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白灰色の粉末

 普段とは打って変わって奥さんにたじたじになってしまう先生の姿を見るのはこれが初めてではない。結婚記念日なのに帰りが遅いと研究室に乗り込んできた奥さんが、先生を徹底的にやりこめるのを見て僕らは唖然としたものだ。それは、担当の講義でのゆったりとして威厳のある立ち振る舞いからは想像だにできないものだった。

 

 僕がこの街に来た理由はたくさんある。特待生ならば学費が免除されるとか、母方の遠縁のつてがあるだとか、だ。しかし、何よりも先生だった。先生の研究室は、創造的で、精神の発露があり、何より夢があった。付け加えると、先生の研究室は留学生を積極的に受け入れていた。僕にとっては願ってもない先生だった。

 

 高い倍率を何とか突破し、初めての講義。定刻から一分だけ遅れて先生は部屋に入ってきた。アゴタ生まれではない先生は肌が白く、それだけでも目を引いた。教室中を一瞥した先生は生徒たちに向かい厳かに語りはじめた。その言葉を僕はあれから三年たった今でも覚えている。


「こんにちは。私がライツェン・ブラウワーです。この度あなたたちの担当となりました、卒業まで共に勉学に励みましょう。ところで、このゼミにはアゴタの大学ですのでもちろんアゴタ出身の学生が多いのですが、他のゼミに比べ留学生の比率が高い。アゴタ出身の学生諸君のなかには、このことに疑問を持たれる方も多いでしょう。これについて初めに私の考え述べておきます。このアゴタは空間術式――まあ、どうでもよろしい。私は敢えて夢があるよう魔法、と呼ぶようにしているのですが、それに関して権威ある学府として認知されています。そして、その通りだ、と私は自負しております。他国から学びに来られた方は是非このアゴタの知恵を貪欲に吸収していってください。一方のアゴタの学生は? 彼らから学んでください。彼らは我々と異なっています。違う人間なのです。それは言葉も宗教も文化も名前の付け方に至るまでです。しかし、価値とはそこにあります。これはそれを互いに学んでほしい故の構成なのです。全ての有益なる新は異から生まれると言っても過言ではありません。彼らの持つなまりや非常識、思い込みというものを『我々』は持ちえない。それは世界の限界です。我々が学を問うというのならば突破しなければならないものです」

 

 先生はぐっと唾を飲み込み、再び話し始める。


「我々はつるつるとした氷床の上に出てはならない。我々がいるべきは摩擦のあるざらざらとささくれ立った大地です。しっかりと踏みしめて前に進むにはそうでなくてはなりません。アゴタ出身の学生諸君はアゴタに生まれ、育ったと言うだけで彼らに勝ち、そして負けている。一方、留学生の方々もそれだけで勝ち、負けている。楽しんでください、違いを。そこには何かがあります。要するに私が言いたいのは、自分に誇りを持ち、過信せず謙虚に、そして相手を受け入れられる人間になってもらいたいということです」

 僕は感動した。涙が出そうになるほどに。大げさではない。実際に、教室で声を押し殺し咽び泣く者さえもいたのだ。彼は同期の一人で、あの大きな研究室の中で唯一の同郷だったが、僕は彼の気持ちが痛いほど分かるような気がした。

 

 食事は終わり、後片付けは奥さんがやられるということなので、僕と先生は応接間に戻る。ラメの入ったふかふかとしたあの椅子はどうも「座るべき」ものだったようだ。僕は先生に指示されて恐る恐る腰をかけてみた。こちらに来て以来、全てが九十度に統一された安い木製の椅子にしか座ったことのない僕にとって、それは懐かしく衝撃的な柔らかさだった。先生は手で、高価なものなのだろうか、テーブルの上にあった小さくてきらきらと光るサイコロを弄ぶ。


「それで相談と言うのは?」

「実は父が亡くなったもので、突然ですが、今日から一カ月ぐらいお休みをいただきたいんです」


 先生ははっと息をのんだ。そして、几帳面にサイコロの目をそろえてテーブルの上に置きながら、ばつの悪そうな顔になる。


「そりゃ、すまんね。いや、なにせ、君の表情がそれじゃなかったものだから。そんな悲しい話題だとは思っていなかったよ。よく考えてみれば朝に来るというのはそれなりの緊急性があるということだものなあ」


 先生の表情とは裏腹に、僕は夜のうちに悲しみきれなかった残滓がいつの間にかに消えていているのを感じた。きっとベルトさんや先生ご夫婦のおかげに違いない。


「一カ月空いても君なら勉強は大して遅れないさ。行ってきなさい。というより親の葬式に出席しないのは大罪だな。私にとめる権利はないよ」

 二週間も前に手紙が出された事実を考えると葬儀はもう終わっているだろう。だが、その事実を伝えることは先生を更に狼狽させるだけなので、言わないことにした。

「……申し訳ありません」

「いいさ。だが、忘れないでくれ、君には才能がある。葬式が終わったら、怪我をせずにしっかりと帰って来るんだよ。それは損失ってものだ」

「はあ、ありがとうございます。では今日の日暮れにはたちたいと思います」


 食事のお礼を述べてお暇しようとすると、ベルトさんが荷づくりの手伝いをするように奥さんに命じられた。恐れ多く辞退したが、どうしてもということなので甘えさせていただくことにした。先生の奥さん曰く、「いてもいなくても変わらない」ということらしい。彼は後頭部を掻きながら恥ずかしそうに恐縮していた。

 

 停留所で輪車を待つ間、彼は熱いチャイを二杯買ってきてくれた。暑い日にスパイスのきいた熱いチャイを飲めば、体の底からすっきりするものだ。


「ありがとうございます」

「いいんだ。朝のお礼だよ。それに君は数学に関しちゃ天才なんだって? もし出世したら俺を良い地位で使ってくれよな」

「あはは。そんな大層な人間ではないです。計算が少し早いだけで、創造的なことはまだまだ勉強しないと。これからですよ」

「頑張ってくれよ。しかし腹減ったなあ。そうだ。いいものがある。せっかくだから、これどう?」


 彼は胸元から鼠色の小さな革袋を取り出し、自分の掌に白灰色の粉末を盛った。


「いやあ、せっかくですがいただけませんよ」

「大丈夫。神は大陸にいる。見放されるのは俺たちじゃない」

 穏やかな午後。白味を帯びた青空に半透明でカドミウムグリーンの月。輪車が捨てていった計算用紙を手にとって見る。僕らの待つ輪車はまだまだ来ない。


 荷づくりと言っても僕の家に大したものがあるわけがない。と言うわけで、ベルトさんには主に家の修復を手伝ってもらうことにした。壁のひび割れから野鼠が入ってきて、彼らの天国にされると困るからである。乾燥した汗の臭いと言うものがある。おかしな言い回しだけれど、それが僕の部屋いっぱいに充満する。

 この街に来た時にこんなにも暑いのになぜ服が汗でぬれないのだろうと不思議に思ったものだ。簡単な話だ。汗が体を濡らす前に蒸発してしまうのだ。気化熱を伴って流れていく水分が一定に達すれば、不快感を与えることもなく、あっという間にその人に死が訪れる。

 ベルトさんがお腹を鳴らしながら自分の家に帰ったあと、僕はシーツをはいだベッドの上で仮眠をとることにした。日が天頂に達すれば外を出歩くのは観光目当ての旅人だけになる。そして、彼らはここまで足を運ばない。

 夕方になって夕日が「アクツ」と「オーサキ」を縁取り始める頃、僕は再び起きて、荷物を持ち、輪車に乗り込んだ。夕暮れの再び賑やかになり始める道を滑りながら、僕は手なぐさみに鍵を弄び、アゴタの街との別離に心を痛めた。


 午前中とは異なって今度は終点で降りる人が三人いた。彼らも僕と同じ理由だろう。この二枚の巨石からは沿岸の町までの180キロを走る駅馬車が出る。馬車にくくりつけられた四頭の馬の嘶きが二枚の岩の挟間で反響し、上へ上へと昇っていく。


 僕は一足お先に乗り込んで麻の袋一つに収まった荷物を抱え窓際の隅に座った。先客が対角線、つまり入り口付近の隅に座っていたが、そこは日があたらず暗くなっており、よく見えない。彼は僕に気付くと腰を上げ僕の正面に座りなおした。赤だけを掬い取ったような西日の下にその姿が露わになる。青と黒を織り交ぜたガラベーヤ、珍しい色の組み合わせだ。その上にまた黒いジャケットを羽織っている。


「君はアゴタの学生かい? 学部は?」


 彼は口元を覆っていた布とターバンを解き、僕に話しかけてきた。褐色の肌には不精ひげが伸び伸びと生えている。どこか胡散臭いものがないわけでもない。


「はあ。理論数学です」

「専攻は? 回転、熱、空間、光、水……」

「ライツェン・ブラウワー教授の研究室に所属しています」

「そうか。それじゃあ、熱か。カルナップ教授は知っている? 先生は元気かい?」


 カルナップ教授。どうやら彼は僕の先輩のようだった。

「お元気です。レスリング狂で有名な方ですよね。お孫さんが生まれたそうですよ」

「それはめでたいな」


 その時、中年の女性が二人勢いよく乗り込んできた。彼女らの重みでぐんと馬車が揺れる。僕たちは揺られ前につんのめる。そして、彼女らはまるで僕たちの事が見えていないかのようにべらべらと大きな声で話し始めた。話の腰を折られた形になり彼は口を閉じたので、僕の方も口を閉じる。


「これより出発いたします。もう一度、ご確認させていただきます。今年の夏は特に暑いので健康面を考慮し、夜間のみの進行となっております。途中にはシズヤ渓谷もございますので、ヤシロ到着は五日から六日後を予定しています。ご了承ください」


 馭者は気弱そうなお爺さんだった。彼は女性二人からの詰り文句からほうほうの体で逃げ出すと、手綱を握り馬車を出発させた。

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