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悪役令嬢のお役目、本日で満了です!  作者: 九葉(くずは)


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第1話

右の踵が、もう三時間ずっと痛い。


「ロザリンデ・ヴェルナー。今この場をもって、君との婚約を破棄する」


殿下の声は、大広間の高い天井によく響いた。楽団が弓を止め、給仕が盆を持ったまま立ち尽くす。三百人ほどの目が、一斉にこちらを向いた。


台本どおりだ。


宣告の直前、殿下は一度だけ玉座のほうを見た。王妃陛下の顔色を確かめる目。三年前の春、私に「頼みがある」と言いに来た日にも、殿下は同じ目をしていた。


あの日の私は、まだ少しだけ殿下のことが好きだった。今はもう、どうでもいい。ただ、踵が痛い。


私は扇を半分だけ開いた。ここで全部開くと余裕がありすぎる、と書き直したのは去年の春だった。


「まあ。理由を伺っても?」


「白々しい」


殿下が一歩前に出た。その背中に隠れるように、淡い水色のドレスの少女が立っている。ミア・ブラント。平民の特待生で、殿下が本当に選んだ人。


「君がミアにしてきたことは、すべて分かっている。教科書にインクをこぼしたこと。茶会で彼女の髪飾りを笑ったこと。階段で突き飛ばそうとしたこと」


三つとも覚えている。


インクは本当にこぼした。わざとだ。あの教科書の余白には、ミアが殿下に宛てて書きかけた手紙の下書きがあった。誰かに拾われる前に読めなくする方法を、あのときの私はあれしか思いつかなかった。


髪飾りのほうは、説明すると長い。


階段については、突き飛ばしていない。あれは殿下の記憶違いだ。訂正する台詞は台本にないので、黙っておく。


「何か言うことはあるか」


「ございますわ」


台本に残っている私の台詞は、あと一行。


私はミアのほうへ扇の先を向けた。彼女が小さく身を縮める。怖がらせてごめんなさい、と心の中で謝るのも、これで最後になる。


「殿下に選ばれたからといって、いい気にならないことね。その安物の髪飾り、せいぜい新しいものを買っていただくといいわ」


広間のあちこちで、扇の陰の笑いが起きた。


ミアは笑わなかった。うつむいてもいなかった。彼女の目は、私の顔ではなく扇の先にある。


ミアの斜め後ろにいた伯爵家の令嬢が、伸ばしかけていた手をそっと引っ込めた。その指先がどこへ向かっていたのか、見ていた人はたぶんいない。


これで、最後の一行。


「もう結構だ。衛兵、ヴェルナー嬢を」


「お待ちくださいませ、殿下。最後にひとつだけ」


ここから先は、台本にない。


私は扇を閉じ、ドレスの裾をつまんで礼をした。王妃教育で三年間しつけられた、いちばん深い角度で。


「お役目、本日をもって満了いたしました」


誰も、何も言わなかった。


少し遅れて、後ろのほうで誰かが「満了って何」と小声で聞き、隣の誰かに袖を引かれて黙った。


殿下は口を半分開けたまま、次の言葉を探していた。台本では、ここで私が泣き崩れることになっている。泣くのは昔から得意ではなくて、稽古のたびに書記の方と揉めた場面だった。


「ロザリンデ。何の話だ」


私は答えなかった。答える台詞は、もうどこにも書いていない。


壁際に控えていた王妃陛下の侍従に、私は封筒を差し出した。


「陛下にお渡しください。署名をいただく欄は、二枚目の下にございます」


侍従は封筒と私の顔を見比べてから、黙って受け取った。玉座の横で、王妃陛下の扇が、ほんの少しだけ止まる。


私は背を向けた。


衛兵は、誰も動かなかった。台本では、衛兵が動くのは私が泣き崩れてからだ。


大広間の扉までは四十二歩ある。三年間、毎回数えていた。


扉の脇に立っていた従僕は、子どものころから私を知っている人だった。彼は扉を開けながら、一度もこちらを見なかった。それでいい。


四十二歩目で扉を抜けたところで、右足の感覚がなくなった。


使用人用の階段は、夜会の夜にはほとんど誰も通らない。


三段目に腰を下ろして、靴を脱いだ。脱ぐというより、剥がすに近かった。


悪役らしい靴、というものがあるらしい。王妃陛下の衣装係が選ぶ靴は、いつも踵が細くて、つま先が尖っていて、半分ほど小さかった。足に合う靴を頼んだら、悪役が歩きやすそうにしていてはいけません、と言われた。三年前の話だ。


絹の靴下の踵に、赤い染みが広がっていた。脱いだ靴を段の端に置いたら、傾いて、一段下へ転がっていく。


「……ひどい」


声に出したら、少しだけ楽になった。


それから、袖の中に隠していたナプキンの包みを開いた。断罪が始まる少し前に、給仕の盆からくすねてきた杏のタルトだ。夜会のあいだ、悪役は何も口にしないことになっている。物を食べている悪役には迫力がない、というのが書記の方の意見だった。


指でつまんでかじる。


冷めていて、生地が湿っていて、杏のジャムだけがやたらと甘い。


おいしい。


二口目をかじったところで、階段の下で靴音が止まった。


「靴擦れ、右の踵ですね」


私はタルトをくわえたまま顔を上げた。


近衛の制服を着た男が、二段下に立っていた。片手に、私の靴を持っている。背が高い。黒に近い髪を短く刈っていて、胸元に隊長の徽章がある。


知っている顔だった。名前は知らない。殿下の警護役で、私がミアに何か言うたびに、いつも少し離れた柱の横に立っていた人だ。


「……なぜご存じですの」


「三時間前から、右足に体重を乗せていませんでしたので」


「見ていらしたの」


「仕事ですので」


男は懐から小さな手帳を出し、何かを確かめるように開いて、また閉じた。それから、思い出したように付け足した。


「近衛第二隊長の、ギルベルト・アイゼンです」


「存じ上げませんでしたわ」


「でしょうね」


それから彼は、手の中の靴に目を落とした。踵を返して底を眺め、中に指を二本入れて、眉を寄せる。


「これは、あなたの足より半分小さい」


「存じておりますわ。三年履きましたもの」


気を悪くした様子もない。手当てをしましょうかとも、お送りしましょうかとも言わない。ただ、そこに立っている。


私はタルトを膝の上に下ろした。


「衛兵の方なら、わたくしを連れていくのでしょう。少しお待ちになって。これを食べ終えてから参りますわ」


「連れていく命令は受けていません」


「では、何のご用ですの」


「そのタルトは、杏ですか」


「差し上げませんわよ」


「いえ、そうではなく」


彼は本当に困った顔をした。どうやら、話す順番を間違えたらしい。もう一度手帳を開いて、今度はしばらく眺めている。


「悪役の末路を、笑いにいらしたのかと思いましたわ」


「いいえ」


彼は手帳から顔を上げた。


「今日も、泣きませんでしたね」


「泣かない女は可愛げがない、とよく言われますの」


「記録には、そうは書いていません」


記録。何の話かと聞き返す前に、彼は靴を私の横の段にそっと置いた。今度は転がらないように、壁際に寄せて。


変な人だ。


「お渡ししたいものがあって」


彼は手帳とは別に、革表紙の分厚い帳面を差し出した。角がすり切れていて、紐で何重にも縛ってある。


「三年間、あなたの台詞をすべて記録していました」


私はその帳面を見て、彼の顔を見て、もう一度帳面を見た。


「……それ、少し気持ちが悪いですわよ」


「よく言われます」


言われるのか。


笑いそうになって、やめた。三年間、人前で本当に笑ったことはない。


彼はそれ以上、何も説明しなかった。帳面を差し出した手を、引っ込めもしない。


受け取るつもりはなかった。受け取れば、この三年間に何か意味があったことになってしまう気がした。意味などなくていい。借金が消えて、家が残って、私は田舎の領地で、足に合う靴を履いて暮らす。それで十分のはずだった。


タルトの残りを口に押し込んで、指のジャムをナプキンで拭う。


それから、紐をほどいた。


開いたのは、最後に書かれたページだった。インクがまだ新しい。


本日二十一時、大広間にて婚約破棄の宣告。ヴェルナー嬢、泣かず。扇は半分。台本にない一行あり。


その下に、今夜の私の言葉が一字一句そのまま書き写してあった。


台本にない、と書いてある。


私は顔を上げた。彼は階段の下で、手帳を持ったまま黙っていた。台本があることを、この人は知っている。いつから、と聞く声が出なかった。


聞く代わりに、ページを最初まで戻した。


最初のページは、三年前の春の日付だった。私が初めて、殿下の前でミアを笑った日だ。几帳面な、少し右上がりの字で、こう書いてあった。


「本日より、侯爵令嬢ロザリンデ嬢の言動を記録する。理由:あれは、嘘をつくのが下手な人の顔だ」

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