第4話
ミア・ブラントを厨房に通したのは、応接間に灯りをつければ屋敷じゅうに知れるからだ。
ハンナが湯を沸かし、欠けていないほうのカップを二つ探してくる。ミアは勧められた丸椅子に座らず、調理台の前に立ったまま、泥のついたフードを握っていた。
「座ったら」
「いい。すぐ帰るから」
「一刻も門の外に立っていた人の、すぐ、はあてになりませんわね」
ミアは私をにらんだ。三年間、あの子にこんなふうににらまれたことは一度もない。いつもうつむくか、殿下の後ろに下がるかだった。
「いつから気づいていらしたの」
「去年の夏。茶会で、あなたが私の菓子皿を下げさせたとき」
「塩の」
「そう、塩の。あのあと、隣の席の子が小瓶を袖に戻すのが見えた。それから、あなたの扇ばっかり見るようになった。あなたが扇の先を向けた先で、必ず誰かが手を引っ込めるの。一回なら偶然だけど、十回はさすがにない」
十回で済んでいないことは、黙っておいた。
「助けられてたって分かったとき、すごく腹が立った」
ミアはフードを調理台に置いた。泥が少し落ちる。ハンナが布巾を手に、何か言いたそうに私を見たが、首を振って止めた。
「だって私、あなたのことずっとちゃんと嫌いでいられたのに。殿下が好きって言ってくれたのも、周りがだんだん私に優しくなったのも、全部あなたの筋書きの上だったのかもしれないって思ったら、何が本当か分からなくなった」
「殿下のお気持ちは、殿下のものですわ。わたくしが書いたのは、わたくしの台詞だけ」
「分かってる。分かってるけど」
ミアの声が、少しだけ揺れる。泣くのかと思ったら、泣かなかった。
「あなたがいなくなったら、今日みたいなことが毎日になるんでしょう」
紅茶の染みは、水色のドレスの胸から裾まで広がっていたと聞いた。
「殿下は、何と」
「あとで謝ってくれた。新しいドレスを贈るって」
ミアは、それ以上言わない。言わなくても、分かった。
「感謝しに来たんじゃないから。文句を言いに来たの。それと」
ミアは調理台の縁を両手でつかんだ。
「本物の意地悪って、どうやってかわすの。教えて。あなた、それだけは上手でしょう」
ハンナの差し出した木べらを、私は扇の代わりに持った。
「扇は、顔の下半分まで。目は隠さない。隠すと、怯えていると思われますわ」
ミアも木べらを持つ。ハンナが自分用に、もう一本探してきた。三人で厨房に並んで木べらを構えている図は、どう見ても悪役令嬢の授業ではない。
「返事は短く。長く話すと、相手に言い返す場所を与えます」
「短くって、どのくらい」
「そうですわね、とか。まあ、とか」
「それだけ」
「それだけで十分なの。相手は、あなたが困る顔を見たいのですもの。困らなければ、それで終わりですわ」
ミアは木べらの角度を直しながら、口の中で「まあ」と三回言った。三回目で、もう様になっていた。
ハンナも隣で真似をしたが、ハンナの「まあ」は、どう聞いても驚いているだけだった。
「でも、それって、ずっと我慢しろってこと」
「いいえ。三回に一回は、言い返してよろしいの。ただし、相手がいちばん大事にしている物の名前を出して。お母様の形見の指輪ですとか、婚約者の家名ですとか」
ミアの目が、初めて少しだけ輝く。この子は、たぶんこちらのほうが向いている。
「泣くのは」
「泣いてはいけないのは、相手がまだ迷っているとき。泣いていいのは、相手が勝ったと思った瞬間。そこで泣くと、周りの人が相手を見ますの。あの人が泣かせた、と」
「あなたは、泣いたことあるの」
「ございませんわ。泣くのは下手ですので」
ミアは少し考えてから、目を伏せ、睫毛を二度震わせて、頬に一粒だけ涙を落としてみせた。練習もなしに、一度目で。
ハンナが小さく拍手をした。
私は木べらを置いた。三年かかったことを、この子は一晩で覚えていく。面白くない、と思う自分がいて、それがまた面白くなかった。
帰り際、ミアは戸口でフードをかぶり直しながら振り返る。
「ねえ。殿下のこと、好きだった?」
私は答えなかった。
ミアはしばらく私の顔を見ていたが、やがて「ふうん」とだけ言い、「明日の夜も来るから」と付け足して、夜の裏庭へ出ていった。
門の外には、ギルベルト・アイゼンが立っている。
七日のあいだ、屋敷の見張りも彼の役目になったらしい。王妃陛下のご命令で、とハンナが言っていた。つまり今夜の客も、見られていたことになる。
ミアの背中が通りの角に消えるのを見送ってから、私は門の内側に立つ。
「今の方のこと、陛下にご報告なさるの」
「今夜は誰も来ていません」
彼は手帳を閉じたまま答えた。
「寒いなら、中へ」
「見張られる側が、見張りに指図されますのね」
「失礼しました」
本当に失礼したと思っている顔だったので、少しだけ申し訳なくなった。
「記録なさらないの。あなたが」
「書かないほうがいいことも、あります」
昨日聞いたお兄様の話とは、たぶん逆のことだ。彼がそれを分かって言っているのかどうかは、横顔からは読めない。
夜風が冷たい。肩掛けの前をかき合わせる。
しばらく、二人とも黙ったまま。見張りの人と、見張られている人が、門を挟んで並んでいるだけの夜だった。
「アイゼン様」
「はい」
「少しだけ、好きでしたのよ。三年前は」
誰を、とは言わなかった。彼も聞かなかった。
「悪役を頼みに来た日、殿下は王妃陛下のほうばかり見ていらした。それでも、引き受けたら、少しは殿下のお役に立てると思ったの。十五でしたもの。馬鹿でしょう」
彼が懐から手帳を出す。いつものように開いて、鉛筆を持つ。
それから、何も書かずに閉じた。鉛筆も一緒にしまう。
「今のは、書かないんですの」
「書きません」
それ以上は、何も言わなかった。
私も何も言わずに、門から離れる。背中で、彼がまた持ち場に立ち直る足音がした。
部屋に戻って、寝台に横になってから、今夜はじめて気がつく。三年間、誰にも言わなかったことを、今夜は二人に聞かれかけて、一人に言った。
言ってしまえば、案外なんでもないことだった。
その夜は、記録帳を枕の下に隠さずに、机の上に置いたまま眠った。
翌晩も、先触れはない。
夕食のあと、書き物机で修道院に持っていく物の目録を作っていると、ハンナが青い顔で部屋に飛び込んでくる。
「お嬢様、玄関に。あの、殿下が」
階下へ下りると、玄関の広間に、外套を着たままの殿下が立っている。供は一人だけ。見覚えのない若い侍従で、王妃陛下のところの人間ではない。この訪問を、陛下はご存じないのだろう。門の外のギルベルトが、表情を消してその後ろに控えている。
袖口には、三年前の誕生日に私が選んだ銀のカフスが、まだついている。外すのを忘れているだけだろう。そういう人だ。
殿下は私の顔を見ると、ほっとしたように笑った。三年前の春、頼みに来た日と同じ笑い方だった。
「ロザリンデ。急にすまない。修道院へ行く前に、一つだけ頼みたい」
殿下は一歩前に出て、声を落とした。
「……ミアを守る悪役を、もう少し続けてくれないか」




