第9話
幕が上がる前に、座長が私の靴を確かめた。
「大きさは」
「ちょうどですわ」
劇団の衣装箱にあった、踵の低い靴だった。足に合う靴で悪役を演じるのは、三年間で初めてになる。
ドレスは、羽根のたくさんついた、あの一着。ハンナが売って、劇団が買い、看板女優がこの半月着て、今日また私のところへ戻ってきた。裾が少しすり切れている。
幕の隙間から客席が見えた。
正面の貴賓席に、王妃陛下と殿下。その周りを、夜会で見慣れた顔が埋めている。後ろの二階席には、町の人たちが詰めかけていた。民に結末を見せたい、という王妃陛下のご希望で、今日だけ特別に開けられたのだという。
陛下の斜め後ろに、痩せた書記の方が座っているのも見えた。三年間、筆が遅いと私に言われ続けた人だ。
楽屋の隅の簡易寝台から、看板女優が青い顔のまま片手を上げた。
「扇は、半分よ」
「存じておりますわ」
稽古で三十回言わせた台詞を、そのまま返された。ハンナが、横で鼻をすすっている。
「行けますか」
座長が小声で聞いた。
私は扇を半分だけ開いた。
「参りますわ」
一幕目は、インクの場面だった。
教科書を持ったミア役の少女が舞台の中央に立ち、私はその前を通り過ぎる。袖が触れて、インク壺が倒れる。黒い染みが、教科書の余白に広がっていく。
「あら、ごめんあそばせ。平民の教科書なんて、汚れても誰も困らないでしょう」
客席から、くすくす笑いが起きた。
台本では、ここで私は舞台を下りる。
私は下りなかった。一拍、その場で止まる。止まったまま、倒れた教科書を見下ろす。
舞台袖から、別の役者が一人出てきた。ミア役の少女の後ろを通りすがりに、床の教科書を拾おうとして、染みを見て手を止める。舌打ちをして、何も取らずに去っていく。
二階席で、誰かが「あ」と言った。
二幕目は、塩の茶会。
三幕目は、髪飾りだった。
伯爵令嬢役の女優が、ミア役の少女の髪に手を伸ばす。母親の形見の、古い銀の髪飾り。あとで盗まれたと騒ぎ立てて、自分の物だったことにするつもりの手だ。
「その安物の髪飾り、せいぜい新しいものを買っていただくといいわ」
私が言うと、伯爵令嬢役は、伸ばしかけた指を止めた。安物、と鼻で笑って、手を引っ込める。
「取られずに済んだんだ」
二階席の誰かが、はっきりと声に出して言った。
どの場面でも、私は台本どおりにひどいことを言い、言ったあとで一拍だけ止まった。止まった一拍のあいだに、舞台の端で、誰かの手が引っ込む。塩の小瓶が袖に戻り、髪飾りへ伸びた指が宙で止まる。
笑いは、場面を追うごとに小さくなった。
四幕目の終わりには、二階席が静まり返っていた。一階の貴賓席では、扇の陰の囁きが、さっきまでとは違う音になっている。
貴賓席の陛下は、少しも表情を変えなかった。書記の方だけが、膝の上で両手を握りしめている。
最後の幕は、断罪の夜会だった。
殿下役の青年が婚約破棄を宣言し、私は台本どおりの最後の悪態をつく。ここまでは、あの夜と同じ。
私は扇を閉じた。
舞台の前へ、三歩出る。照明の縁ぎりぎりまで。二階席のいちばん後ろの人の顔まで、よく見えた。
「ここから先は、台本にございません」
客席が、しんとした。
「座の皆様は、止めようとなさいました。わたくしが勝手にしていることです。どうか、そのようにお聞きくださいませ」
私は胸元から、紐で束ねた紙を取り出した。赤い線が、照明の下でよく見えるように、高く掲げる。
「これは、三年間の台本の下書きでございます。黒い字は、王妃陛下の書記の方がお書きになったもの。赤い字は、わたくしが書き直したものです」
書記の方の顔から、血の気が引いた。
「三年前の春、わたくしは王妃陛下と契約をいたしました。悪役を務め、婚約破棄をヴェルナー家の責とする。王家から婚約を破棄すれば、王家が不実と言われます。ヴェルナー家の娘が悪女であれば、誰も王家を責めません。その代わりに、家の借金を王家に肩代わりしていただく。そして、このことは誰にも話さない。第十一条に、そう書いてございます」
貴賓席で、誰かが立ち上がりかけた。
「話しましたので、肩代わりのお話は、今この時をもって消えます。ヴェルナー家は困るでしょう。父は、とても困ると思います」
私は、少しだけ笑う。
「一度くらい、困っていただきますわ」
「衛兵」
王妃陛下の声。大きな声ではないのに、劇場のすみずみまで届いた。
「その者を舞台から下ろしなさい。修道院を抜け出した罪人です。台本の下書きなど、いくらでも作れます。証拠にはなりません」
舞台の両脇から、衛兵が二人上がってくる。
「最後まで見せろ」
二階席から声が飛んだ。一つ上がると、二つ、三つと続く。見物に来たんだ、結末を見せろ。衛兵が、階段の途中で足を止めて、貴賓席のほうを振り返る。
私は紙の束を胸に抱えた。下書きだけでは足りないことは、修道院で十日かけて思い知っている。
そのとき、客席の後ろの扉が開いた。
入ってきたのは、近衛の制服の男だった。
外套はない。口の端に、治りかけの傷がある。少し痩せたように見えた。その後ろから、灰色のフードを外したミアが、息を切らして続く。
ギルベルト・アイゼンは、通路をまっすぐに舞台の前まで歩いてきた。衛兵たちが、見知った隊長の顔に足を止める。
「近衛第二隊長、ギルベルト・アイゼン。拘束は、今朝解かれました。ブラント嬢のご嘆願によるものです」
彼は貴賓席に向かって、規定どおりの角度で一礼した。
「証言をいたします」
「そなたの帳面なら、こちらで預かっています」
陛下が言った。
「はい。存じております」
彼は懐に手を入れなかった。手帳も、何も持っていない。
それから、彼は舞台の上の私を見上げた。
「ヴェルナー嬢。帳面の中身を、ここで話してもよろしいですか」
貴賓席がざわめいた。王妃陛下の前で、近衛の隊長が、罪人の娘に許しを乞うている。
あなたの許可なく、誰にも見せません。宿の馬屋で、この人はそう言った。帳面が手元になくても、約束のほうは覚えているらしい。
「許します」
声が少し震えた。彼はうなずいて、貴賓席へ向き直る。
「三年前、春の第二月、十四日。王立学院の中庭。ヴェルナー嬢、ブラント嬢に対し、平民は下を向いて歩けと発言。直後、ブラント嬢の足元の石段に、割れた鉢の欠片があったのを、同行の侍女が片づける」
劇場が、静まり返った。
「同年、秋の第三月」
彼は続ける。日付と場所と、誰が何を言い、そのあとで誰の手が止まったか。一つも詰まらず、一つも言い淀まずに。
「去年、夏の第一月、三日。王宮の茶会。ヴェルナー嬢、ブラント嬢の菓子皿を下げさせる。直後、同席の令嬢が塩の小瓶を袖に戻す。令嬢の名は」
彼は、名を言った。貴賓席の一角で、誰かが扇を取り落とす音がした。
そして、私が修道院で思い出せなかった、去年の冬の舞踏会の、あの一行も。
伯爵家の令息が、ブラント嬢のドレスの裾を踏もうとした足を引く。
そうだった。あの夜、私が扇の先を向けたのは、令嬢ではなく令息の靴だった。
二十あまりの夜を言い終えるまで、誰も、彼を止めようとはしない。
最後の日付を言い終えると、彼は胸の徽章に指をかけた。留め金を外して、舞台の床板の上に、そっと置く。
「王家の警護を務める者が、王家に不利な証言をするのは筋が通りません」
顔を上げて、陛下を見た。
「ですので、今日で辞めます」
陛下は、しばらく彼を見下ろしていた。
「……いつから、そんなものを覚えていたの」
「三年前の春からです、陛下」
床の上で、銀の徽章が照明を弾く。
「待ってくれ」
殿下が、貴賓席から立ち上がっていた。
「ロザリンデは、嘘をついている。アイゼンも、何か吹き込まれたんだ。母上がそんな契約をするはずがない。僕は何も」
「殿下」
答えたのは、私ではない。
客席の通路に立ったまま、ミアが殿下を見上げていた。泥のついた靴で、フードを握りしめて。
「あの夜、この方に何を頼みに行ったか、ここで言えますか」
殿下は、口を開けた。
何か言おうとして、言葉が出ない。銀のカフスをつけた手が、貴賓席の手すりの上で行き場をなくしている。
一階の扇の陰で、二階の立ち見の中で、誰もがその沈黙を見ていた。
殿下は、座った。
ミアは、それ以上何も言わない。
幕を下ろしたのは、座長だった。
陛下が何かを言う前に、自分の判断で綱を引く。舞台と客席のあいだに、厚い布が下りてくる。布の向こうで、ざわめきが一度に膨れ上がった。
私は、舞台の上に立ったままでいた。
足に合う靴を履いているのに、膝から力が抜けた。紙の束を抱えたまま、その場にしゃがみ込む。
ハンナが駆け寄ってきて、何か言いながら私の肩を揺すった。何を言っているのか、よく聞き取れなかった。泣いているので、言葉になっていない。
袖に下がると、ギルベルトが先にいた。
徽章を置いてきた胸元が、少し寂しい。
彼は、いつもの手帳を持っていなかった。懐に手を入れかけて、何もないことを思い出したように、その手を下ろす。
それから、手帳を見ずに、私を見た。
「婚約を、申し込みたいんです」
言ってから、彼は少し考える顔をした。何か大事なことを言い忘れていた、という顔だった。
「……ただ、俺はついさっき、無職になりました」




