第3話
護送の打ち合わせは、天気の話から始まった。
「今日は、晴れていますね」
「ええ」
「明日も晴れるそうです」
「そう」
「明後日は」
ギルベルト・アイゼンは手帳に目を落とし、そこに答えが書いていないことを確かめてから、顔を上げた。
「分かりません」
それで天気の話は尽きた。
応接間の暖炉では、ハンナが気を利かせて焚いた火が小さく鳴っている。向かいの長椅子に座った彼は、背筋を伸ばしたまま、出された紅茶に一度も手をつけていない。昨夜の階段で会ったときより、さらに居心地が悪そうだった。
「出発は七日後の朝です。北のエーデル修道院までは三日。途中、国境の手前の町で一泊します」
「お詳しいのね」
「陛下のご命令ですので」
「わたくしを逃がさないように、とも仰せでしたわ」
「はい」
彼は否定しなかった。そういうところは嫌いではない。
私は膝の上の包みをほどいた。今朝、枕の下から出してきた革表紙の帳面が、テーブルの上で重たい音を立てる。
「お返ししますわ。その前に、ひとつ伺いたいの」
「どうぞ」
「なぜ、こんなものを書いていらしたの。三年間も。殿下の警護が、嫌われ者の令嬢の台詞を書き留める理由がございませんでしょう」
彼はしばらく黙った。手帳を開きかけて、やめた。今度の答えは、そこには書いていないらしい。
「兄がいました」
「ええ」
「騎士でした。俺より六つ上で。武具庫から剣が一振り消えた件で、上官に盗んだと言われて、同じ隊の男がそれを見たと証言しました。兄は違うと言いましたが、誰も信じなかった。騎士団を追われて、二年後の冬に川で見つかりました。酒を飲んでいたそうです」
淡々とした声だった。何度も頭の中で並べ直した順番なのだろう。
「兄は、何でも書く人でした。買い物の覚え書きも、隊の当番表も。玉ねぎ三つ、と書いてあるのに五つ買ってくるような人でしたが」
「五つ」
「安かったそうです。それで、母に叱られていました。残りの二つは、たいてい芽が出るまで台所の隅に」
彼はそこで話を止めて、自分が何の話をしていたのか分からなくなった顔をした。
私は黙って待つ。
「……その日だけ、兄は何も書いていなかったんです。武具庫の鍵を誰から受け取って、誰に返したのか。書いてあれば、たぶん違った」
それきり、彼は口を閉じた。
玉ねぎの話のほうが、剣の話よりずっとよく分かった。芽の出た玉ねぎを台所の隅に並べていた人が、たった一日だけ何も書かなかった。この人はたぶん、その一日のことを、今もずっと考えている。
「それで、わたくしを」
「殿下の周りで起きたことを全部書くのは、もともとの癖です。ただ、あなたの分だけは、最初の日に別の帳面を用意しました。三日目からは、書き方も変わりました」
「どう変わりましたの」
「台詞の前後を書くようになった。あなたが何か言うと、そのすぐあとで、必ず誰かの手が止まるので」
「それは、褒めていらっしゃるの」
「記録です」
真顔だった。
「台本のことは、いつから」
「一年目の冬です。夜会の前に、王妃陛下の書記が廊下であなたに紙を渡していました。あなたはその場で赤を入れて、突き返していた」
見られていたのか。あの廊下は、誰も通らないと思っていた。
「書記の方は、泣きそうな顔をしていました」
「筆が遅いのですもの」
暖炉の薪が崩れて、火の粉が小さく跳ねた。
帳面の表紙に、私は手を置く。
「アイゼン様。これを、燃やしてくださらない」
彼は驚かなかった。そう言われるのを、どこかで待っていたような顔だった。
「理由を伺っても」
「わたくしは、王妃陛下と契約をしておりますの。悪役を務める代わりに、家の借金を肩代わりしていただく。そして、そのことは誰にも話さない。この帳面が誰かの目に触れれば、全部なかったことになります。父の借用書が、屋敷に戻ってまいりますわ」
「お父上のために」
「家のためですわ」
言ってから、同じことかもしれないと思った。訂正はしない。
彼は少し考えてから、帳面を両手で持ち上げて、私の前に差し出した。
「燃やすなら、あなたの手で」
「わたくしが頼んでおりますのよ」
「俺は、これを燃やせません。書いたものを消すのは、兄と同じ場所に立つことなので。でも、これはもう、あなたのものです。あなたが燃やすなら、止めません」
私は帳面を受け取った。
暖炉までは三歩だった。膝をついて、火の前に帳面をかざす。革の角がじわりと温まって、焦げる手前の匂いがした。
背中のほうで、彼が身じろぎする気配がない。振り向くと、彼は窓の外を見ていた。私が何を選んでも、それを見ないでいるつもりの横顔だった。
あと少し手を下げれば、それで終わる。
三年分の茶会と夜会と廊下。塩の小瓶。インクの染み。誰も知らないはずだったことが、全部この中にある。燃やしてしまえば、それはまた、誰も知らないことに戻る。
私は手を下げなかった。
しばらくそのまま火を見て、それから立ち上がった。帳面を胸に抱えて、長椅子へ戻る。
「今日は、火が弱いですわね」
「そうですね」
彼はそれだけ言った。火は、どう見ても弱くなかった。
その夜、ハンナが寝支度を手伝いながら、厨房で聞いてきた話を始める。
「ブラント様、今日の王宮の茶会で、ドレスに紅茶をかけられたそうですよ。わざとだって、みんな言ってます。伯爵家のご令嬢で、ほら、あの背の高い」
「殿下は」
「その場には、いらっしゃらなかったそうです」
誰のことか、すぐに分かった。夜会の最後に、ミアの髪飾りへ手を伸ばしかけた人だ。
少しだけ、いい気味だと思った。
思ってから、自分が嫌になった。三年間、あの人の手がミアに届かないように立ち回ってきたのは、ほかでもない私だ。私がいなくなれば、ああいう手は、まっすぐミアに届く。分かっていたはずのことを、今日まで考えないようにしていた。
「お嬢様」
「何でもないわ。もう下がっていいわよ」
ハンナが燭台を持って出ていこうとして、戸口で足を止める。
「あの、裏門に、どなたかいらしてます。門番が困ってて。お嬢様に会わせろって、ずっと」
私は寝間着の上から肩掛けを羽織って、裏庭へ下りた。
夜の裏門の外に、灰色のフードをかぶった小柄な人影が立っていた。門番の持つランタンの明かりが、その足元だけを照らしている。泥で汚れた、平民の履く革靴。
「お嬢様、この方、一刻も前からここに」
王宮からこの屋敷までは、歩けば一時間はかかる。馬車を使えば、誰かに見られる。だから歩いてきたのだろう。そういう計算ができる人だということを、私は三年間、見ないふりをしてきた。
人影がフードを外した。
淡い色の髪が、明かりの中にこぼれる。昨夜、殿下の背中に隠れていた人だった。
ミア・ブラントは、泣いていなかった。怒っていた。
「あなた、わざとだったんでしょう。……私の恋を、勝手に演出しないで」




