第2話
朝、頬にインクがついていると言われた。
「お嬢様、右の頬です。そこじゃなくて、もう少し下」
ハンナが湿らせた布を差し出してくる。受け取って拭うと、布が薄い青に染まった。
記録帳の上に突っ伏したまま眠っていたらしい。枕元には、紐をほどいたままの革表紙が開いている。三年前の春から昨夜まで、全部で百八十ページ近くあった。最後まで読み切る前に、窓の外が白くなっていた。
眠る直前に読んでいたページは、去年の夏の茶会だった。
ヴェルナー嬢、ブラント嬢の菓子皿を給仕に下げさせる。周囲は嘲笑。直後、同席の令嬢が塩の小瓶を袖に戻す。
あの日、塩の小瓶に気づいていたのは私だけだと思っていた。
「それ、何ですか」
「借り物よ」
「男の人の字ですね」
「ハンナ」
「はい、黙ります」
黙らない子だということは、十年前から知っている。
ハンナは私の髪を梳きながら、鏡越しにこちらをうかがった。何か言いたいことがある顔だった。三年間、嫌われ役の侍女を務めてくれた子だ。
「お嬢様。昨夜で、もう悪役はおしまいなんですよね」
「ええ」
「じゃあ、あのドレスも、もう着ませんよね」
「着ないわ。二度と」
「よかった」
ハンナが櫛を置く。
「実は、半分くらい売っちゃってました」
私は鏡の中のハンナを見た。ハンナは鏡の中の私から目をそらした。
「半分」
「給金が、ここ半年ほど出てなくて。旦那様に言っても、来月まとめてって。それで、お嬢様がもう着ない赤いのとか、紫のとか、あの羽根がいっぱいついたのとか」
「いつから」
「去年の秋からです。すみません」
怒るべきなのだろう。あれは王家の衣装係が仕立てた物で、厳密には私の物ですらない。
けれど口から出たのは、別の言葉だった。
「いくらで売れましたの」
ハンナは指を三本立てた。それから少し迷って、四本にした。
思っていたより、ずっと高い。
「羽根のは先月売ったんですけど、あれが一番高かったです。劇団の人が、悪役にちょうどいいって」
「そう」
私は笑ってしまった。昨夜は我慢したのに、今朝は我慢がきかない。ハンナもつられて笑い、それから思い出したように付け足した。
「そのとき、古い紙くずも少し。机の下の箱に入ってた、赤で書き込みのある紙。焚きつけにしかならないって言ったら、おまけで引き取ってくれました」
「それはいいわ。捨てるつもりだったもの」
食堂では、父が一人で朝食をとっていた。
私が入っても、父はパンをちぎる手を止めなかった。卵の黄身が皿の縁で固まりかけている。
父の上着から、葉巻と安い酒の匂いがした。夜会に出ていないはずの父が、昨夜どこにいたのか。聞いても本当のことは返ってこないので、聞かない。
「おはようございます、お父様」
「昨夜、台本にないことを言ったそうだな」
労いの言葉は、最初から期待していなかった。
「満了を申し上げただけですわ。事実ですもの」
「陛下からお手紙が来ている」
父はナイフの先で、テーブルの端の封書を示した。王家の紋章の封蝋が、まだ割られずに残っている。
「今日の昼、お前一人で参上せよとのことだ。何を言われても、はいと答えなさい」
「内容もご存じないのに」
「知らなくていい」
父はようやく顔を上げた。目の下に濃い隈がある。昨夜は父も眠れなかったのだろう。ただ、理由は私とは違う。
「借金の件は、まだ片づいていない。陛下の署名がなければ、肩代わりの証文は効力を持たん。分かるな」
分かっている。三年前から分かっていた。
私は封書を取り、そのまま食堂を出た。父の皿の卵は、まだ手つかずのまま残っている。
王宮へは、十四のときに誂えた古い靴を履いていった。つま先が少しきついけれど、昨夜の靴に比べれば雲の上を歩いているようなものだ。
王妃陛下の私室は、南向きで明るかった。
窓辺には刺繍の枠が置いてあり、縫いかけの薔薇が半分だけ赤い。陛下はその前の椅子に座ったまま、私に向かいの席を勧めた。
「昨夜はご苦労でしたね、ロザリンデ」
「恐れ入ります」
「お茶を。それとも、杏のタルトのほうがよかったかしら」
私は座りかけた姿勢のまま止まった。
穏やかな微笑みは、少しも崩れていない。侍女が茶を注ぐ音だけが、部屋の中で続いている。
「給仕の盆から一つ減っていたと、厨房から報告がありましたの。あなたらしいわ。三年間、よく我慢しました」
「……お見通しでしたのね」
「王宮で起きることは、だいたい私の耳に入ります」
陛下は茶を一口飲み、テーブルの上に私の封筒を置いた。昨夜、侍従に渡したものだ。封は開いている。二枚目の下の署名欄は、空いたままだった。
「満了の確認書。よくできています。条文の引き方も正確で、書記に書かせるより上手ね」
「では、ご署名を」
「いたしません」
陛下の声は、さっきまでと少しも変わらない。
「悪役というのは、断罪されて退場するまでが役目です。昨夜のあなたは、断罪はされたけれど、退場はしていない。ご自分の足で、しかも少し格好よく歩いて出ていった」
「あれは退場ですわ」
「民はそう思いません。悪役には末路が必要なの。石を投げられるか、泣いて許しを乞うか、遠くへ送られるか。そうでなければ、物語は終わらない。終わらない物語は、いつまでも人の口に上ります。レオンハルトとミアさんの婚約にとって、それは困るの」
私は膝の上で手袋の指先を引っ張った。
「でしたら、領地に下がって謹慎いたします。それでも退場には」
「田舎の領地では、噂は届かないわ。届かなければ、終わったことにならないの」
カップが受け皿に戻される。陶器の触れ合う音は、少しも立たなかった。
「契約の満了条件は、婚約破棄の宣告でございます。第三条に」
「第九条もお読みになって」
侍女が一人、目配せを受けて奥へ下がり、見覚えのある羊皮紙を運んでくる。三年前、父に急かされて署名した契約書の原本だった。
第九条。満了の確認は、王妃の署名をもって成立する。
台本は、三年かけて一行残らず書き直した。けれど、この紙だけは、十五の春に一度読んだきりだった。
あの日、署名の欄にペン先を置いたとき、父の手が私の肩に乗っていた。早くしなさい、陛下をお待たせするな。父の手は重くて、少し汗ばんでいた。第九条まで目を通す時間は、与えられなかった。
「七日後に、北のエーデル修道院へお入りなさい。表向きは、罪を悔いての自発的な入会。それで物語はきれいに終わります。私は署名をし、ヴェルナー家の借金は約束どおり王家が引き受けます」
「お断りしたら」
「秘密保持の違反とみなします。第十一条ね。肩代わりは取り消し。お父様の賭場の借用書が、全部お宅に戻ることになるわ」
陛下は少しだけ首をかしげる。
「真実をお話しになりたければ、どうぞ。ただ、誰が信じるかしら。三年間、あなたは本当によくできた悪役でしたもの」
記録帳のことが頭をよぎった。今朝、枕の下に押し込んできた革表紙。口には出さなかった。出した瞬間に、あれは私の物ではなくなる気がした。
陛下は刺繍枠を引き寄せて、針を取る。
私は何か言おうとして、何も言えなかった。条文の穴を探したけれど、見つからない。三年間、台本の上では一度も負けなかったのに、紙一枚の上では最初から負けていた。
「それからもう一つ」
針が布を抜ける、小さな音がした。
薔薇の花びらを一枚縫い終えてから、陛下はようやく顔を上げた。
「護送の責任者は、近衛第二隊長ギルベルト・アイゼンとします。あなたをよく知っている者のほうが、逃がす心配もないでしょう」




