第8話
「羽根のドレスを買っていった劇団の人、覚えてますか」
面会室の長椅子で、ハンナは刷り物を膝に広げたまま話し始めた。
「あのとき、おまけで紙くずも引き取ってもらったでしょう。赤で書き込みのある。あれ、劇団の座長さんが読んだらしいんです。そしたら、これは使えるって。台詞がいいって」
机の下の箱。捨てるつもりだった、三年分の台本の下書き。
王妃陛下の書記の方が書いた元の台詞の上に、私が赤で線を引いて、書き直した言葉を添えてある。扇は半分。ここは一拍置く。ここで伯爵家の令嬢の右手を見る。そういう書き込みも、全部そのまま残っているはずだった。
「それで、お芝居に」
「はい。お嬢様の台詞、ほとんどそのまま使われてます。私、二回観ました。立ち見で」
二回。
「最初は皆、悪役に野次を飛ばして笑ってるんです。でも、途中から客席がざわざわしてきて。あの悪役、言ってることはひどいのに、言ったあとで必ず誰かが助かってないかって。三回目の公演からは、刷り物に落書きする人まで出てきて」
ハンナは刷り物の隅の鉛筆書きを指でなぞった。
「今、王都じゃ結構な噂なんですよ。あの芝居の悪役には本物がいるらしい、本物もときどき優しかったらしいって」
私は刷り物を見下ろした。羽根のドレスの女が、赤と黒の色刷りで高笑いしている。似ていない。私はあんなに口を開けて笑わない。
「ハンナ」
「はい」
「あなた、あれを売ったのね。わたくしの下書きを」
「売りました」
ハンナは謝らなかった。
「お嬢様が出発した次の日、王妃様のところの人たちが屋敷に来て、お嬢様のお部屋の紙を全部持っていきました。机も、引き出しも、寝台の下も。中庭で燃やしてました。旦那様は、止めませんでした」
ハンナの声が、少しだけ硬くなる。
「売ってなかったら、今ごろ全部、灰です」
長いこと、何も言えなかった。
火の前で迷って燃やせなかった帳面は奪われて、捨てるつもりだった紙くずのほうが、給金の足しに売られて生き残った。三年間、私が一行ずつ積み上げたものの行き先としては、あまりに格好がつかない。
格好はつかないけれど、残っている。
「……いくらで売れましたの」
「羽根のドレスのおまけなので、ただです」
私は笑った。ハンナも、泣き笑いのような顔になった。
ハンナは、もう一つ手紙を持ってきていた。
封はなく、四つ折りの紙に、見覚えのある勢いのいい字が並んでいる。
十日後、王宮で灯り座の御前上演。王妃陛下のご希望。悪役が断罪されて終わる物語として、最後の幕を王宮の書記が書き足すそうです。三日後の昼、修道院の裏の街道に荷馬車を出します。乗るかどうかは任せます。アイゼン隊長のことは、今やってるところ。M。
ハンナによると、ミアはこの半月で、ずいぶん変わったらしい。
紅茶をかけた伯爵家の令嬢に、次の茶会で、その方のお祖母様の形見の首飾りのことを、にこやかに褒めてみせたのだそうだ。あら、素敵な首飾り。本物でしたら、きっとお祖母様もお喜びでしょうね、と。令嬢は、茶会の途中で帰ったという。
殿下は、その場にいなかった。
自分の婚約者も守れない方、という言葉が、今は宮廷のあちこちで扇の陰に隠れているらしい。
「三回に一回、ですね」
ハンナが得意げに言った。あの夜の厨房で、木べらを持って隣に立っていたのを覚えているのだろう。
私は四つ折りの紙を畳み直した。
乗るかどうかは任せます。
あの子らしい書き方だと思った。
三日後の昼、祈りが終わると、マルガ様は院長室へ下がっていく。
扉を閉める前に、一度だけ私を見た。何も言わない。扉の向こうで、椅子の軋む音がして、それきり静かになる。
私は厨房の裏口から出た。前掛けを外して、かまどの脇の板の上に畳んで置く。見習いの子が、灰掻きの手を止めて私を見ていた。
「行くの」
「ええ。少し、用事ができましたの」
「戻ってくる?」
「どうかしら」
見習いの子は少し考えて、それから、かまどの脇の板を指さした。炭で書いた手紙の下書きが、まだ消されずに残っている。
「字、ありがと」
街道には、干し草を積んだ荷馬車が一台止まっていた。御者台の男は無口で、私が荷台に這い上がるのを確かめると、何も聞かずに手綱を振った。
干し草の匂いの中で、私は揺られながら、酔わなかった。薄荷も生姜もないのに、今度は不思議と酔わない。
灯り座の楽屋は、王都の外れの古い倉庫だった。
座長は四十がらみの小太りの男で、私の名を聞いても驚かず、ハンナの顔を見て「ああ、ドレスのお嬢さん」と言った。それから棚の奥から、紐で束ねた紙の山を下ろしてくる。
私の赤字だった。
茶色く染みの浮いた紙の上で、書記の方の黒い字に、私の赤い線が何百本も走っている。扇は半分。一拍。右手を見る。十五の私の字と、十八の私の字が、同じ紙の上で少しずつ違う。
右手を見る、という書き込みの横で、指が止まった。あの人の帳面にも、同じ夜のことが書いてあったはずだ。私が見ていた右手を、あの人も見ていた。
あれから、半月以上たつ。王都に着いても、あの人の噂は聞こえてこなかった。
「うちの台本は、これで回してます。ただ」
座長は束の一番下を叩いた。
「最後の幕だけ、書けてないんですよ。この悪役がなんで優しいのか、誰も知らないもんでね。それを王宮の書記さんが書き足すって話になってますが、どうせ、泣いて修道院へ行きました、で終わりでしょう。客は、それじゃ納得しない」
「わたくしに、書けと」
「書けるんですか」
「書けますわ。三年、書いておりましたもの」
座長が、ちょっと笑う。商売になる、と顔に書いてあった。
最後の幕は、倉庫の隅の酒樽を机にして、四晩で書いた。
書き上がった紙を最初に読んだのは、悪役を演じる看板女優。三十手前の、声の低い人で、読み終えると紙を座長の胸に押しつける。
「座長。この悪役、最後に全部言っちゃうじゃない。これ、王妃様の前でやるの」
「客は入る」
「首が飛ぶかもよ」
私は酒樽の前から立ち上がる。
「飛ぶのは、わたくしの首だけにいたしますわ。最後の台詞は、客席に紛れた本物の悪役が、勝手に舞台へ上がって言ったことにしてくださいな。座の皆様は、止めようとしたけれど間に合わなかった、と」
女優は私を上から下まで眺めて、ふん、と鼻を鳴らす。それから、稽古をつけてくれと言った。その晩、私は倉庫の真ん中で、扇は半分、と三十回言った。
御前上演の日、王宮の小劇場の楽屋は、朝から騒がしい。
私はハンナと一緒に、衣装係の手伝いという顔で楽屋の隅にいる。灰色の地味な服に、髪を布でまとめて。誰も、裁縫箱を抱えた娘の顔など見ない。
開演の半刻前だった。
悪役を演じる看板女優が、鏡の前で急に口を押さえて立ち上がり、そのまま床に崩れた。
「昨日の牡蠣だ」
誰かが叫んだ。楽屋じゅうが一度に動き出す。水、桶、医者。女優は青い顔で、無理です、とかすれた声で繰り返している。
座長が、真っ白な顔で楽屋を見回した。
「代わりは。悪役の台詞が全部入ってるやつは」
誰も手を挙げなかった。悪役の台詞は長い。三年分ある。
私は裁縫箱を床に置いた。
髪をまとめていた布をほどいて、座長の前に出る。座長が私を見て、口を開けたまま止まった。
「代役なら、ここにおりますわ。悪役令嬢ロザリンデ。本人です」




