第10話
笑ってしまって、返事が遅れた。
舞台袖の薄暗がりで、私はしゃがみ込んだまま、紙の束を抱えて笑っている。三年間、人前では一度も本当に笑わなかった。その分が、今まとめて出てきたような笑い方だった。ハンナが泣きながら、私の背中をさすっている。
ギルベルトは、立ったまま待っていた。無職の人の待ち方としては、ずいぶん姿勢がいい。
「……アイゼン様」
「はい」
「職を見つけてから、もう一度申し込みなさい」
彼は、少し考えた。
「分かりました」
それから本当に、翌朝から職を探し始めた。
城下の警邏隊には、前の職を辞めた理由を聞かれて正直に答え、その場で断られたそうだ。商会の護衛には、雑談が下手すぎて客が怖がると言われたらしい。三日目に倉庫へ報告に来たとき、彼は手帳に不採用の理由を几帳面に書き並べていた。
それからの三週間で、いろいろなことが片づいた。片づかなかったことも、いくつかある。
王妃陛下は、ご静養のために離宮へ移られることになった。公にはそう発表された。罰と呼べるほどのものではない。陛下は王妃のままで、離宮には薔薇の庭があるという。刺繍の続きは、そこでなさるのだろう。
それで十分だと、私は思った。あの方が失ったのは、体面だけだ。けれど、あの方がいちばん大事にしていたのも、たぶん体面だった。
殿下の立太子の儀は、延期になった。延期の理由は発表されていない。発表されなくても、王都の誰もが知っている。
奪われた記録帳は、戻ってこなかった。王妃陛下の私兵の詰所で、紛失したことになっているらしい。ギルベルトは、そうですか、とだけ言った。
修道院を無断で抜け出した件は、自発的な入会だったのだから自発的な退会でよろしい、というマルガ様の短い書状一通で片づいた。
灯り座の『悪役令嬢物語』は、最後の幕を書き直して、あれから毎晩上演されている。二階席はいつも立ち見で、刷り物の隅の落書きは、十日ほどで見かけなくなった。
一度、倉庫の入り口に、菫の束が置いてあった。いちばん色のいいところだけを集めた、小さな束。置いていった人の顔は見ていない。見なくても、分かった。
父が灯り座の倉庫に来たのは、十日目の昼だった。
私はそのとき、酒樽の机で新しい台本の筋を書いていた。座長に頼まれた、次の巡業用の喜劇だ。
父は、倉庫の入り口で帽子を取る。三週間で、ずいぶん老けたように見えた。
「肩代わりが取り消されて、借用書が全部戻ってきた。南の領地を手放すことになる」
「存じておりますわ」
「ロザリンデ。屋敷に戻って、帳簿を見てくれないか。私では、どこから手をつけていいのか分からん」
父は、帽子のつばを両手で握っている。
「お前にも、辛い思いをさせた。すまないとは思っている。だが、ヴェルナーの家は、お前の家でもあるだろう。お前も少しは、家のことを」
そこで父は、言葉を探して黙った。すまない、の続きに、また家のことが来てしまったと、父自身も気づいたのかもしれない。気づかなかったのかもしれない。どちらなのかは、顔を見ても分からなかった。
「帳簿は、ご自分でおつけになってくださいませ」
ペンを置かずに、私は言う。
「最初の一か月だけ、つけ方を書いた紙をお送りします。それ以上は、いたしません」
父は何か言いかけて、帽子をかぶり直した。
それが、父と交わした最後の長い会話になった。父は最後まで、上手に謝れない人のまま。
ミアとは、学院の門の前で一度だけ会った。
婚約は、保留にしたのだという。特待生として学業に戻って、来年の試験で官吏の資格を取るつもりらしい。髪には、母親の形見の古い銀の髪飾りが挿してあった。
「殿下のことは」
「分からない。好きなのかどうか、一回ちゃんと考えたいの。誰の筋書きも入ってないところで」
ミアは門の柱にもたれて、私を見る。
「お礼は言わないから」
「存じておりますわ」
「借りは返したから。荷馬車と、アイゼン隊長の嘆願書で」
それだけ言って、ミアは門の中へ戻っていった。振り返りもしない。
私たちは、たぶん最後まで友人にはならない。それでいい、と思った。
殿下からは、一度だけ手紙が届いた。
封蝋は王家の紋章で、厚みからして、便箋二枚ほどだった。封は、切らない。燃やしもしない。今は、読みかけの戯曲集のしおりになっている。ちょうどいい厚さなので。
灯り座の座長から、正式に座付きの書き手として雇いたいと言われたのは、三週間目の朝だった。
「給金は安いですよ。巡業にもついてきてもらいます。馬車に酔うそうですが」
「薄荷と生姜がございますので」
最初の給金で、私は二つ買い物をした。
一つは、靴だった。王都の裏通りの靴屋で、足の大きさを測ってもらって、踵の低い、柔らかい革の靴を一足。履いてみたら、どこも痛くなかった。店を出て、石畳を十歩歩いて、私は立ち止まった。痛くない靴で歩くのは、こういう感じだったのか。
もう一つは、ハンナの給金だった。半年分と、利子に杏のジャムを一瓶。
ハンナは袋の中身を数えて、瓶を眺めて、それから私に抱きついて泣いた。泣き方は、私よりずっと上手だった。
修道院からも、手紙が一通届く。
見習いの子からだった。ぐにゃぐにゃの字で、一枚だけ。お姉さん、元気ですか。字、練習してます。院長様は、あいかわらず昼寝をしてます。大根は、今年もおいしいです。
いちばん下に、別の字で一行だけ、追伸があった。紙は、まだあります。
院長様の追伸は、短い。
三週間と二日目の夕方、ギルベルトが倉庫に来た。
この三週間、倉庫の扉が開くたびに、私は顔を上げていた。座長に笑われても、やめられなかった。
今日は、新しい靴を履いている。今日来ると、座長から聞いていたので。倉庫の高い窓から西日が差し込んで、酒樽の机の上の書きかけの台本を橙色に染めている。
入ってきた彼は、近衛の制服ではなかった。粗い布の上着に、灯り座の紋を染めた腕章を巻いている。座長が、巡業の用心棒を探していたのだ。
「職を見つけました」
「存じておりますわ。昨日、座長から聞きました」
彼は、少し困った顔をした。先に知られていたのは、予定になかったらしい。
それから、懐から手帳を出した。新しい手帳だった。市場で売っている安い紙綴じで、表紙の角もまだ尖っている。
彼は手帳を開いて、一度だけ咳払いをした。
「ロザリンデ・ヴェルナー嬢。俺は、あなたの台詞を三年間記録してきました。これからは」
そこで、彼は止まった。手帳の文字を、指でなぞっている。どうやら、自分の字が読めなくなったらしい。昨夜、何度も書き直したのだろう。
私は待った。
彼は手帳を閉じた。
「これからは、あなたの隣で、あなたの言うことを聞いていたい。書かなくても、覚えていられるように」
倉庫の奥で、誰かが衣装箱の蓋を落とす音がした。役者たちが、樽の陰からこちらを覗いているのは知っている。ハンナも、たぶんその中にいる。
「お受けいたしますわ」
樽の陰から、ハンナの鼻をすする音がした。
彼は、手帳を持ったまま動かなくなった。断られる場合の続きしか、書いてこなかったのかもしれない。
手帳を持つ彼の手に、私は自分の手を重ねた。インクで少し汚れた私の指先を、彼は振りほどかなかった。ほんの少しだけ、握り返してくる。記録には、たぶん書いていない行動だった。
そのまま、彼の手から、その安い手帳を取り上げた。
最初のページから、彼の字がびっしり並んでいる。今朝の天気。倉庫までの道順。申し込みの台詞の、三通りの書き損じ。
最後のページは、まだ白かった。
酒樽の上のペンを取って、インク壺に浸す。書き慣れた赤ではなく、黒いインクで。
几帳面な、少し右上がりの字ではない。私の字で、こう書いた。
「本日より、この人の言動を記録する。理由:わたくしの台詞に、もう逃げ道はいらないので」




