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第1話 左遷

夢を見ていた。


 ずっと昔の夢だ。たぶん、十歳くらいの頃だったと思う。


 青い平原があった。背の低い草が風に倒れ、遠くの丘では白い花が揺れていた。


 私たちはその中を走っていた。息を切らして、笑って、転んで、また立ち上がって。意味もなく競争して、意味もなく叫んで、ただ前へ前へと走っていた。


 あの頃の私は、今よりずっと体が軽かった気がする。少なくとも朝起きるだけで人生を呪うような子供ではなかった。


「私、ハンターになる!」


 最初にそう言ったのは、お伽話が好きな少女だった。彼女はよく古い英雄譚を読んでいた。山を越える獣を倒したハンター、遺跡から失われた遺物を持ち帰ったハンター、街道を守り名を上げたハンター。そういう話を本気で信じていた。


 いや、信じていたのは彼女だけではない。私たちはみんなどこかで信じていた。


「私もなる!」


「じゃあ、俺は一番強いハンターになる!」


「私は遺物を見つけて大金持ちになる!」


「私は世界中の美味しいもの見つける!」


 夢の中の子供たちはみんな眩しかった。自分の未来を当然のように信じていた。


 一人だけ、何も言わなかった子がいた。


 みんなが夢を叫ぶ中で、その子は黙って笑っていた。叫ぶ必要がなかったのか、叫ぶ夢がなかったのか。今となっては思い出せない。ただ、その横顔だけが、なぜか一番よく覚えている。


 実際、彼らには才能があった。体が強い者、刀の扱いがうまい者、モンスターの気配に敏い者、世界の流れを読むのが得意な者、エナの流れを見る者。皆、ハンターとなる資質を備えていた。


 彼女らは進み続けた。前へ。前へ。力のない私を置いていくかのように。


 今も、きっと。


 前へ、前へと。


 進み続けている。


    ──────────


 目覚めは最悪だった。


 五時に設定していた時告げの遺物は起動していない。壁際に置いたそれは、沈黙したまま何食わぬ顔で六時前を指していた。窓の外はどんよりとした曇り空で、灰色の雲が皇都アハシマの上に垂れ込め、朝だというのに空気が重い。


 最悪だ。夢見も悪い。天気も悪い。時計の機嫌も悪い。


 そして、たぶん私の運も悪い。


「……ラッキーダイスを昨日振った人、誰でしたっけ」


 返事はない。部屋にいるのは私だけだ。


 私は寝台の上でしばらく天井を見つめ、それから諦めて体を起こした。体が重い。いつものことだ。寝不足か、疲労か、低血圧か。あるいは、所持している数々の遺物か。


 原因は分からない。分からないものは、ひとまず見なかったことにする。


 ギルドに六年所属して得た最も大きなものは、勇気ではない。危険物を見たときすぐ触らず、まず見なかったことにする判断力だ。


 私は枕元に手を伸ばし、眼鏡を探した。度なしの伊達眼鏡。視力を補うためのものではない。それでも、これをかけると少しだけ世界が柔らかくなる。私は眼鏡をかけ、ようやく布団から出た。


 皇都アハシマは、早朝でも賑やかだ。整備された町並みを大通りが太く網目状に走り、荷を積んだ馬車が行き交う。商人が店先を開け、ギルド職員が朝の掲示を張り替え、武器を帯びたハンターたちが歩いている。彼らは朝からよく動く。尊敬する。真似はしたくない。


 ハンターは、今も昔も花形の職業だ。才能さえあれば、貴族の家にも商家にも生まれなくとも、刀一本で富も名誉も力も手に入る。だから誰もが憧れる。夢の中の子供たちが、当然のようにそう叫んだように。


 道の向こうでは、見習いらしい若者たちが先輩ハンターに叱られながら荷を運んでいた。誰も彼も、今日を前に進むために使っている。私は今日を、できれば布団の中で消費したかった。


 だが、そうはいかない。


 机の上には、昨日届いた封書が置かれている。ギルド本部の印、人事局の封蝋。開ける前から面倒ごとの匂いがする紙だ。私はそれを手に取り、もう一度だけ中身を確認した。


 内容は簡潔だった。カグラザカ区四寮合同学園、遺物実習教員への転属。


 辞令としては穏やかだ。左遷とは書かれていない。もちろん、そんなことは書かない。人事局というのは、言葉の刃物を綿で包むのが仕事だからだ。


 表向きの理由は遺物関連の人員補充である。アハシマ南部のカグラザカ区――四つの学園、通称四寮では、遺物実習事故が増えているらしい。未判定遺物の扱い、遺跡外縁での回収手順、学生ハンター補への安全教育。そのために本部遺物管理部から専門職員を一名派遣する。書類の上では、そういうことになっている。


 もう少し正確に言うなら。


「コイツは遺物管理部に置いておくとまた問題を起こすから、学園に押しつけろ」


 という意味である。


 つい最近の出来事で言えば、貴族の馬車を吹き飛ばしたのは事実だ。ただし、こちらにも言い分はある。襲ってきたモンスターを止めるには、周辺の馬車ごと動かした方が早かった。死者は出ていない。貴族も生きていた。


 問題があるとすれば、貴族の面子だけである。面子というのは厄介だ。人命より軽いくせに、プライドは人命より高くつく。


 不幸なことに今回は、その面子を人命より重く見る方々を、まとめて怒らせてしまったらしい。


 私は辞令を畳み、懐へしまった。荷物は、もうほとんどまとまっている。小さな鞄に最低限の着替え、書類、いくつかの私物。そして、ギルドに申告している遺物と、申告していない遺物が少し。


 学園側に確認されたら面倒だ。だが、面倒だからといって置いていくほど私は善良な職員ではない。


 窓の外で皇都の鐘が鳴った。六時。完全に寝坊だ。


「……見なかったことにしましょう」


 見なかったことにしても、馬車の時間は変わらない。それでも言うだけなら無料だ。そういう小さな無料を積み重ねて、人は今日を生き延びるのである。


    ──────────


 カグラザカ区は、皇都アハシマの南にある。


 中心街から馬車に乗り、太い通りを南へ下っていくと町の顔が少しずつ変わっていく。商家と役所の区画を抜け、工房街を過ぎると古い瓦屋根が増えてくる。朱塗りの門、長い回廊、古い庭、学園の旗。その一帯だけ皇都の中に昔の小さな京がそのまま残っているようだった。古い人間の中には、今でもここをカグラザカ京と呼ぶ者もいるらしい。


 馬車を降りると、刀を帯びた少女たちが通りを歩いていた。制服は学園ごとに違うが、刀を持っている点だけは同じだ。背に長刀を負う者、腰に短刀を差す者、刀袋を抱える者、工具帯を下げる者、巻物筒を背負う者。学生であり、ハンター補でもある少女たち。


 私は彼女たちの視線を受けながら、四寮合同学園の門をくぐった。


 門の先は広い中庭だった。右手に古い木造の建物、湯の道だろう。左奥には黒い門を構えた重々しい建物、裏の門。正面奥に演武場と工房を抱えた巨大な建物があり、これが高技館。中庭のさらに奥、静かにそびえる書庫めいた建物が徒然草。


 どれも、書類で見るよりずっと面倒そうだった。


「鷺宮ユキ様ですね?」


 声をかけられて振り向くと、若い女性が立っていた。年は二十代後半ほど。きちんと整えた服装に、手元には書類板。顔には、人を安心させるための笑みが浮かんでいる。


 こういう笑みをする人間は、大抵仕事ができる。そして仕事ができる人間は、だいたい面倒ごとを正確にこちらへ運んでくる。


「はい。鷺宮です」


「四寮合同事務局の水瀬カヤです。学園長がお待ちです」


「待たせてしまいましたか」


「少しだけ」


「少しで済んでいるなら、今日はまだ運がいいですね」


 カヤは笑顔のまま、手元の書類に目を落とした。


「ええ。時計の不調による遅刻未遂、ということで処理しておきます」


「まだ何も言っていませんが」


「顔に書いてありましたよ、寝坊って」


「顔は報告書ではありません」


「でも、よく当たります」


 この人は、危険だ。私はそう判断した。


 カヤに案内され、管理棟の学園長室へ向かう。廊下を歩く間も、生徒たちの視線が刺さった。


「男の先生?」


「ギルドから来た人?」


「遺物の先生だって」


「文官っぽい?」


「へー、弱そう」


 最後の評価は正しい。ただし、声量に配慮が欲しい。


 廊下の途中、壁際に古い木箱がいくつか積んであった。封印札が貼られている。そのうちの二枚が、端から細かく食われていた。私は箱の中身を見ていない。見る気もない。ただ、通りすがりに半歩分だけ、箱から離れて歩いた。


 それだけのことだ。誰も気に留めない。前を歩くカヤも、後ろの生徒も。


「学園長」


 カヤが学園長室の前で扉を叩いた。


「鷺宮先生をお連れしました」


「入れ」


 低い声が返ってきた。カヤが扉を開ける。


 中にいたのは、五十代後半ほどの女性だった。


 大きい。まずそう思った。背が高く、肩幅が広く、腕が太い。机の向こうに座っているのに、まるで演武場に立っているような圧がある。腰には大ぶりの刀。学園長というより、元ハンターという言葉の方が似合う。


「鷺宮ユキ」


 学園長が書類から目を上げた。


「ギルド本部遺物管理部所属。本日付で、カグラザカ区四寮合同学園、遺物実習教員へ転属。お前の悪評は聞いているぞ」


「評判というものは、だいたい悪い方が足速いですからね」


「最近でも、貴族馬車浮遊事件、鱗干潟爆破事件、銀鉱脈落盤事件に関与していたらしいな」


「全部、巻き込まれただけですよ」


「巻き込まれただけで、馬車は浮かんで、干潟は爆ぜて、鉱脈は落ちるのか」


「私は少し手を加えただけです。大体は向こうのせいです」


「向こうとは誰だ」


「モンスター、遺物、地盤、貴族の判断力です」


「最後の一つは敵に回すな。面倒だ」


「すでに回っているので、今さらかと」


「開き直るな」


 カヤが横から、そっと小瓶を差し出した。


「学園長、胃薬いります?」


「もう飲んだ」


「では二本目ですね」


「まだ初日だぞ」


 学園長は額に手を当てた。


「私は鷹司イワネ。この四寮合同学園の学園長だ」


「鷺宮ユキです。できれば穏やかな教員として扱っていただけると助かります」


「穏やかな教員は、初日から胃薬を要求させない」


「まだ何もしていません」


「過去がもうしている」


 反論しづらい。人間は過去に足を引っ張られる生き物だ。私の場合、過去が両足を掴んで、底なしの大穴に引き落とそうとしてくる。


 カヤが書類をめくった。


「本日の予定ですが、着任手続き、四寮代表への挨拶、遺物実習室の確認、それから初回講義の打ち合わせです」


「帰っていいですか」


「初日です」


「だからこそ、まだ引き返せるかと」


「無理です」


 即答だった。学園長が机を指で叩く。


「鷺宮。ここではお前を管理官ではなく、先生として扱う」


「責任が増える響きですね」


「増える。生徒を相手にするんだからな」


「遺物より扱いが難しそうです」


「遺物より素直な生徒もいる。遺物より危ない生徒もいる。どちらも、お前の担当だ」


「帰っていいですか」


「駄目だ」


 私は眼鏡を押さえた。どうやら今日という日は、見なかったことにできないらしい。


 学園長は、しばらく私を見ていた。胃薬の小瓶を弄びながら、何かを値踏みするような目で。


「鷺宮」


「はい」


「廊下の木箱。札が食われていたな」


「そうでしたか。気づきませんでした」


「気づかない人間は、あの箱から離れて歩かない」


 私は答えなかった。学園長も、それ以上は言わなかった。ただ、口の端をわずかに上げただけだった。それは笑みというより、面倒な荷物の重さを正確に量り終えた人間の顔だった。


「……お前、本当に管理部のいる場所が似合う男か?」


「書類仕事は得意です」


「聞いたことに答えていないな」


「得意なことしか答えない主義でして」


「では、得意でないことを聞こう。お前、現場は何年やった」


「現場という言葉の定義によります」


「モンスターと札と地盤に手を加える場所のことだ」


「それでしたら、全部巻き込まれただけですので、年数には数えていません」


「数えていないだけで、やってはいるんだな」


「……書類仕事は得意です」


「さっき聞いた」


「大事なことなので二度言いました」


 学園長は、しばらく黙っていた。それから、机の上の胃薬をもう一本、転がすように手に取った。


「鷺宮。私は現場を三十年やった。嘘をつく人間は何人も見てきた」


「それはご苦労さまです」


「お前は、嘘はついていない。一つもな」


「光栄です」


「ただ、本当のことも一つも言っていない」


 私は眼鏡を押さえた。


「……それは、嘘をつくより難しい技術なんですよ。褒め言葉として受け取っておきます」


「褒めていない」


「では、聞かなかったことにします」


 学園長は短く息を吐き、立ち上がった。荷物の重さは量り終えた、という顔のままで。


「来い。まずは四寮の代表に顔を見せる」


「もう少し心の準備を」


「必要ない。どうせ向こうは、すでに見に来ている」


「向こう?」


 学園長が扉の方へ目をやった。


「入れ」


 次の瞬間、扉の向こうで小さな悲鳴が上がった。ばたばたと足音、衣擦れ、何かが倒れる音。カヤがにこにこと扉を開ける。


 そこには、制服姿の少女が四人、廊下で固まっていた。一人は長刀を背負い、一人は荷物袋を抱え、一人は星模様の羽織をきっちり着込み、一人は古びた書板を胸に抱えている。全員、こちらを見ていた。


「……ええと」


 長刀の少女が、ぱっと顔を輝かせた。


「新しい先生ですか!?」


 私は学園長を見た。


「帰っていいですか」


「駄目だ」


 カヤが笑った。


「ようこそ、カグラザカ区四寮合同学園へ。鷺宮先生」


 先生。その言葉は、思ったよりも重かった。遺物よりも、辞令よりも、報告書よりも。たぶん、ずっと面倒な響きをしていた。

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