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駱駝と郵便転送網

 酩酊状態の友人が何かを掴もうとしていた。彼の腕が伸びる東の空では、叢雲がこの街の月を捕まえたり放したりしていた。

 

 頭に鉄骨が落ちた。父の死を知らせる手紙を郵便受けに発見したのはまさにその夜のことで、酔いは完全に失せ、僕は一夜を泣いて明かさねばならなかった。

 

 落ち着きを取り戻し、くしゃくしゃになった手紙を見つめる余裕が出てくると、消印が二週間前であることに気付いた。おそらく、海上距離を測る計算にミスがあって全く別の場所に転送されてしまったのだろう、封筒にはむせるような草の臭いが染み付いていた。手紙が迷っている間、その二週間、僕は父の死も知らずのうのうと生きていたわけだ。

 

 僕の悲憤など意に介しないで、世界は回る。

 薄い壁の向こうから、朝市に荷を運ぶ馬の蹄の音が聞こえてきた。青果を運ぶ彼らの嘶きと爪音が、夜が明けていようがいまいが僕ら貧乏学生を叩き起こしてくれる。ベッドでのたうち回るうちに、蹴落としてしまったのか、ベッド脇の棚においていた花瓶が落下し割れていた。ぼんやりとした輪郭を懸命に絞って、破片を踏まないよう慎重に床に足を置き、机の引き出しに入っているはずの眼鏡をまさぐる。日干し煉瓦でできた家にくり開けられていた窓から、人を容易く殺してしまうほど強烈な日光が差し込み始めるとともに、僕の涙は乾いていき、頭は今何をすべきなのかを考え始める。

 

 とりあえず先生の家に行き相談に乗ってもらおう。

 僕はそんな結論に達した。家中のカーテンが閉まっていることを確認し、僕は温い水で顔を洗った。

 

 日光を避けるために体をすっぽりと覆うローブのような制服と大学のシンボルである葡萄の絡んだ蔦の校章が入った帽子をひっかけ、家を出ると、往来では肌を黒く焼いた商人たちがせわしなく動いていた。砂嵐の中を行軍してきたのか、首元にたゆんでいる布で鼻先までを覆っている。

 

 彼らはどうも海の方を経由して帰ってきた隊商で、通常の市の隣で海鮮市を開くようだった。海産物特有の臭いが風と共に伝わる。魚や烏賊、蛸に海藻、俵物。荷を載せられた動物たち、駱駝や馬が人に曳かれ列をなして行進してくる。少しでも傷みの少ないものを買おうと、早朝にもかかわらず主婦や使いの子供たちで通りは賑わいを見せ始めている。

 

 僕は少しでもそう言う楽しげなところを避けながら、輪車乗り場へと早足で向かった。近道を使おう。人通りが少なく、狭い道。ひび割れて廃棄された家々には勝手に住みついた浮浪者たちがすやすやと眠っている、そんな道。

 人の目が少なくなると、僕はまた涙腺が緩むのを感じた。恥じる必要はなかったが、俯いて顔を見られないように歩いた。気持ちに整理はついていたが、まだ「拭き残し」があり、体は納得をしていなかったのだ。

 

 心が揺れることがあれば、一旦感情を極限まで高めろ。そして忘れてしまえ。

 

 僕は父のこの言葉を聞かされて育った。何度も理解しようと努めてきた。だが、何度も何度も「しよう」としてきたということは理解できていない証拠でもある。

 

 僕は顔をあげ、前を見ようと思った。ところが、路地を出る出会い頭に、僕の体は何か毛の多いものにゴムまりのように跳ね返されてしまった。


「にーちゃん。よそ見しながら飛び出してくるとあぶねえぜ」


 落とした眼鏡をかけると目の前には大きな駱駝の顔があった。塩を載せた彼は何かを咀嚼しながらじっと僕の目を覗き込む。


―――――


 僕が輪車乗り場に到着したのは、機関演算士が紙の上に黒鉛の棒を走らせ、車輪に前進する力を加えようとするまさにその時だった。間一髪乗り込んだ僕は、僕の危険な乗車に顔をしかめる乗務員に乗り賃を払い、一番後ろの席に座る。

 

 これは癖だった。僕はこの席にしか座ったことが無い――ここでは、動力の強弱を適切に行うため、大量の計算を必死で行う演算士の姿を見ることができるのだから。そこで脇目もふらずペンを走らせていたのは、以前見かけた中年男性ではなく、二十前後の――おそらく、低所得層の――青年だった。

 しかし、機関演算士というのは大変な仕事だ。この大路を一往復するだけで紙を二枚消費する計算を行わなければならないのだ。指は黒鉛が擦りこまれて黒ずみ、最期には骨鞘炎になって駄目になる人も多いと聞く。


 二十分に一本、東西に走る大路を定期的に往復している輪車とは要するに、車輪のついた木の箱に椅子を並べただけの質素な陸上輸送機械である。運転手に乗務員、機関演算士の三人に、客が最大二十人乗り込むことができる。安価な定額料金、定時運行。馬や駱駝を個人で飼えない庶民の足である。

 

 輪車は進む。外れから中心に向かうにつれて、この街を抱きかかえる三日月型のオアシスに沿ってできた官庁街、手形交換所、王立取引所や立会場等、立派な建物にたむろするケチで恰幅の良い紳士が増えていき、僕たち庶民は端の方に追いやられていく。彼らの頭は金融派生商品でいっぱい。このアゴタという国は砂漠のど真ん中にある。日が昇って一時間もたてば暑いのに、体温も加わって、ひどい有様である。

 

 彼らのほとんどは株式仲買人、銀行員、為替保有者、投資家、またはそれに準ずる何かで、夜になれば勿体ぶった手つきでマティーニにオリーブを落とすような連中だった。

 古くから交易の要地であり、軍事的にも政治的にも大きなプレゼンスを持ってきたこのアゴタでは、空前の金融ブーム――主に国債だ――が巻き起こっていた。郵便転送網が完成しアゴタがその中心と位置付けられた今、あらゆるカネがこの街に集まってくる。いつの間にか、雪解け水の効率的な利用による農業の生産も、伝統的な織物、刺繍布や工芸品も、この街の顔とはならなくなってしまっていた。

 

 カネは舞う。

 この街では誰もが踊っている――。

 そんな熱狂に飲まれそうになりながら、僕は機関演算士の手の動きを見るのである。彼らが体現する英知に、僕の心臓は、魂は震える。この国にはもう一つ、昔から有名なものがあった。

 

 魔法。空間術式だとか、なんたらかんたらとか、俗称は多いがどうでもいいことだ。

 

 重要なことは、アゴタには総合大学があり、魔法が依存する計算式の研究となると、ここは世界有数の権威たちが集まっているということだ。僕の先生であるブラウワー教授もその内の一人。僕は先生に師事するためにこの街まで来たと言っていい。


 先生の家は町の西はずれにそびえる「アクツ」と「オーサキ」という二枚の巨石の下にある。正確な大きさは知らないが、この二枚岩のおかげで、僕たちは強烈な西日を直接浴びることがないぐらいである。

 

 その昔、この大陸がまだ戦争でごたごたしていたころ、ここら一帯に、日陰でかつ防衛もしやすいということで、兵団と軍事病院が併設されたらしい。だが、今では当時を彷彿させるものは精々、岩と岩の隙間の間に、兵士のいない見張り塔が建っていることぐらいであり、その土地のほとんどは大理石が使われるような高級市街地の用地として区画整理されている。終点で輪車から降りた客は僕一人だけだった。ここら辺に住む人はお金持だし、金融成金とは違って気品と尊厳がある。彼らは馬やラクダを所有し、美しい飾りのついた鐙に跨るのだ。

 

 ポールの巨大な時計は七時半を指していた。きれいに掃き清められた道には品格と緊張が漂っていた。白い壁と青の窓格子で統一された大きく高い家々が並んでいて、僕は物思いにふけりながらそこを抜けていく。――タカシラで切りだされた白大理石の使用量でその家の格が分かる。大理石は原価よりも輸送費が馬鹿にならない。現在、転送可能な重量は五キログラムまでとなっているので、このように重く大量に必要な物は実際に輸送するしかないのだ。研究が進み更に重いものが転送できるようになれば、更に多くの立派な家が建てられることになるだろう……。

 

 熱で空気が歪む前に、先生の家にたどり着けたのは幸運だった。それだけ、あの若い演算士が、路面状況、気温、乗車人数、等々を正確に抽象化し数字に落としめ、円滑な輪車の運行が行われたということだ……。ああ、知らぬうち零れていた涙を僕は袖で拭った。


 先生の家はすぐに分かった。以前お邪魔した時に見た、格子に絡んだ薔薇を良く覚えていたからだ。家の前には衛兵が通りに面した玄関口にのっそりと立っていた。彼は目を細めながら遠くに視線を投げている――つまり、眠っていた。このままだと僕は家に入れないし、彼も怒られるだろうから、僕は彼の肩を揺さぶって起こしてやる。


「あぁ、どうも。先生んとこの学生さんかい?」

 

 すっとぼけやがる。

「おはようございます。そうです。突然、朝に押し掛けてしまってすみません。今、先生とお会いできますか?」

「どうだろ? 起きてらっしゃるかねえ。聞いて来るよ」

 

 彼は不用心にも兜を脱ぎ、武器を壁に立てかけると、目をこすりながら家の中へ入っていった。しばらく路上で立って待っていると、寝巻の先生と彼が玄関から出てきた。既に活動体制に入っている先生の機敏な動きと衛兵の動きは実に対照的だった。


「どうしたんだい、こんな朝早くに?」

「すみません。ご相談したいことがあって」

「そうか。まあ、いいさ。立ち話もなんだ、とりあえずお入り」

 

 先生は自らドアを開け僕を招きいれながら、こんなことを聞く。


「ところでうちの衛兵は立派に仕事をしていたかな?」

 

 衛兵は先生の背後でサッと青ざめた。これは生徒ならば誰でも知っていることだったが、先生は笑顔で人を叱りつけるタイプだった。


「ええ。ちゃんと仕事をされていましたよ」

 彼の顔がぱっと明るくなる。


「そうかい、ならいいんだが。着替えもあるから、応接間で待っていてくれ。食事はとったかい? そう、なら先に一緒に食べようか」

 先生は一旦部屋へと引き返して行く。

 

 用意ができるまで待つようにと通された応接間には、たくさんの美術品が置かれていた。鼻をくすぐる甘い匂いは防虫剤だろうか。浮き彫り模様の卓上時計、エナメル着色の花瓶……僕には目の前にあったが椅子が、果たして「座るべき」椅子なのか、それとも「見るべき」椅子なのか分からなかった。

 

 下手な真似をしない方がいい、そう思った僕は座らず部屋をくるくると回る。ふと脇に目をやると、足元にうずくまる白い塊。首の長い鳥がにゅっと頭を突き出し、こちらを無垢な瞳で見つめているではないか。声をあげて驚き、僕は三歩も後退してしまった。


 鳥は動かない。身動ぎ損である。思い出した。これは磁器というものだ。

 

 つい最近まで、磁器は交易を通じて遥か東の国から持ち帰られる高価な代物だった。磁器を作るには窒の中の温度を千三百度近くまで上げなければならないらしいが、その技術は門外不出でこちらにまで伝わってこなかった。そこで登場するのがこのブラウワー教授である。先生は魔法では千度が限界だと言われていた常識を打ち破り、上限温度を千四百度まで引き上げることに成功したのだ。もしかしたら、先生の飽くなき挑戦の原動力となったのは、この磁器の滑らかな美だったのかもしれない。


 千四百度……か。その熱は鉄さえも抽出できる。


「食事の用意ができました。どうぞこちらへ」

 後ろからかけられた声は丁寧な響きを持っていた。家政婦の人かなと思い振り返ると、驚いた、先生の奥さんではないか。奥さんは簡素だが品のある白に少し緑がかったローブを身にまとっていた。先生と同じでこちらの出身ではないのだろう、ヴェールを被らず髪を露わにしている。


「すみません。朝から押し掛けてしまって。しかも朝ごはんまでいただいて」

「いいのよ。私たちには子供はいないし、すこしでも賑やかな方が食事は楽しいから。主人だってあんなに大慌てで着替えしちゃって」

 

 そう言って先生の奥さんは微笑む。可憐な人だな、と思う。


「それに、いつも量が多すぎて余らせてしまうの。だからベルト――ああ、衛兵の彼ね、彼にいつもだったらあげているのだけど」

「それじゃあ、悪いことをしてしまいました」

「たまにはお仕置きも必要でしょう」

 ばれるべきものはしっかりとばれていたみたいだった。


 精神を張り詰めなければならない応接間とは異なって、シックなテーブルに椅子を四つ並べた食堂には緩やかで寛ぎの雰囲気があった。焼き立てで香ばしい臭いが鼻腔をつくナン。煮込んだ干しソラマメに刻んだ玉ねぎを入れ更に煮込んだスープ。これは何の豆だろう?  黒い豆が粗くつぶされ皿の上に盛られている。

 既に着席していた先生は素焼きの壺からグラスで水を掬いごくごくと飲んでいた。


「お口に合うか分からないけれど」

「ご自分で作られているんですか?」

「妻は料理が好きなんだ。レナーテ、気をつけろよ。BC君は十五歳で大学に入学してきた天才だぞ。そして、もちろん舌の方もしっかりと肥えている」

「なら大丈夫ね。数学ばかりやっている男の人は味音痴だもの」

「数学の謎を探求することは神聖な行為だ。神の知に触れると言ってもいい。ならば、神のみぞ知る究極の味もそのうち分かるようになるさ。なあBC君」

 先生は僕の方に目配せして、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

 僕はとりあえず気になった黒い豆をナンに挟んで食べてみる。その味と言えば、甘かった。砂糖で煮たものだろうか。アゴタにおいて砂糖の値は異常に高騰しており、学生風情の手の届くものではない。久しぶりの甘味。懐かしくて手が止まってしまう。


「私はその甘いのはどうも合わんと思うのだが、どうかね君は。好きかい?」

「美味しいと思います」

「ほらね。ベルトだって好きだし、貴方だけよ」

「彼は味音痴だからな」

「貴方にかかれば誰も彼も立派な学者さんになってしまうのね」

 奥さんはグラスをとって先生のために水を汲む。

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