第2話 虫の居所
虫の話をしよう。
千喰羽虫という。名前のとおり、千もの物質を喰うとされる。紙、木、布、皮、封印札。古い遺物の外装すら、こいつらにとっては餌のうちだ。卵は何年でも土の中で眠り、頃合いを見て、いっせいに孵る。
いっせいにというのがタチが悪い。一匹なら手で潰せばいい。だが群れになった羽虫の羽音は聞く者の判断を鈍らせる。気づいたときには、守りたかったものが片端から穴だらけになっている。
古い文献に、こんな記録がある。
かつてある町の米蔵が一瞬で飢えた。ありとあらゆるものが一斉に食い破られ、中に何が納められていたかは、今も分かっていない。記録を書いた紙ごと、虫が食ったからだ。
封印札の墨が食われれば、封印は解ける。札の下に何が眠っていたかは、その時になってみないと分からない。これが、虫の一番嫌なところだ。
文献はもう一つ、こうも言っている。千喰羽虫は、朱腐ノ森のあたりで湧きやすい、と。
森から馬車を乗り継いでも数日はかかる皇都の学園に、本来いるはずのない虫だ。
そのいるはずのない虫が、廊下の木箱の封印札を二枚、きれいに食っていた。
最悪だ。初日の翌日から、これである。
「……虫ですか」
差し出された報告書を眺め、私は深いため息をついた。
遺物ならまだいい。遺物は理屈で動く。鑑定すれば素性が分かるし、少なくとも、こちらが見ている前で勝手に飛んで逃げたりはしない。虫は駄目だ。理屈がない。小さくて、多くて、こちらの都合をいっさい考えない。
最も対処したくない相手の上位に、虫は入る。ちなみに一位は、貴族である。
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着任二日目の朝、学園長室に呼ばれた私を待っていたのは、その報告書と、水瀬カヤの笑顔だった。
「おはようございます、鷺宮先生。早速ですが、お仕事です」
「初日のうちに帰っておくべきでした」
「初日も帰してませんよ」
カヤは書類板を抱えたまま、にこやかに廊下を歩き出す。学園長は今朝は不在らしい。早朝から区の会合に出ているのだという。
「学園長からの伝言です。『あの木箱、お前なら分かるな』とのことで」
「分かるとは」
「さあ。私はただの伝書鳩ですので」
よく囀る伝書鳩だ。
昨日、廊下の隅に積まれていた木箱。封印札が貼られ、そのうち二枚が端から食われていた。私が半歩離れて通り過ぎ、学園長だけがそれを見咎めたあの箱だ。
見なかったことにしたかったのだが、世の中はそう都合よくできていない。見なかったことにしたものほど、向こうから寄ってくる。
「中身は何です」
「それが、記録がはっきりしないんです。古い保管品で、封印したのも代替わりしていて。ただ――」
カヤが足を止めた。木箱の前だ。
「封印を担当している生徒が、自分で確かめると言って聞かなくて。今、立ち会ってもらっています」
木箱のそばに、一人の少女が座り込んでいた。
裏の門の制服。黒い布を基調にした、きっちりとした着付け。袖や帯のあちこちに、細く折り畳んだ札が差してある。膝の上にも、書きかけの札と筆。
少女は私たちが近づいても顔を上げなかった。食われた札を手に取り、じっと見つめている。眉根が寄り、唇が引き結ばれている。
叱られている最中の子供の顔だ。ただし、叱っているのは本人である。
「黒川さん」
カヤが声をかけると、少女はようやく顔を上げた。それから私を見て、ほんの少しだけ、目に光が差した。
「……遺物屋さん」
先生でも、管理官でもなかった。遺物屋さん、と少女は言った。
「黒川マヨイです。裏の門で、封印を」
言いかけて、彼女は手元の食われた札に目を落とす。
「……私が、貼りました。この札」
それきり、黙ってしまった。
なるほど。これは厄介な子だ。元気な問題児なら扱いは楽だが、黙って自分を責める子は、対処に手間がかかる。慰めても聞かないし、放っておけば沈んでいく。
私は札を一枚、彼女の手から受け取った。
「いいですか」
「……はい」
別に許可を求めたわけではない。もう手に取っている。だが、こういう子には、一手ずつ確認を取った方がいい。勝手に進めると、それすら自分の落ち度に数える。
札を光にかざす。墨の走り、紙の目、折りの精度。
悪くない。むしろ、いい。学生の仕事とは思えないほど、丁寧に組んである。
「君が、これを一人で?」
「裏の門の、基本の封じ札です。誰でも書けます」
「誰でも書けるものを、ここまで書ける人間は、誰でもではない」
マヨイが、瞬きをした。
私は札の食われた縁を指でなぞる。墨の線が、ぎざぎざに食い千切られている。だが――食われているのは、紙だ。墨ではない。
「黒川さん。封じ札というのは、何で術を起こしているか、知っていますか」
「……古い時代の、技術だと。詳しくは、伝わっていません」
「正解です。詳しくは、誰も知らない」
封じ札も、結界も、星読みも、元をたどれば古代文明の遺物に行き着く。今の術は、その技術のなれの果てだ。劣化して、簡略化されて、それでも辛うじて動いている影法師のようなもの。
もっとも、それを口に出すと陰陽師あたりが面倒な顔をするので、言わないでおく。
「君の札は、遺物由来の術で組まれている。術が破られたなら、墨の線――術を通している部分が、焼けるか、滲むか、裂けるかします。術への攻撃には、術らしい痕が残る」
私は食われた縁を、彼女の目の前に差し出した。
「これは、どうです」
「……墨は、無事です。食われているのは、紙だけ」
「そう。つまり、君の封印は破られていない。最後まで、正しく働いていた。これを齧ったやつは、術にはいっさい手を出せず、ただ紙の繊維だけを餌にした。術破りでも、呪詛でもない」
マヨイの口がわずかに開いた。
「では、何が」
「さあ。そこまでは、これだけでは分からない」
私は札を返した。
墨は無事で、紙だけが食われている。そこまでは断言できる。だが、紙を物理的に齧るものなど世の中にはいくらでもいる。虫か、獣か、小動物か、あるいはもっと面倒な何かか。札一枚を眺めて言い当てられるほど世界は親切にできていない。
断定は、現物を見てからだ。それが、危険物と六年付き合って学んだ作法である。
「ともかく」と、私は続けた。「君の腕の話は、ここで終わりです。封印は正しく働いていた。落ち込む方向を、間違えています」
「方向、ですか」
「自分の腕を疑うのは、筋違いだ。疑うべきは、なぜこんなものがここにいるか、でしょう。それは君の責任じゃない」
真面目な子だ。救いの手を差し出しても、その手の角度まで確かめてから握ろうとする。それでも、白かった指の力が、少しだけ抜けたように見えた。
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「で、肝心の中身ですが」
カヤが朗らかに割り込んできた。場の空気を読まないのではなく、読んだ上で読まないふりをする。やはり有能だ。
「何が齧ったのかも、中を見れば分かるでしょう。封印が緩む前に、確認しておきたいんです」
もっともだ。札の食い跡だけでは、断定できることは少ない。現物を見るしかない。
私は木箱の蓋に手をかけた。
マヨイが、息を呑むのが分かった。封印の下に何が眠っているか――この子は、それを背負うつもりでいる。中身が危険なものであればあるほど、自分の札の責任が重くなる、とでも考えているのだろう。札を握る指が、また白くなっている。
古い文献の一節が、頭をよぎる。
ありとあらゆるものが一斉に食い破られ、中に何が納められていたかは、今も分かっていない。記録を書いた紙ごと、虫が食ったからだ。ある町の米蔵は、一瞬で飢えた。
封印の下に、何が眠っているか。
息を整え、蓋を、一気に開けた。
…………。
中には、油紙に包まれた、一冊の綴じ物があった。
それだけだった。
禍々しい瘴気も、噴き出す群れも、噎せ返る腐臭もない。あるのは古びた綴じ物が一冊と、その上を頼りなく這う、小指の先ほどの羽虫が――三匹。
三匹だった。
うち一匹は、すでに仰向けにひっくり返り、脚を弱々しく動かしている。
「…………」
私は、しばらく蓋を持ったまま動かなかった。
ある町の米蔵は、一瞬で飢えた。ありとあらゆるものを食い破る災い。判断を奪う羽音。森から数日の距離を越えてきた、いるはずのない虫。
その正体が、これである。
「……三匹ですか」
「三匹ですね」と、カヤ。
「いえ、二匹半かもしれません。一匹、もう動いていない」
「では、二匹半ですね」
拍子抜けにも、程がある。蓋を開ける前に整えた覚悟を、まるごと返してほしい。
もっとも、文献が嘘をついているわけではないのだろう。千でも喰うから、千喰羽虫。卵がいっせいに孵れば、街ひとつ飢えもする。だが目の前にいるのは、孵り損ねた寝坊組が、三匹。いや、二匹半。
卵が一つ二つ紛れ込んで、ひっそり孵って、餌が出汁の覚書しかなくて、ろくに育てもせず、ここで力尽きかけている。
災いというより、ただの間借り人だ。それも、家賃の払えない。
綴じ物の表には、達筆でこう書いてあった。
『湯の道 秘伝 出汁取り覚書 門外不出』
「……出汁」
「出汁ですね」とカヤ。
「これを、古代の封印技術で、封じていたんですか」
「ですねえ」
マヨイが、覗き込んだまま固まっている。あれほど張り詰めていた顔が、完全に行き場をなくしている。
「ああ、それ。湯の道の秘伝の出汁ですよ」カヤが心底楽しそうに言った。「昔、他寮に盗まれかけたとかで、それ以来ずっと厳重に封印してるんです。裏の門にお願いして」
「出汁を、ですか」
「出汁を、です」
なるほど。世の中には、命より重い面子があるように、遺物より厳重な出汁もあるらしい。
マヨイが、消え入りそうな声で言った。
「……私、ずっと、何か恐ろしいものを封じているのだと思って、毎回、全力で札を」
「腕を磨くには、いい修行だったのでは」
フォローのつもりだったが、彼女はますます小さくなった。難しい子だ。
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とはいえ、笑って済む話ではない。
出汁であろうと国宝であろうと、虫がいる事実は変わらない。私は油紙の縁を持ち上げ、這っている一匹を間近で検めた。
小指の先ほどの体。半透明の羽。顎だけが、体に不釣り合いなほど発達している。紙を削るための顎だ。間違いない。千喰羽虫。文献の挿絵で見たとおりの、災いの顎を持った虫である。寸法だけは、災いと程遠いが。
ただ、ひとつだけ、笑えないことがある。
千喰羽虫は、朱腐ノ森のほとりで湧く。森からここまで、馬車を乗り継いでも数日はかかる。その虫の卵が、なぜ皇都の学園の、封印された木箱の中にいるのか。
卵が紛れ込んだか、誰かが持ち込んだか、あるいは――もっと別の何かか。
分からない。分からないものは、ひとまず見なかったことにする。それでも、嫌な感触だけが、口の中に残った。
二匹半は、しょぼい。だが、しょぼさと安全は別の話だ。卵が綴じ物の奥に残っていれば、いずれまた孵る。一匹が千になるのが、この虫の本領だ。今のうちに、卵ごと焼く。
「黒川さん。下がっていてください」
「でも――」
「君の札は燃えると厄介だ。それも持って、離れて」
マヨイは、迷ってから、袖の札を押さえて一歩退いた。素直なのか、頑固なのか、判断に迷う子だ。
私は鞄から、一つの遺物を取り出した。
火を出す、四角い箱。
手のひらに収まる、金属の小箱だ。蓋を起こすと小さな歯車があり、それを弾くと火が点く。どこの遺跡から出たものか、私も知らない。怪しげな露天商から、二束三文で買った。古代文明の点火具だろう、というのが私の見立てだ。
由緒ある遺物を、虫二匹半に向けて構える。我ながら、大砲で蚊を撃つような絵面だった。だが、紙を焦がさず虫だけを焼くには、加減のきく火がいる。大袈裟でも、道具は正しいものを選ぶに限る。
火を、虫に近づける。
千喰羽虫は、火に弱い。紙を食う虫だから、当然だ。問題は、餌である秘伝の出汁覚書を、一緒に焼かないことだった。
炎の先を、針ほどに細める。綴じ物には触れさせず、虫のいる隙間だけを、舐めるように炙っていく。這っていた二匹が、ちりちりと縮んで落ちる。残る半匹――もとより仰向けだった一匹は、火を待たずに動かなくなった。紙には、焦げ一つつけない。
こういう作業は、嫌いではない。遺物は、丁寧に扱えば、丁寧に応えてくれる。人間や貴族と違って、こちらの手間を裏切らない。
成虫を片付けた。残るは、奥の卵だ。油紙をめくると、綴じ目の陰に、白い粒がいくつか。これを焼いておかないと、二匹半が、本当に千になる。もう少し火を入れて――
ふっ、と。
火が、心もとなく揺れた。
「……?」
炎が、痩せた。さっきまで針のように立っていた火が、急に頼りなく、ちろちろと舌先だけになる。
「……くそっ、火力が落ちやがった」
箱を振る。歯車を、もう一度弾く。火は点く。点くが、弱い。
おかしい。昨日まで、何の問題もなく使えていた。古代の遺物が、よりにもよって虫の卵を前にして音を上げるとは。
「壊れたのか、お前は」
もう一度、振る。火は、いよいよ細る。
「……あの露天商」
二束三文だとは思っていたが、まさか肝心なときに死ぬとは。怪しげな店で、怪しげな品を、安く買った。報いとしては、順当である。順当だが腹は立つ。
幸い、相手は卵が数粒だ。痩せた火でも、時間をかければ届く。私は箱の角度を変え、残った熱を絞り出すようにして、最後の一粒まで炙り終えた。
火は、それを見届けたように、ふっと消えた。
二度と、点かなかった。
「ガラクタを掴まされたな……」
私は、火の点かなくなった箱を、鞄の底に戻した。気に入っていたわけではない。ないが、使えていたものが急に死ぬのは、後味が悪い。
「あの……」
マヨイが、おずおずと近づいてきた。
「貴重な、遺物だったのでは。こんな、虫退治なんかに使わせて」
「何が貴重なものですか。露天で、葡萄酒一本より安く買いましたよ」
「でも、火を、あんなに細く……あんな繊細な使い方、私には、とても」
ああ、と思った。
この子は、火の精度を見ていたのか。出汁を焦がさず、虫だけを焼いた、あの加減を。
まずい。これは、まずい。
「……たまたまです」
「たまたまで、できることでは」
「黒川さん」
「はい」
「説明すると、君が真似しようとして、火事になって、私が学園長に怒られます」
マヨイは、口をつぐんだ。それから、ほんの少し、笑った。
今日初めて見る、彼女の笑顔だった。
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虫は片付いた。秘伝の出汁覚書は、端を少々齧られたものの、無事に救出された。
ただし、齧られた箇所が悪かった。
ちょうど、出汁の配合――昆布と削り節の分量を記した、一行。そこだけが、きれいに、虫の腹に収まっていた。
湯の道の生徒が、後でこれを見て、悲鳴を上げることになる。秘伝の、肝心要の一行だけが、永遠に失われたのだ。
が、それは私の仕事ではない。出汁の再現は、料理人の領分だ。私は遺物屋であって、出汁屋ではない。
報告書を書き終え、私はカヤに封印の解かれた木箱を引き渡した。マヨイは、新しい札を書き直すと言ってもう筆を持っている。今度は、出汁を封じるのに相応しい、ほどほどの札を。
「鷺宮先生」
帰り際、カヤが思い出したように言った。
「さっきの、虫のことですけど」
「ええ」
「朱腐ノ森の虫が、なぜここに、っておっしゃってましたよね」
「言いましたか」
「言ってました。顔に書いてありましたよ、それと、口にも出てました」
よく聞いている鳩だ。
「あの木箱、先月、ある場所から移されてきたんです。区の外れの、古い保管庫から。整理のために」
カヤは、いつもの笑顔のまま、続けた。
「その保管庫、ね。少し前から、職員が誰も近寄りたがらないんですよ。理由は、誰も言わないんですけど」
私は、眼鏡を押さえた。
見なかったことにしたい話がまた一つ増えた。
「……それ、私が聞いてよかった話ですか」
「さあ。私はただの伝書鳩ですので」
カヤは囀って、書類板を抱え直し、廊下を戻っていった。
窓の外で皇都の鐘が鳴る。
虫一匹で済むなら、安いものだ。だが、虫というのは、たいてい一匹では済まない。
そういうものだと、文献にも書いてあった。




