Ⅲ-EP.16 失ったもの、帰る場所
指先に息を吹きかけ、冷えた手を擦り合わせながら、リフは裏口から少し離れた壁際に身を寄せていた。
扉の内側から笑い声が近づき、裏口が開く。
「お先にー」
仕事を終えた獣人の娼婦たちが、笑いながら連れ立って外へ出てくる。残り香と夜の熱気をまとったまま、緩んだ足取りで裏手の通路へ散っていく。
その流れの端で、リフは邪魔にならないよう壁際へさらに寄った。
「なに、人間?」
「こんなとこに?」
リフは軽く頭を下げた。
娼婦たちは気にせず通り過ぎていく。
白狐族のコハクがリフに気づき、足を止めた。
「ん?この前の人間。こんなとこで何してるの」
「……少し、用があって」
隣にいた孔雀族のピーリアも立ち止まり、あからさまに不機嫌そうな顔をした。コハクの腕を引き、行こうとする。
「あの……」
言いかけた声に、ピーリアが振り返る。
「姐さんなら、もうすぐ出てくると思うけど」
それだけ告げると、今度こそコハクの腕を引いて歩き出した。
「寒いから、風邪ひかないようにね」
コハクが小さく言い残し、二人の足音は通路の奥へ遠ざかっていく。
再び人の気配が途切れ、裏口の前にはリフだけが残った。しばらくして、鍵が外れる乾いた音がして、扉が開いた。
現れたエンジュは、そこに立つリフを見て眉を寄せる。
「来るなって言ったろ」
「分かってる。それでも、少し話をさせてほしい」
エンジュは小さく息をついたあと、腕を組み裏口脇の壁に肩を預けた。
「手短にしな」
「知らなかった……獅子族の国が滅びたことも。ライオルが……」
言葉が途切れる。喉の奥で何かを探すように間が空いた。
「あんたのせいだとは思ってない。でも、無関係とも言えない」
「その通りだと思う」
「あんたがどういう扱いを受けてきたかは知ってる」
「俺に、関わったせいで……」
「ライオル様はすべて承知の上で、あんたを逃がした……分かってるんだよ」
「何があったのか、教えてほしい」
「獅子族に貸し出されたあんたを逃した後、鳳凰属が動いた」
エンジュは片手で額を押さえ、力を込める。
「当然の報いさ。獣族の理を犯して、禁忌の終身奴隷の逃亡に関わった以上、言い逃れはできない」
人通りの増えてきた通りへ、一度だけ目を向ける。
「ライオル様はすべて背負うつもりだった。責を負うのは自分だと、そういう形に収めようとした。けど、向こうは容赦しなかった」
リフの指先がかすかに強張る。
「王は死に、国は潰された」
「なにも、知らなかった」
「知っていたとして、あんたに何ができた」
エンジュは目を伏せ、短く息を吐いた
「……あの方の血は、まだ残ってる」
「血……?」
リフの声が震えた。ライオルのそばにいた、あの少年の顔が浮かぶ。
「まさか……レオルドが、生きてる?」
「あんたの側には竜属がいる。もし会うことがあれば、力を貸してやってほしい」
リフは強く頷く。
「気をつけな。無事でいなよ」
エンジュはリフの肩に軽く手を添え、背を向け通りへ歩いていく。
リフは、去っていくエンジュの背を見つめた。
呼び止める言葉は、胸の奥でほどけて消えた。
──いつか、また会えると思っていた。
短くも、穏やかなあの記憶だけを胸に、ここまで歩いてきた。もう会うことも叶わないのだと知り、そっと袖で頬を拭い、顔を上げる。
「ごめんなさい……」
その声は、白みはじめた街のざわめきに紛れて消えた。
リフは、差し込む光の中へ足を向け、歩き出した。
*
宿の灯りが見えたとき、外に人影があることに気づいて、リフは足を止めた。
「ゼル……?」
壁にもたれ、腕を組んだままゼルは通りの先を見ている。
──待っていた?
咆哮窟を出たときのことを思い出す。あのときも、いつも外で待っていてくれていた。
気配に気づいたのか、ゼルが顔を上げる。
「遅かったな」
低い声はいつもと変わらないのに、どこか柔らかい。
「……少し、歩いてた」
言葉にしてから、自分の声が思ったより掠れていることに気づいた。夜気が、喉の奥まで冷たく染みる。
「ルシアーナは?」
「待ちくたびれてる」
「そっか」
夜の通りは静かで、人影も少ない。宿の灯りだけがぼんやりと地面を照らしていた。
「ごめん。部屋、戻ろうか」
「……」
ゼルは黙ったまま、ほんのわずかに表情を曇らせた。
何かを確かめるような、探るような視線。
「……ゼル?」
答える代わりに、近づいた気配がして、リフの腕がそっと掴まれる。近づいた拍子に、かすかに酒の匂いがした。
「お酒?」
「……少しだけだ」
「珍しいね」
ゼルは答えづらそうに目を逸らした。
「……一応、探した」
「え?」
「朝出たきりこんな遅くまで戻らないから、少し気になった」
「……ごめん、心配させて」
「何かあったのなら、聞くことくらいはできる」
リフは少しだけ間を置いてから、小さく頷いた。
「うん、大丈夫」
次の言葉が続かないまま、沈黙が落ちる。
「おいリフ!やっと戻ったのか」
不意に、目の前で何かが鈍い音を立てて着地した。
影が差し、派手なピンクの髪が揺れる。
「え?今、二階から……大丈夫?」
「問題ねぇ。それより何やってたんだ」
ルシアーナは腕を組んだまま、リフを見下ろす。
「せっかく市場を見て回ろうと思ってたのに」
「あ、……ごめん」
「ゼルファルドに一緒に散策しようって言ったの、お前だろ。待ってたんだけどな」
二人のやり取りに、ゼルが口を挟む。
「明日にはここを出発しようと思う」
「なら明日の朝、行こうぜ」
「どうせ起きないだろ」
「起きる。いや、起こせ」
張りつめていたものが少しだけほどけて、リフは小さく笑った。
「いいね。でも、宿代を払ったら、たぶんお金ほとんど残らないよ。何か考えないと」
ゼルが懐から革袋を取り出す。中で硬貨が触れ合い、小さく音が鳴った。
「少しならある」
「昼間、広場で勝ち抜きやっててさ」
ルシアーナが口の端を上げる。
「二人で出たら、そのまま最後まで勝ち残った」
「え、見たかった」
ゼルの目元に、淡い笑みが浮かんだ。
「なかなかの盛況だった」
「明日も派手に稼いでやるから、ちゃんと見とけ」
ルシアーナはくるりと踵を返す。軽く手を振って二人を促した。
「ほら、この町で最後の夜だ。酒場で盛り上がろうぜ」
そのまま宿の扉へ向かう。
リフもつられるように足を踏み出す。
その背に、そっと触れる気配。振り向くと、すぐ近くにゼルが立っていた。
「……少しは、元気になったか」
それだけ言い残して、ゼルはルシアーナの後を追う。
少し遅れて歩き出しながら、リフは小さく呟いた。
「ありがとう」




