第5話
応接間に殿下をお通しして、ハンナに紅茶を頼んだ。
玄関で待たせておくわけにもいかない。門の外のギルベルトは、止めなかった。
殿下は長椅子の端に浅く腰かけ、外套も脱がずに話し始めた。急いでいるときの癖は、三年前と変わっていない。
「君がいなくなってから、ミアへの風当たりが強くなった。一昨日は茶会で紅茶をかけられた。今日は、学院の掲示板に心ない落書きをされた」
「存じておりますわ」
「皆、悪役がいなくなったことで、今度はミアを標的にしている。それで考えたんだ」
殿下は身を乗り出した。
「修道院から、手紙を書いてくれないか。ミアを恨む手紙を。社交界の誰かに宛てて、それが噂になるように。悪役がまだ恨んでいると分かれば、皆の同情はミアに戻る。君が修道院で不自由しないよう、僕が手を回す。約束する。君なら上手くやれる。君は、悪役がいちばん似合う人だから」
ハンナが紅茶を置いて下がっていく。扉が閉まる音が、ずいぶん大きく聞こえた。
殿下は本気だった。
目を見れば分かる。悪気はひとつもない。ミアを守りたい一心で、一晩じゅう考えて、これがいちばんいい方法だと思って来たのだ。私が何を失うかは、考えの中に入っていない。入っていないことにさえ、たぶん気づいていない。
私はカップを持ち上げた。
中身を殿下の顔に浴びせる自分が、ありありと見えた。熱い紅茶が前髪から滴って、殿下が呆然とする。三年分の台詞のどれよりも、悪役らしい場面になるだろう。台本を書き直す必要もない。一行で済む。
手首に力が入る。
カップの縁が揺れて、紅茶が少しこぼれた。私の指にかかる。熱い。
それで、手が止まった。
こぼれた紅茶が指の関節を伝って、手袋に染みていく。カップを持つ手が細かく震えているのが、自分でも分かった。止めようとしても、止まらない。
怪訝そうな目が、私の手に向けられる。
その顔を見ていたら、おかしくなってきた。どうしてかは分からない。怒っているはずなのに、口の端がゆるんで、声が漏れる。一度漏れると、止まらなかった。
「ロザリンデ」
「失礼、いたしましたわ」
私はカップを受け皿に戻した。濡れた手袋を外して、膝の上で畳む。まだ少し笑っていた。
「お断りいたします。わたくしのお役目は、もう満了いたしましたので」
殿下の顔から、表情が抜け落ちた。
断られるとは思っていなかったのだろう。三年前、私は一度も断らなかった。
「待ってくれ。君は昔、僕の役に立ちたいと言ってくれたじゃないか」
言った。十五の春に、確かに言った。
それを今、ここで持ち出せる人なのだ、この人は。
「殿下」
扉の向こうから、低い声がした。
扉の開く音に、私は気づいていなかった。ギルベルト・アイゼンが戸口に立っている。ノックはしたのかもしれない。私の笑い声で聞こえなかっただけで。
「面会時間を過ぎております」
「アイゼン。君は母上の命でここにいるのだろう。僕の邪魔をする立場では」
「はい。陛下のご命令で、ヴェルナー嬢の身辺をお預かりしております。ですので、面会時間は守っていただきます」
事務的な声だった。お辞儀の角度まで、規定どおりに見えた。
殿下の口元が引きつる。何か言い返そうとして、言葉が見つからないまま、殿下は立ち上がった。外套の裾が、紅茶のカップに触れかける。
「また来る」
「お見送りいたします」
ギルベルトが扉を開ける。殿下は私のほうを振り返らずに出ていった。
袖口の銀のカフスが、廊下の燭台の明かりを一度だけ弾いた。
しばらくして、殿下を見送ったギルベルトが戻ってきた。戸口に立ったまま、一度だけ私の手を見る。濡れた手袋と、赤くなった指を。
「冷やすものを、ハンナさんに頼みます」
それだけ言って、彼は持ち場へ戻っていった。指の火傷より、そのことのほうが、しばらく頭から離れなかった。
翌朝、玄関に見知らぬ男が来た。
胡麻塩頭で、上等とは言えない上着を着て、脇に革の書類挟みを抱えている。応対に出た執事が、困り果てた顔で私を呼びに来た。父は、裏口から出かけたあとだった。
「お嬢様でいらっしゃいますか。いや、こちらも仕事でしてね」
男は書類挟みを開いて、借用書を三枚、私の前に並べた。日付は先月と、先々月。署名はどれも、見慣れた父の字だった。
「王家から肩代わりのお話が出ているのは、承知しております。ただ、あれは三年前までの分でございましょう。こちらは、その後の分でして。旦那様は先週もお見えでしたよ。次に勝てば全部返す、と仰って」
合計の額を見て、私は数字を二度読み直した。三年前の借金の、半分近くある。
男が帰ったあと、昼過ぎに父が戻ってきた。
書斎で借用書を突きつけると、父は椅子に崩れるように座り込む。怒鳴るかと思ったら、怒鳴らなかった。
「すまなかった」
父が私に謝ったのは、たぶん生まれて初めてだった。
「だが、分かってくれ、ロザリンデ。今、陛下のご機嫌を損ねるわけにはいかないんだ。古い分だけでも王家に持っていただければ、残りは何とかする。何とかできる。だから頼む、静かに修道院へ行ってくれ。私が牢に入れば、ヴェルナーの名が」
父は、私の顔を見ていなかった。見ているのは、机の上の借用書だけ。
父の手が、私の肩に乗った。三年前、契約書に署名させられた日と同じ重さだった。
すまなかった、の続きに、私のことは一つも出てこない。
「承知いたしました」
それだけ言って、書斎を出た。
その夜、自分の部屋で家の帳簿を開く。
三年前から、帳簿をつけているのは私だ。父に任せておくと、数字が勝手に増えたり消えたりする。今月の分を締めて、来月の分の欄を引いて、そこでペンが止まった。
来月、この帳簿をつける人は、この屋敷にいない。
そこまで考えたところで、数字がにじんだ。
インクがにじんだのかと思って、ペン先を見た。違った。帳簿の上に、ぽたりと一つ落ちた。
私は泣くのが下手だ。声の出し方が分からないので、ただ息が詰まって、肩が勝手に上下する。袖で拭いても、次が落ちてくる。帳簿を汚したくなくて、閉じた。閉じた表紙の上にも、落ちる。
戸口で、小さく床板が鳴った。
振り返ると、扉が指一本ぶん開いていて、その隙間に燭台の明かりがあった。明かりはすぐに引っ込み、扉が音もなく閉まる。
しばらくして、もう一度扉が開いた。今度は誰もいなかった。床の上に、盆が一つ置いてある。
杏のジャムを厚く塗ったパンが一切れと、湯気の立つ牛乳。
パンは少し冷めていて、ジャムだけがやたらと甘い。夜会の階段で食べたタルトと、同じ味。
ハンナは何も言わなかったし、翌朝も何も言わなかった。
それから出発までの数日は、荷造りだけで過ぎた。
ミアは、あと二度だけ夜の厨房に現れた。二度目の帰り際には、借りていた木べらを律儀に返して、「もう来ない」と言い残して。教わることがなくなったのか、来るのが危なくなったのかは、聞かなかった。
出発前夜、門の外で、ギルベルトが地図を広げている。
私が門の内側に立つと、彼は地図を門の格子に押し当てて、こちらに向けた。北へ延びる街道に、鉛筆で丸がいくつか書き込んである。彼の手書きの地図だった。丸の横に、小さな字で注記がある。宿、裏口あり。馬屋の錠、古い。
「三日目の夜、国境の手前のこの町で宿を取ります」
彼の指が、一つの丸の上で止まった。
「見張りは、俺ひとりです」
格子越しに、彼は私を見た。手帳は出さなかった。
「……逃げるなら、その夜です」




