保管庫
厄介事には二種類ある。
今すぐ片付けないと、こちらが死ぬもの。それから、今は放っておけるが、放っておくほど大きくなるもの。
前者は、嫌でも片付ける。死にたくないからだ。問題は、後者だった。
保管庫の虫である。
昨日学園の廊下で見つけた木箱。封印札を食われ、中の出汁の覚書まで齧られていたあれだ。湧いていたのは、千喰羽虫が二匹半。寸法は災いと程遠かったが、種類だけは文献どおりの厄介者だった。
あの木箱が、先月区の外れの古い保管庫から運ばれてきたものだ――そう、事務局の水瀬カヤが帰り際に教えてくれた。職員が誰も近寄りたがらない保管庫、だとも。
つまり、こういうことだ。虫は木箱と一緒に保管庫からやってきた。
ならば、出どころにこそ本体がいる。
千喰羽虫の卵は、土の中で何年でも眠る。木箱に二匹半いたということは、保管庫にはその卵がいくらでも眠っている見込みが高い。一度どこかで孵り始めたということは、条件が揃ったということだ。今は数匹でも、来月、再来月、あるいは来年、いっせいに孵らないという保証はどこにもない。
そうなってから動くと、面倒は十倍になる。経験上間違いない。
学園の害虫を出どころごと潰しておく。それが昨日のうちに私の頭をよぎり、今朝まで居座っていた小さな宿題だった。
もっとも、行ってみたら卵など一つもないということもありうる。それならそれでありがたい。だが、ありがたい方の予想が当たった例は私の人生において、数えるほどしかない。
だから、面倒なうちに小さな面倒のうちに潰しておく。
これは勇気ではない。ただの計算だ。今日の小さな億劫と、後日の大きな地獄を天秤にかけているだけである。たいていの大人が、毎朝この天秤を覗き込んでため息をついて生きている。
私は学園の依頼掲示板の前に立ち、一枚の依頼書を貼り出した。
保管庫の害虫処理、ならびに収蔵品の確認。難度は低め。ハンター補でも従事可能。引率、鷺宮ユキ。
報酬の欄で少し手が止まった。
予算を申請するには書類がいる。書類には理由と、見積もりと、上長の判を要する。それを揃える手間を考えると目の前が暗くなった。
私は報酬欄に自分の給料からの実費支給と書き込んだ。
書類を書くより自腹の方が早い。早いが、安くはない。学生三人分の手間賃を給料から引けば、今月の私の食卓は確実に貧しくなる。
まあいい。胃が痛いときは、どうせ大して食えない。
依頼書を事務局に提出すると、水瀬カヤがいつもの笑顔で一枚の紙を差し出してきた。
「保管庫までの地図です。少し分かりにくいので」
「ご親切に」
「区の外れですし、道も整っていません。気をつけて行ってください」
受け取った地図は、新しく書き写したものだった。線が真新しい。
「新しいですね」
「現行の区図には載っていないので、古い台帳から起こしました」
区の地図に載っていない保管庫。
あまり気持ちのいい話ではなかった。だが、気持ちのいい話ならそもそも私のところには回ってこない。私はそういう仕事をする人間として、ここへ送られてきたのである。
「では、行ってきます」
「お気をつけて。書類が増えると私が困るので」
最後のひと言で、この人は食えない人だと感じた。
──────────
デスクに戻り、地図を広げて経路を確かめる。
半日くらいは静かに過ごせるだろうと思っていた。地味な害虫処理の依頼にそうそう人は集まらない。そうたかをくくっていた。
三十分も平穏はもたなかった。
「遺物のセンセー、ですよね?」
顔を上げると一人の少女が立っていた。
徒然草の制服。だが、着方がどこか砕けている。そこそこ大きな胸元を開き、帯はゆるく、襟は崩し、髪は無造作にひとつにまとめている。何より目が好奇心で光っていた。新しい玩具を見つけた猫のような目だ。
「この依頼私やります!紀ノコトハ。徒然草で、古い文字とか記録とか、その辺やってますvv」
「ずいぶん早いですね」
「だって、噂で持ちきりなんですよ。新しく来た遺物のセンセーが、初日から学園長室を胃薬まみれにしたって」
「事実無根です。胃薬を飲んだのは学園長です」
「飲ませたのはセンセーでしょ?」
この子は、危険だ...
私はそう判断した。最近同じ判断を下す回数が増えている。この学園には危険な人間しかいないのかもしれない。
「君、解読はできるんですか」
「できますよー。これでも徒然草で三本の指。記録を当たるのは得意です。あと、噂を集めるのも!」
「今回は後半要りません」
「後半が本業ですけどー」
古い文字を解読する才能と、最新の噂を集める才能。どちらも、結局は同じ穴から湧いている。情報を集めて、誰かに伝えたい。この子の場合、その穴がやや大きいだけだ。
頭が痛くなる予感がした。だが、解読役は欲しい。背に腹は代えられない。
「いいでしょう。よろしくお願いします」
「やった。ね、センセー、その虫ってどんなやつなんですか? みんな気にしててさー」
「まだ何も始まっていません」
「始まったら一番に教えてくださいねっ」
嫌な約束をさせられそうになったので、聞かなかったことにした。
その時、廊下の向こうから軽い足音が駆けてきた。
「センセー! あたしも行きます!」
高技館の制服を着た少女が、勢いよく飛び込んできた。短い髪、日に焼けた肌、背には体格に見合わない長刀。全身から元気が溢れている。元気というのは、時に暴力に近い。
「葛城アカリです! 前衛やってます! その依頼、護衛いるでしょ? 古い倉庫って、何が出るか分かんないし!」
「害虫処理ですが」
「害虫だって、でかいのが出るかもしれないじゃないですか!」
「出ませんよ。手のひらに乗る虫です」
「えー、せっかく来たのに」
あからさまにがっかりした顔をされた。戦う気満々で来たらしい。戦う相手のいない護衛ほど、扱いに困るものはない。
だが、古い倉庫が崩れかけている可能性はある。力仕事のできる人手は、あって損はない。
「……まあ、いいでしょう。荷運びと足場の確認を頼みます」
「荷運び!?」
「不満ですか」
「いえ! やります! あたし、力には自信あるんで!」
単純な子で助かる。コトハとは別の意味で扱いやすい。賢い子は油断ならないが、まっすぐな子は、まっすぐなぶんだけ予測がつく。
二人が来たところで、最後の一人がふらりと現れた。
徒然草の制服。だが、コトハとは正反対に着方がきっちりしている。それでいて、どこかここにいないような顔をしていた。視線が私たちより少し上の、何もない空間をさまよっている。
「……古い、保管庫に行くと、聞いて」
彼女は夢から覚めきっていないような声で言った。
「春日ナギサ、です。古い物語とか、言い伝えとか、そういうものを、調べています。古い場所には、古い話が、眠っているので」
「君も解読を?」
「文字は、コトハちゃんの方が。私は、文字にならなかった話を」
文字にならなかった話。
記録に残らず、口から口へ語り継がれただけの、曖昧な何か。コトハが「書かれたもの」の専門なら、ナギサは「書かれなかったもの」の専門というわけだ。
奇妙な三人が揃った。記録を漁る噂好き、戦う気しかない脳筋、それから夢の中に半分住んでいる伝承屋。
解読役を二人、護衛を一人。欲しかった人員は、一応、揃っている。揃ってはいるのだが。まあ全員ハンター補だから戦闘に関しては叩き込まれてるだろう...
「センセー、なんか微妙な顔してません?」とコトハがジト目でみてくる。
「気のせいです」
「絶対、人選が微妙だなって思ってましたよね」
「……君は、本当に、要らない才能の方が鋭いですね」
──────────
保管庫は、区の外れにあった。
商家も役所も尽きて、人通りが絶え、舗装も途切れた先。雑草に半ば飲まれた細い道を、地図を頼りに辿っていく。皇都の喧騒が、嘘のように遠い。
道々三人はよく喋った。正確には、コトハとアカリがよく喋り、ナギサが時々夢のような相槌を打った。
「ねえセンセー、男のハンターってやっぱ珍しいですよね」とアカリ。
「珍しいですね。だからすぐ覚えられて、すぐ悪評が回ります」
「えー、悪いことしたんですか?」
「巻き込まれただけです。たいてい」
「たいていってことは、たまには?」
「……たまには、まあ」
この世界、男はそもそも数が少ない。生まれてくる子供の、女の方がずっと多いのだ。理由は誰も知らない。昔からそうだから、そういうものだとされている。
だから、刀を握る者の多くは女になる。この四寮が女ばかりなのも別に変わったことではない。男の方が、ただ、珍しい。
「あたし、強くなりたくてハンター目指してるんです」とアカリが胸を張った。「いつか誰よりも強くなって、名を上げるんです!」
「私はー」とコトハ。「面白い話を、誰よりも先に知りたいからかなー。あと、有名になりたい!みんなが私の話を聞きに来るような」
「……私は」ナギサが、ぽつりと言った。「物語の中の、ハンターみたいに。古い英雄譚に出てくる、あんなふうに、なれたらって」
強くなりたい。遺物を知りたい。物語の中へ。
眩しい顔で三人が、それぞれの夢を語る。
――昔、こういう光景をどこかで見た気がする。
平原だったか。背の低い草が風に倒れていた気がする。誰かが、同じように当たり前みたいな顔をして、自分の夢を叫んでいた。
思い出しかけて、やめた。見なかったことにする。
「センセーは、なんでハンターやってるんですか?」
アカリの無邪気な問いに、私は短く答えた。
「やっていません。私は遺物の番人です。ハンターは、もっと立派な人たちの仕事ですよ」
立派な人たち。前へ、前へと、進み続けている人たち。
私はその背中を見送る側の人間だった。昔も、今も。
「謙遜だー」とコトハが笑った。
謙遜ではない。事実だ。だが訂正するのも面倒だったので私は黙って歩いた。
──────────
保管庫は思っていたよりひどかった。
木造の平屋。屋根は半ば落ち、柱は傾ぎ、壁板は隙間だらけだ。今にも崩れそうというのは正確ではない。正確には、もう半分崩れている。よく今まで建っていたものだと、逆に感心する。
「うっわ、ボロー」とアカリが遠慮なく言った。「センセー、これ入って大丈夫なんですか?」
「大丈夫ではありません。だから足場の確認を頼んだんです」
アカリが先に立ち、床板を踏んで強度を確かめながら進む。こういうとき脳筋は役に立つ。体重をかけて、抜けなければ歩けるという単純な確認を嫌がらずにやってくれる。
中は薄暗かった。
壁の隙間から差し込む光に、埃が舞っている。古い木箱がいくつも積まれている。紙の束。割れた壺。錆びた農具。打ち捨てられて久しい、誰かの忘れ物の山だ。
最初はただ寂れた倉庫だった。
奥へ進むにつれて、それが変わった。
空気が湿り始めた。埃の匂いに、別の匂いが混じる。甘いような、饐えたような、嗅いだことのない匂い。鼻の奥に嫌な感じが残る。
「……なんか、臭くないですか」とコトハ。さっきまでの軽口が少し沈んでいる。
「臭いですね」
「腐ってる、感じ……?」
「のようですね」
奥へ行くほど、匂いは濃くなった。アカリの口数が減っていく。元気な子が黙ると、場の温度がはっきりと下がる。
いちばん奥。
半ば崩れた棚の陰に、それはあった。
白い、塊だった。
岩のようでもあり、そうでないようでもある。表面は濡れたように鈍く光っている。大人が両腕で抱えるほどの大きさ。色は骨のような白。だが、ところどころが、灰色に、黒に、腐ったように変色している。
そしてその表面を。
小さな羽虫が、何匹か這っていた。
「…………」
誰も、何も言わなかった。
私は無意識に半歩下がっていた。理屈ではない。これに近づいてはいけないと、体のどこかが言っている。六年も危険物と付き合ってきた間に、勝手に身についた反応だ。何が危険かは分からない。ただ、危険だとだけ分かる。
もっとも、それを口に出すと面倒なので私は努めて平静な顔で、塊を観察した。専門家らしく、冷静に。中身は冷静ではなかったが。
「コトハ。こういうもの記録にありますか」
コトハが、おそるおそる近づいて、塊を見た。それから首をかしげた。
「……ないですねー。こんなの見たことない。白い鉱物の記録なら、いくつか知ってますけど、こんな……腐る石なんて」
「ナギサは」
ナギサは、塊をじっと見つめていた。夢を見るような目で。だが、その目が珍しく、戸惑っていた。
「……分かりません」
ぽつりと、彼女は言った。
「こんな話聞いたことが、ない。古い言い伝えにも、英雄譚にも、怪談にも。どこにも、こんなものは、出てこない」
文字に残らなかった話まで知っている子が、知らないと言った。
「あたしも知らないです」とアカリが、小さな声で言った。戦う気はもうすっかり失せている。「ていうかなんか、すごい嫌な感じ」
四人が四人とも知らなかった。
記録にも、伝承にも、文献にもない。
この世界の知識をいくら積み重ねても、この白い塊の正体には一文字も届かない。
それが、何より嫌だった。
知らないものは怖い。だが、もっと怖いのは知っているはずの人間が、揃って知らないと言うことだ。
「……今日のところは、触らないでおきましょう」
私は、なるべく軽く聞こえるように言った。
「虫だけ片付けて、この塊は報告だけ上げます。私の手に負えるものか確かめてからの方がいい」
「センセーでも、分かんないんですか」とコトハ。
「ええ。分かりません」
分からないものは、ひとまず見なかったことにする。それが私の作法だ。
だが、今日に限っては。
見てしまったものを、見なかったことにするのは、ずいぶんと難しそうだった。
白い塊は薄暗い倉庫の奥で、濡れたように光りながら、ただそこにあった。
何も語らず。誰にも、その名を知られないまま。




