↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢のお役目、本日で満了です!  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/10

第9話

幕が上がる前に、座長が私の靴を確かめた。


「大きさは」


「ちょうどですわ」


劇団の衣装箱にあった、踵の低い靴だった。足に合う靴で悪役を演じるのは、三年間で初めてになる。


ドレスは、羽根のたくさんついた、あの一着。ハンナが売って、劇団が買い、看板女優がこの半月着て、今日また私のところへ戻ってきた。裾が少しすり切れている。


幕の隙間から客席が見えた。


正面の貴賓席に、王妃陛下と殿下。その周りを、夜会で見慣れた顔が埋めている。後ろの二階席には、町の人たちが詰めかけていた。民に結末を見せたい、という王妃陛下のご希望で、今日だけ特別に開けられたのだという。


陛下の斜め後ろに、痩せた書記の方が座っているのも見えた。三年間、筆が遅いと私に言われ続けた人だ。


楽屋の隅の簡易寝台から、看板女優が青い顔のまま片手を上げた。


「扇は、半分よ」


「存じておりますわ」


稽古で三十回言わせた台詞を、そのまま返された。ハンナが、横で鼻をすすっている。


「行けますか」


座長が小声で聞いた。


私は扇を半分だけ開いた。


「参りますわ」


一幕目は、インクの場面だった。


教科書を持ったミア役の少女が舞台の中央に立ち、私はその前を通り過ぎる。袖が触れて、インク壺が倒れる。黒い染みが、教科書の余白に広がっていく。


「あら、ごめんあそばせ。平民の教科書なんて、汚れても誰も困らないでしょう」


客席から、くすくす笑いが起きた。


台本では、ここで私は舞台を下りる。


私は下りなかった。一拍、その場で止まる。止まったまま、倒れた教科書を見下ろす。


舞台袖から、別の役者が一人出てきた。ミア役の少女の後ろを通りすがりに、床の教科書を拾おうとして、染みを見て手を止める。舌打ちをして、何も取らずに去っていく。


二階席で、誰かが「あ」と言った。


二幕目は、塩の茶会。


三幕目は、髪飾りだった。


伯爵令嬢役の女優が、ミア役の少女の髪に手を伸ばす。母親の形見の、古い銀の髪飾り。あとで盗まれたと騒ぎ立てて、自分の物だったことにするつもりの手だ。


「その安物の髪飾り、せいぜい新しいものを買っていただくといいわ」


私が言うと、伯爵令嬢役は、伸ばしかけた指を止めた。安物、と鼻で笑って、手を引っ込める。


「取られずに済んだんだ」


二階席の誰かが、はっきりと声に出して言った。


どの場面でも、私は台本どおりにひどいことを言い、言ったあとで一拍だけ止まった。止まった一拍のあいだに、舞台の端で、誰かの手が引っ込む。塩の小瓶が袖に戻り、髪飾りへ伸びた指が宙で止まる。


笑いは、場面を追うごとに小さくなった。


四幕目の終わりには、二階席が静まり返っていた。一階の貴賓席では、扇の陰の囁きが、さっきまでとは違う音になっている。


貴賓席の陛下は、少しも表情を変えなかった。書記の方だけが、膝の上で両手を握りしめている。


最後の幕は、断罪の夜会だった。


殿下役の青年が婚約破棄を宣言し、私は台本どおりの最後の悪態をつく。ここまでは、あの夜と同じ。


私は扇を閉じた。


舞台の前へ、三歩出る。照明の縁ぎりぎりまで。二階席のいちばん後ろの人の顔まで、よく見えた。


「ここから先は、台本にございません」


客席が、しんとした。


「座の皆様は、止めようとなさいました。わたくしが勝手にしていることです。どうか、そのようにお聞きくださいませ」


私は胸元から、紐で束ねた紙を取り出した。赤い線が、照明の下でよく見えるように、高く掲げる。


「これは、三年間の台本の下書きでございます。黒い字は、王妃陛下の書記の方がお書きになったもの。赤い字は、わたくしが書き直したものです」


書記の方の顔から、血の気が引いた。


「三年前の春、わたくしは王妃陛下と契約をいたしました。悪役を務め、婚約破棄をヴェルナー家の責とする。王家から婚約を破棄すれば、王家が不実と言われます。ヴェルナー家の娘が悪女であれば、誰も王家を責めません。その代わりに、家の借金を王家に肩代わりしていただく。そして、このことは誰にも話さない。第十一条に、そう書いてございます」


貴賓席で、誰かが立ち上がりかけた。


「話しましたので、肩代わりのお話は、今この時をもって消えます。ヴェルナー家は困るでしょう。父は、とても困ると思います」


私は、少しだけ笑う。


「一度くらい、困っていただきますわ」


「衛兵」


王妃陛下の声。大きな声ではないのに、劇場のすみずみまで届いた。


「その者を舞台から下ろしなさい。修道院を抜け出した罪人です。台本の下書きなど、いくらでも作れます。証拠にはなりません」


舞台の両脇から、衛兵が二人上がってくる。


「最後まで見せろ」


二階席から声が飛んだ。一つ上がると、二つ、三つと続く。見物に来たんだ、結末を見せろ。衛兵が、階段の途中で足を止めて、貴賓席のほうを振り返る。


私は紙の束を胸に抱えた。下書きだけでは足りないことは、修道院で十日かけて思い知っている。


そのとき、客席の後ろの扉が開いた。


入ってきたのは、近衛の制服の男だった。


外套はない。口の端に、治りかけの傷がある。少し痩せたように見えた。その後ろから、灰色のフードを外したミアが、息を切らして続く。


ギルベルト・アイゼンは、通路をまっすぐに舞台の前まで歩いてきた。衛兵たちが、見知った隊長の顔に足を止める。


「近衛第二隊長、ギルベルト・アイゼン。拘束は、今朝解かれました。ブラント嬢のご嘆願によるものです」


彼は貴賓席に向かって、規定どおりの角度で一礼した。


「証言をいたします」


「そなたの帳面なら、こちらで預かっています」


陛下が言った。


「はい。存じております」


彼は懐に手を入れなかった。手帳も、何も持っていない。


それから、彼は舞台の上の私を見上げた。


「ヴェルナー嬢。帳面の中身を、ここで話してもよろしいですか」


貴賓席がざわめいた。王妃陛下の前で、近衛の隊長が、罪人の娘に許しを乞うている。


あなたの許可なく、誰にも見せません。宿の馬屋で、この人はそう言った。帳面が手元になくても、約束のほうは覚えているらしい。


「許します」


声が少し震えた。彼はうなずいて、貴賓席へ向き直る。


「三年前、春の第二月、十四日。王立学院の中庭。ヴェルナー嬢、ブラント嬢に対し、平民は下を向いて歩けと発言。直後、ブラント嬢の足元の石段に、割れた鉢の欠片があったのを、同行の侍女が片づける」


劇場が、静まり返った。


「同年、秋の第三月」


彼は続ける。日付と場所と、誰が何を言い、そのあとで誰の手が止まったか。一つも詰まらず、一つも言い淀まずに。


「去年、夏の第一月、三日。王宮の茶会。ヴェルナー嬢、ブラント嬢の菓子皿を下げさせる。直後、同席の令嬢が塩の小瓶を袖に戻す。令嬢の名は」


彼は、名を言った。貴賓席の一角で、誰かが扇を取り落とす音がした。


そして、私が修道院で思い出せなかった、去年の冬の舞踏会の、あの一行も。


伯爵家の令息が、ブラント嬢のドレスの裾を踏もうとした足を引く。


そうだった。あの夜、私が扇の先を向けたのは、令嬢ではなく令息の靴だった。


二十あまりの夜を言い終えるまで、誰も、彼を止めようとはしない。


最後の日付を言い終えると、彼は胸の徽章に指をかけた。留め金を外して、舞台の床板の上に、そっと置く。


「王家の警護を務める者が、王家に不利な証言をするのは筋が通りません」


顔を上げて、陛下を見た。


「ですので、今日で辞めます」


陛下は、しばらく彼を見下ろしていた。


「……いつから、そんなものを覚えていたの」


「三年前の春からです、陛下」


床の上で、銀の徽章が照明を弾く。


「待ってくれ」


殿下が、貴賓席から立ち上がっていた。


「ロザリンデは、嘘をついている。アイゼンも、何か吹き込まれたんだ。母上がそんな契約をするはずがない。僕は何も」


「殿下」


答えたのは、私ではない。


客席の通路に立ったまま、ミアが殿下を見上げていた。泥のついた靴で、フードを握りしめて。


「あの夜、この方に何を頼みに行ったか、ここで言えますか」


殿下は、口を開けた。


何か言おうとして、言葉が出ない。銀のカフスをつけた手が、貴賓席の手すりの上で行き場をなくしている。


一階の扇の陰で、二階の立ち見の中で、誰もがその沈黙を見ていた。


殿下は、座った。


ミアは、それ以上何も言わない。


幕を下ろしたのは、座長だった。


陛下が何かを言う前に、自分の判断で綱を引く。舞台と客席のあいだに、厚い布が下りてくる。布の向こうで、ざわめきが一度に膨れ上がった。


私は、舞台の上に立ったままでいた。


足に合う靴を履いているのに、膝から力が抜けた。紙の束を抱えたまま、その場にしゃがみ込む。


ハンナが駆け寄ってきて、何か言いながら私の肩を揺すった。何を言っているのか、よく聞き取れなかった。泣いているので、言葉になっていない。


袖に下がると、ギルベルトが先にいた。


徽章を置いてきた胸元が、少し寂しい。


彼は、いつもの手帳を持っていなかった。懐に手を入れかけて、何もないことを思い出したように、その手を下ろす。


それから、手帳を見ずに、私を見た。


「婚約を、申し込みたいんです」


言ってから、彼は少し考える顔をした。何か大事なことを言い忘れていた、という顔だった。


「……ただ、俺はついさっき、無職になりました」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。