これをやろう
美人輪切り、という看板が目に入る。艶かしい女が縄で固められた絵はペンキ塗りたてといった感じ。
手品の一種だ。少しばかり心を引かれたものの、結果的に自尊心と羞恥心が勝って、中には入らない。だが、確かに僕たちは一瞬足を止めたのだ。フェルがいたらどう怒るだろう、そんなことを男二人は考え、互いを笑い合う。そして、すぐに具合悪そうな顔が思いだされ、彼女に悪い気になる。
木戸銭はもったいないが、やっぱり宿に帰ろう。つまみと酒を適当に買って、窓から祭りを見ればいいじゃないか。そう思って休憩所に戻ってくると、彼女がいない。
「あれ? フェルのやつどこいったんでしょう?」
休憩所の管理をしていた老婆に尋ねると、彼女は向こうの土産物屋を指さしたので、そちらに向かった。
見世物小屋の中には土産物屋がたくさんあった。それこそジージが親方の子供たちをたぶらかした際に使った、悪魔や妖精の標本だとかを売っている店だ。大体は色々な動物の体の部位をそれらしく合成したものだったり、違法な魔法による変化を施されたもの。
要するに、紛いものばかりなのだ。
広場の西口、場末、ランプの灯が照らさない暗がりに、すらりとした白朧。
「お嬢さん! お目が高い! この逸品を理解するにゃあ普通は顔が皺だらけになる歳になんないといけないんだけどなあ。感心した! 銀一枚でどうだい!」
陳列と呼べるか分からない様で、大小のガラクタが竹籠の中に詰め込まれ店先に並べられている。背後のざわめきに負けないはきはきとした声が響く。
まさにゴミ山の形容がふさわしい店に七十近い老人とうら若き乙女が一人。
「ああ、そっちのやつはいわゆる逆輸入ってやつよ! 一見、昔クボで流行ったナズミの首飾り。でも時代が追いついた。今は、あの、オシャレなタカシラの娘っ子が銀を出しても欲しがる時代なわけ! どうだい、今大陸で買ったら二枚はするぞ!」
どう見ても、四半世紀前の売れ残りである。僕は横槍を入れた。
「もちろん銅二枚なんだろう? フェル、どうした? 具合は良くなったのか?」
「ニコに何かお土産を買ってやるつもりなのでしょう」
既にフェルの意図をジージは見抜いていたようだった。彼女は見開いた目でコ
クリと頷く。突然湧いて現れた僕たちに少々びっくりしているようだった。老人はいいカモを逃がしたと言わんばかりに肩を落とした。
「見たところ、アゴタの学生さんかい? 何だってこんなところに! こいつは商売がやりづらいねえ。ま、適当に見ていってくれな」
ざっと見たところ、大したものはなさそうだった。さっさとフェルを連れて帰ろうとも思ったが、あの奔放な娘へのお土産は、こういう店のこういう商品がふさわしいだろう、とジージが言いだしたので、僕たちは俄かに宝探しに興じることになった。
「ふっふ、こんなのはどうだろう? ままごとセット、海上の民版」
「連中は十二、三で結婚しますから、暢気にままごとしていたら行き遅れますよ」
基本的に男連中はひねくれているので、そんな冗談を言い合いながらゴミを漁る。
「この偽ビードロなんてどうですか。鮮やかな緑。個人的に欲しいぐらいです」
「酒を飲むにはもってこいの形だなあ。また飲み比べに負けるぜ」
その時、袖をちょんちょんと引っ張られたので、振り返ると、正方形の箱を指さしてフェルが首をかしげていた。
これは何でしょう? お分かりですか。手に持ってみようと思ったが、重くもてない。
観察してみる。だが、その正体は一見で判別できるやさしいものでもない。マカロニの木箱と思われるそれはすっかり黒ずんでいて、中には何やら複雑な機械がはめ込まれていた。
機械部分の表面の中央上には九ケタの数字が横一列に並んでいて、その下に取り付けられたダイヤルのつまみを回すと値が変わっていった。つまみにも反時計回りに数字が書かれており、それに反応しているようだった。
どうであれ、あいつのお土産にふさわしいようには到底思えない。
「お、そいつは計算器だよ。人間の代わりに計算をしてくれる。その昔、税務官吏の息子が父の仕事を手伝うために作ったという話だ。そいつは後に偉い哲学者になったんだとよ」
老人の説明を聞いて、ジージは訝しそうに眉を上げた。
「おいおい。ペテンは通用しないぞ。道理に合わないじゃないか。そんな便利なものがこの世にあったらとうに普及している。そもそも、よく考えて見ろ、なんで立派な学者が機械なんて不確かなものに計算をやらせるんだ?」
「いや、ジージ。その人の言っていることは真実かもしれない。この計算器、十進法と十二進法が使える。帝政期、大陸は十二進法が一般的だった。ほら、昔はクボも金一枚と銀十二枚の価値が等しかったって言うし、タカシラは今でもそうだろう?」
「そ……そうだとも」
と、老人が僕の言葉に苦しそうな相槌を打った。
「ま、可能性だけどね。アンティークにはいいかもなあ」
「しかし、機械で計算なんて馬鹿げた話じゃないですか。奴らは歯車一つで機嫌が悪くなる連中ですよ。数学を学ばれたDさまが一番ご存じでしょう」
ふむ。ジージの言う通りだ。計算ミスによりいかなる誤差が生まれるか、僕は重々承知している。
弾道学では角度測定に一度のずれが生じただけで、着弾地点には数十メートルの差が出るという。基礎中の基礎だからこそ軽んじてはいけない。真面目で立派な数学者、演算士ほど、自分以外の何物にも計算を預けるようなまねはしない。
この考え方は常識のはずだった。論理的で、疑いようもないもの。
「しかし、もし、ですよ」
付着したたった一点の染みが、視界を掠めただけで、心を蝕み始めるということがある。ジージが口を開いた時、僕は不思議と胃が熱くなるのを感じた。
彼は続ける。
「もし、機械が正確ならば、それを使って難しい計算をし、ニコのような娘にも、加熱器を動かしたり、船に動力を加えたりできるようになるんですかねえ」
「まあ、そうだな。多分そうなるだろう。科学者は無駄な基礎計算を省略でき、研究は急速に進む。機関演算士は骨髄炎から解放されるし、税務官吏は膨大な情報を記数法に関わらず処理できる。それに……」
そこまで話して、僕は言葉に詰まった。
これだ。
確信とともに爆発が起こる。体が熱い、震える!
爆発と共に生まれたイメージの奔流が、雪崩を打って僕の小さな頭に収まろうとしていた。そして、広がる。その勢いは僕の脳の演算能力を遥に超え、制動がかかってしまうほどだった……傍から見れば呆けてしまったようだったろう。
想像が広がる。
自分が口にした世界が見える。
世界。僕が考えるものがある世界はどうなる? 世界。動的な世界だ。空気も色も人も目まぐるしく変化し、先へ先へと力強く動いていく。「信頼性のある計算器」にはそれだけの力がある。
魔法統計学者? 教授の研究にともなう最尤推定計算の手伝いをさせられながら、水の沸点が0.8度下がった現象とその数式の有意な関連性を確認するために、何百もの標本を一人で統計処理した先輩がいた。統計的仮説検定を行わない論文などその紙の重さよりも価値がない。
たった一行の仮説を謳うにどれだけの計算が必要なのか。そしてどれだけ時間が消費されるのか。
機関演算士が骨髄炎から解放される?
大量の紙が空に舞った後に残る虚な男を救えるのならば、可能ならば、僕だって救ってやりたいのだ。
税務官吏? そう、この作り手の父もそうだった。進数に翻弄されず、ああ、あれほど無意味に思えた仕事も消える。
僕はもうすっかり自分のついた嘘を、妄想を、仮定を、心の底から信じてしまった。
これだ。そうだ。これをやるのだ。
パシン!
僕の両頬をフェルが包むようにはたいた。
「Dさま。大丈夫ですか?」
ジージが心配そうな声を上げる。
僕は頭を振って現実感を取り戻す。そして、老人に向かってこう言う。
「これをくれ。今、今だ。今、金を払う」
その価値がある。最初の一歩目への対価には。
笑いたいと思った。だが、両頬の痛みに口角が歪んだ。僕は予想外の表情に困惑した二人の使用人たちに向き直るのだ。
それなりの力強さで、威厳を持って、宣言できたのではないだろうか。
「これをやろう」




