第7話
エーデル修道院の門は、思っていたより低かった。
王妃陛下の私兵は、私を門の内側へ押し込むと、修道院長への書状を一通置いて、すぐに引き返していく。ギルベルトは、別の馬車で王都へ戻された。宿の前で別れたとき、彼は縄をかけられた手で、一度だけ軽く頭を下げた。
それが、最後に見た顔。口の端の傷は、まだ乾いていなかった。
修道院長のマルガ様は、六十を過ぎた痩せた人で、書状を読むあいだ一度も私を見なかった。
「罪を悔いての、自発的な入会」
読み上げる声に、抑揚がない。
「悔いておられますか」
「いいえ」
マルガ様は、そこで初めて顔を上げた。灰色の目が、私の靴から頭まで、ゆっくりと一往復する。
「正直でよろしい。ここでは嘘をつく者から先に、畑の石拾いに回されます」
それから書状を畳みかけて、差出人の署名に目を留めた。王妃陛下の名だった。
マルガ様の口元が、はっきりと歪んだ。
「あの方の書く書状は、昔から追伸が長い」
「……存じ上げませんでしたわ」
「二十年前、私はあの方の女官でした。今はここで大根を育てています。どちらが楽しいかは、聞かないでください」
聞かなかった。聞かなくても、大根のほうだと顔に書いてあった。
与えられた仕事は、厨房のかまど番だった。
朝は誰よりも早く起きて火を熾し、夜は誰よりも遅く灰を掻き出す。修道女たちは私を遠巻きにした。噂は王都から、ちゃんと届いているらしい。廊下ですれ違うたび、若い見習いたちが小声で何か言い合っては、私と目が合うと散っていく。
構わなかった。三年間、遠巻きにされるのには慣れている。
五日目の夕方、かまどの前で灰を掻いていると、見習いの一人が後ろに立った。十四、五の、そばかすの多い子だった。
「あの。悪役のお姉さん」
呼び方に困って、そのまま口に出したらしい。
「字、書ける?」
母親に手紙を出したいのだという。見習いは読み書きを習う前に入ってきたので、まだ自分の名前しか書けない。先輩に頼むと、中身を読まれるのが嫌なのだそうだ。
私は炭の欠片で、かまどの脇の板に下書きをしてやった。お母さん、元気です。ご飯は多いです。院長様はこわいけど、大根はおいしいです。
見習いは板を覗き込んで、しばらく黙っていた。
「悪い人の字って、もっと怖いと思ってた」
「どんな字を想像していらしたの」
「ぐにゃぐにゃの」
それ以来、彼女は私を見かけると、散らずに小さく会釈するようになった。
慣れていないのは、夜だった。
粗末な寝台に横になると、宿の廊下の音が戻ってくる。剣のぶつかる音。燭台の倒れる音。床に膝をついた人の、すみません、という声。
それから、階段で振り返った男の顔。
あなたの父君ですよ。
父がなぜ知っていたのかは、分かっている。ミアが初めて厨房に来た夜、私は記録帳を机の上に出したまま眠った。翌朝、部屋の扉が少し開いていた。ハンナだと思って、気にしなかった。
父は、それを王妃陛下に売ったのだ。新しい借用書の分を、少しでも軽くしてもらうために。
泣くかと思ったが、泣かなかった。代わりに、翌朝のかまどの火を、いつもより大きく熾しすぎて、厨房係の修道女に叱られた。
眠れない夜は、外套の隠しに残っていた紙包みを出して、干した生姜のかけらを一つだけ噛む。辛くて、舌が痺れて、その奥から薄荷が冷たく上がってくる。残りは、あと四つ。減らしたくないので、三晩に一つと決めた。
三日目の昼、マルガ様に呼ばれた。
院長室の机の上に、紙の束が置いてある。古い聖歌の刷り物で、裏が白い。
「書き物をなさる方だと、書状にありました。余計なものを書かせぬよう、と」
「それで、紙を」
「昼の祈りのあとは、私は昼寝をします」
マルガ様は、紙の束を私のほうへ押しやった。
「その間のことは、知りません」
部屋を出る前に、一つだけ聞いた。
「王都の近衛の方のことで、何かお耳に入っておりませんか。アイゼンという」
「王都の噂は、ここへは半月遅れで届きます。悪い噂ほど早い。まだ何も届いていないのなら、そういうことです」
慰めなのかどうか、判断がつかない。
その日から、昼の祈りのあとの一刻を、私は書き物に使った。
記録帳はない。けれど、台本を書き直していたのは私だ。どの夜会で、誰に、何を言ったか。扇の先をどこに向けたか。そのとき、誰の手が止まったか。三年分、全部覚えている。
覚えているつもりだった。
書き始めて四日目に、去年の冬の舞踏会で、私がミアに何を言ったのか思い出せない箇所があった。台詞は覚えている。けれど、そのとき令嬢の誰が、何を引っ込めたのかが出てこない。
あの帳面になら、書いてあったはずだ。
右上がりの几帳面な字で、日付と時刻と、誰の手がどこで止まったかまで。
私は聖歌の刷り物の裏に、空白を一行残して、次の夜会へ進んだ。
十日目の夜、書き上がった束を読み返して、私は気がついた。
これは、私の言い分でしかない。
私の字で、私が書いた、私の弁明。王妃陛下の前に出せば、悪役が修道院で書いた恨み言として、笑って暖炉にくべられて終わりだ。あの帳面が証拠になれたのは、書いたのが私ではなかったからだ。
束を膝に置いたまま、しばらく動けなかった。
翌朝、父からの手紙が届いた。
封蝋はヴェルナー家の紋章で、宛名の字は震えていた。厚みからして、便箋三枚はある。
私は封を切らずに、それを持って厨房へ行った。
かまどの火は、まだ細い。焚きつけの木屑の上に手紙を置くと、火がゆっくりと角を舐め、封蝋が溶けて、紋章の形が崩れた。
便箋三枚分、火はよく燃える。
厨房係の修道女が、今日は叱らなかった。
十四日目は、月に一度の面会日だった。
面会人など来るはずがないと思っていたので、門番の修道女に名を呼ばれたとき、私は灰だらけの前掛けのまま出ていく。
面会室の粗末な長椅子に、ハンナが座っていた。
三日かけて来たのだろう。靴が泥だらけで、髪が半分ほどけている。乗合馬車の切符代は、お嬢様のドレスの売り上げから出しました、とあとで白状した。私を見るなり立ち上がって、何か言おうとして、息が続かずに咳き込んだ。
「ハンナ。どうして」
「お嬢様、あの」
ハンナは脇に抱えていた筒を、震える手でほどいた。丸めた紙が一枚、長椅子の上に広がる。
刷り物だった。派手な赤と黒の色刷りで、真ん中に、羽根がたくさんついたドレスの女が描いてある。どこかで見たドレスだった。
上のほうに、大きな字で題が刷ってある。
悪役令嬢物語。巡回劇団、灯り座。
その下の隅に、客の誰かが鉛筆で書き込んだらしい、小さな落書きがあった。この悪役、ときどき優しくない?
ハンナは両手で紙の端を押さえて、私を見上げた。
「お嬢様。王都で、お嬢様の台詞がお芝居になっています。……大入りです」




