「私、見栄ばっかりの女って嫌い。豹柄なんて着ているくせに財布にはあれっぽっち。母さんに毛布とお菓子買ってあげられる程度しか入っていないんだもの」
罪悪感も、反省の色もなかった。彼女は自分の行為をさも取るに足らないことのように――もしくは僕を詰るかのように――話す。
それは実に奇妙な感覚だった。誰にも見られていないと知りながら、僕は思わず口元を隠した。彼女の話しぶりに、言いようもないおかしさを感じてしまったのだ。
痛快だ。そう思えた。倫理観とは裏腹に、挙句の果てに残ったのは、残ってしまったのは、清涼感すらある、何か。
「だって、今日は前謝祭なのよ」
彼女は溜息をつく。
「ああ。こんな島はもうたくさん。警察どもがもう少し無能で、あの盗んだ金貨が使えていれば……。そうすれば、消毒屋に行って、もうナガイなりヤシロなりに行けていたのに」
消毒屋?
はて、どこかで聞いたぞ。それは中絶を巡る諸々の一つではなかったか?
「消毒屋って……確か、その」
僕の疑問を声から読みとったのか、彼女はこう付け加える。
「違う違う。妊娠しているわけじゃないって。私が言っているのは、クボでの過去をキレイに消毒してくれる人のこと。そういう仕事をしている人がいるの。結構お金はかかるけど、あっちで面倒が起きるよりはずっとマシなんでしょ?」
彼女の言葉を聞き終えるか終えないかのところで、頭をかすめるものがあった。赤い。あれは、そうだ、女物のガウン。それと二列に並んだ純真で無垢な笑み。
懸命に頭を回転させ、記憶を呼び起こそうとする。何だ、あの光景は。どこかで見た記憶があるぞ。絶対に。思い出せ。シモクボの堤防、水門、人夫、船……。
だめですよ、この袋に捨ててくださいね。
「ああ」
そうだ。あれはそういう意味を持っていたのだ。僕がクボに帰って来た次の日の朝。胡散臭い男のにやけ顔が鮮明に僕の脳裏へと浮かび上がってくる。
「それは……ペテンだよ。僕はそいつを知っている」
少女の肩が硬直した。
「うそ」
「大陸に三年もいた僕が信用できないってのか? シモクボの港でその男を見たことがある。訛りはおかしいし、服装も変だった。あんなものを倣ったところで、大陸では通用しない。隠せないぞ。第一見た目が違うんだ。あんなもので隠せるか」
少女の肩が震えだす。何かを言いかけて口を噤む。だが、二、三度、深い深い呼吸をした後、再び口を開いた彼女は元の気丈な佇まいに戻っていた。強情もここまできたら感心するしかない。湿った声は痕も残さず蒸発してしまっていた。
「そう。なら、お金なんていらないのね。むしろ、島から出やすくなった」
「どうしてそんなに島を出たい?」
「幸せになりたいから」
なるほど、と僕は思う。これは誰も否定できない重要なことだ。彼女も僕と同じなのだ。そして、それを素直に言葉にすることができる。それだけだ。
「そうか。奇遇だな。僕もそう思った。それで、この島に帰って来た」
怪訝そうな顔で振り返り、一瞬僕を盗み見た彼女はこう嘲るように言い捨てる。
「馬鹿じゃないの? こんなちんけな島で何をするというの?」
胸の中でこう呟く。ニコ、僕はお前に反論できない。
でも、それでも、なんだよ。
「………え?」
間があった。
僕は彼女の返事を待った。
僕の答えは数秒の時間をとらせる程のものを彼女に与えたらしい。
「どうするの?」
ようやく彼女は聞き返す。
「さあ、でも金を稼ぐぐらいはできるんじゃないか」
「いつ頃?」
「さあ。でも遠くはないと思う」
またしても沈黙が始まった。時間の流れが遅い。秒針が震えているかのようだ。
決断が迫っていた。
それにも拘らず、僕の心臓は驚くほどの落ち着きを見せている。
決断。僕と彼女。取り巻く全てを裁断する、一撃。
彼女は再び震え始めた。それでもなお毅然とした声で呟くのだ。
「なんて頼りない。……それでも、私はこの島を出ていく。私を縛るのは母さんだけ。母さんは……もう長くはない。母さんが死んだらもうこの島にいる意味が無い」
そして、続ける。
「ああ、愛しい母さん。私はああなりたくはない」
顔を上げ、眦に溜まった涙をこぼさないように。
荒野はまだ続いていた。この娘を捨ててしまうことは容易かった。
決断が迫っていた。
ニコ、僕は決断するぜ。
「さあ、ニコ。二人が待っている。シモクボに戻ろう。本祭だ」
二度、三度。また、遠くで鐘が鳴った。騒ぎ始めんとする南の空を僕は指で示した。ニコが家に来てちょうど一ヶ月目の朝。夜明けのまだ見えぬ東のはてでは、震えるような力強さが、赤さが、水平線を越えようと待っていた。




