第6話
出発の朝、広場には人が集まっていた。
屋敷から北門へ抜けるには、どうしても市場の広場を通らなければならない。王妃陛下が道順を変えさせなかった理由は、分かっている。悪役の末路には、見物人が要る。
馬車の窓には覆いがない。わざと外されていた。
「悪女」
最初の一声が上がると、あとは早かった。
野菜くずが飛んできて、窓枠に当たって落ちる。誰かが笑う。誰かが指をさす。子どもが母親の肩車の上から、何か分からないものを投げて、母親に叱られている。叱られた理由が、投げたことなのか、外したことなのかは分からない。
私は背筋を伸ばして座っていた。三年間、こういうときの座り方は練習してある。
人垣の前のほうに、見覚えのある顔があった。三年前まで、屋敷の裏門へ菫を売りに来ていた花売りのおばあさんだ。私が毎週買うので、いつもいちばん色のいい束を取っておいてくれた。
おばあさんは、何も投げない。私と目が合うと、困ったように籠を抱え直して、人垣の後ろへ下がっていった。
こつん、と小石が窓枠を叩く。
馬車の外の踏み台に立っていたギルベルトが、一歩だけ窓の前に寄った。剣には手をかけない。群衆のほうも見ない。ただ、次の石が来るはずの場所に、黙って背中を置いた。
次の石は、彼の肩に当たった。彼は振り向きもしない。
「殿下を誑かした女」
「修道院で一生泣いてろ」
声の波の中で、一か所だけ、何も言わない場所があった。
果物屋の天幕の陰に、灰色のフードの小柄な人が立っている。ミアだった。周りが石を投げても、叫んでも、彼女は何もしなかった。手を振りもしない。うつむきもしない。
ただ、馬車が広場を抜けるまで、一度も目をそらさなかった。
それで十分。
馬車に揺られて一刻もしないうちに、私は酔った。
子どものころ、領地へ向かう馬車で三度吐いて、父に「ヴェルナーの娘が情けない」と言われたことがある。それ以来、馬車に乗るときは朝食を抜くことにしていた。今朝も抜いた。抜いても酔うものは酔う。
窓に額をつけて耐えていると、馬車が止まった。
扉が開いて、ギルベルトが小さな紙包みを差し出してくる。
「薄荷と、生姜を干したものです。噛んでください」
「……なぜ、こんなものを」
「二年前の秋、殿下の視察にあなたが同行されたとき。行きの馬車のあとで、顔色が紙のようでした。帰りは、朝食を召し上がっていなかった」
二年前の秋。私自身、忘れていた。
紙包みを受け取って、干した生姜のかけらを一つ口に入れた。辛い。舌が痺れる。その奥から、薄荷の冷たさが上がってくる。
「本当に、気持ちの悪い方ですわね」
「はい」
「褒めておりますのよ、少しは」
「……はい」
彼は扉を閉めて、また馬の横へ戻っていく。閉まる直前、耳の後ろが少し赤くなっていたのは、朝の冷たい風のせいだと思うことにした。
二日目は、ずっと雨だった。
休憩のたびに、彼は私に紙包みの残りを数えさせる。三日目の朝までには足りる、と言う。それも記録から計算したのかと聞くと、今朝から計算した、と答えた。
昼の休憩で、雨宿りの軒下に並んだとき、彼のほうから口を開いた。
「修道院では、何をなさるおつもりですか」
「眠りますわ。三年分」
「三年分」
「夜会のあとは、いつも明け方まで台本を直しておりましたの。王妃陛下の書記の方は、筆が遅くて」
彼は少し考えて、それはよく眠れそうですね、と言った。本気でそう思っている顔。
「あなたは。わたくしのことを書いていないときは、何を書いていらしたの」
「天気です」
「明後日の分は」
「分かりません」
そこで、二人とも少しだけ笑った。雨は、まだ止まない。
三日目の夜、国境の手前の町に着いた。
宿のおかみさんは、私が誰なのかを知らない。夕食の豆のスープを運んできて、あんた細いねえ、と言い、頼んでもいないのに二杯目をよそってくれた。
誰にも悪役だと思われていない場所で食べるスープは、塩が少し足りなくて、温かかった。
宿は街道沿いの古い二階建てで、階段がひどく軋む。私の部屋は二階のいちばん奥。窓の下には、裏庭と馬屋が見える。地図に書いてあったとおりだ。宿、裏口あり。馬屋の錠、古い。
夜更けに、私は外套を羽織って階段を下りた。
軋む段を避けて歩く方法は、三年間の夜会で覚えている。音を立てずに下まで下り、裏口の閂を外す。閂は、最初から半分外れていた。
裏庭の馬屋に、灯りがあった。
中で、ギルベルトが馬に鞍をつけ終えたところだった。鞍袋が二つ。一つは膨らんでいて、もう一つは空だ。
彼は振り向いて、私を見た。驚いた顔はしなかった。
「北へ二里行くと、国境の関所です。関所の番人は、兄の昔の同僚です。朝までに抜ければ、あとは知りません」
「あなたは」
「ここに残ります。護送中に逃げられた、と報告します」
「そうしたら、あなたはどうなりますの」
「隊長の職は、なくなるでしょうね」
馬の鼻息が白く上がった。灯りの中で、彼の手が手綱を握ったまま止まっている。
私はしばらく、その手を見ていた。
関所の向こうには、誰も私を悪役だと知らない町がある。足に合う靴を買って、名前を変えて、字の書ける娘として帳簿つけの仕事を探す。そういう暮らしを、この三日間、馬車の中で何度も考えた。
でも、そうするとこの人が残る。
私が逃げた夜の記録を、この人は自分の手で書くことになる。
それは嫌だった。この人の帳面に、この人が私を逃がして罰を受けた夜が書かれるのは。自分がなぜそこまで嫌なのか、考えかけて、やめた。答えが出てしまいそうだったので。
「やめておきますわ」
彼の手が、ようやく手綱から離れる。
「逃げたら、あなたが罰を受けるでしょう。それに」
言いかけて、自分で少し笑った。
「夜逃げなんて、悪役の末路としては安すぎますわ」
「安い、ですか」
「ええ。三年も演じたのですもの。幕の引き方くらい、自分で選びたいの」
私は外套の内側から、革表紙の帳面を取り出した。この三日間、一度も手放さなかった。
「修道院に入ったら、手紙を書きます。王妃陛下に宛てて、写しを社交界の方々にも。契約のことも、三年間のことも、全部。借金の肩代わりは消えるでしょう。父は困りますわね」
「お父上を」
「困らせますわ。一度くらい」
帳面を、彼に差し出す。
「これは、あなたが持っていてくださらない。証人として。わたくしが持っていると、また火の前で迷ってしまいそうなので」
彼は帳面を見て、私を見た。
それから、鞍袋に伸ばしかけていた手を引いて、両手で帳面を受け取る。何かを受け取るときに、こんなに丁寧に手を出す人を、私は初めて見た。
「お預かりします。あなたの許可なく、誰にも見せません」
「ええ。知っておりますわ」
馬が、私の肩に鼻先を押しつけてきた。鞍をつけられたのに、どこへも行かないのが不満らしい。押されてよろけた私を見て、ギルベルトは口の端を少しだけ動かした。笑ったのかどうかは、灯りが暗くて分からなかった。
彼は黙って、馬の鞍を外し始める。
物音で目が覚めたのは、それから二刻ほどあとだった。
階段が軋んでいる。一人ではない。何人もの足音が、軋む段を避けもせずに上がってくる。
廊下で、ギルベルトの声がした。
「何の用だ。ここは陛下のご命令による護送中の」
「その陛下のご命令だ、アイゼン隊長」
扉を開けると、廊下に王妃陛下の私兵が五人いた。先頭の男は見覚えがある。王妃陛下の私室の前に、いつも立っている人だ。
ギルベルトは私の部屋の前に立ち、剣を抜いていた。
「帳面を渡してもらおう」
「何の話か分からない」
「分からないなら、探させてもらう」
男が顎をしゃくると、後ろの二人が前へ出た。
私は部屋に戻り、床に脱いであった靴を片方つかんで、廊下へ投げつけた。十四のときに誂えた、あの古い靴だ。靴は二人目の兵の後頭部に当たり、兵は振り向いて、心底あきれた顔をした。
それからのことは、あまりよく覚えていない。狭い廊下で剣と剣がぶつかる音がして、誰かが壁にぶつかって、燭台が倒れた。ギルベルトは二人を退けて、三人目の腕を打った。四人目と五人目が、同時に来た。
彼は強い。けれど、五人は多すぎた。
床に膝をついた彼の外套の内側から、革表紙が引き抜かれる。私が声を上げる前に、先頭の男がそれを受け取って、紐をほどき、一ページ目を確かめた。
「確かに」
ギルベルトが床に手をついたまま、私のほうを見た。
「すみません」
それだけ。謝られる理由は一つもないのに、彼はもう一度、すみません、と言った。
男は帳面を脇に抱え、ギルベルトを見下ろす。
「アイゼン隊長。護送中の不正の疑いで、王都へ戻っていただきます。ヴェルナー嬢は、予定どおり明朝修道院へ」
ギルベルトは口の端を切っていた。血を拭いもせずに、男を見上げている。
「どこで聞いた」
男は少し意外そうな顔になる。けれど、階段を下りかけたところで足を止め、振り返った。
私のほうを見ていた。
「記録帳の在り処を王妃陛下に知らせたのは、あなたの父君ですよ」




