Ⅲ-EP.15 腕の中の沈黙
午後の市場は、朝よりもさらに熱を増していた。
人の波を縫うようにして、リフとルシアーナは進む。呼び声が重なり、値を競るやり取りと笑い声がぶつかり合う。
「ゼル、昨日は結局戻らなかったね」
「ほっとけ、頭冷やしてんだろ」
「……うん」
「勝手に戻ってくるやつだ」
リフはそれ以上言葉を足さず、人の流れの先へ視線を向けたまま歩き続けた。
奴隷市場の天幕の影の下、いつも檻が並んでいた一角。
そこにあったはずのものが、崩されていた。
檻はすでに形を失い、外された鉄格子が無造作に積まれ、縄の切れ端が地面に散らばっている。その間を、半獣人たちが慣れた手つきで行き来していた。
「よぉ、来たか」
背後から掛けられた声に振り向くと、すぐ後ろに黒猪族のドゴールが立っていた。
「……何があったの?」
「ここ、どうした」
二人の問いが重なった。
「見ての通りだ。ここはもう終わりだ」
ドゴールは厚みのある腕を組んだまま顎をしゃくり、解体の進む一角を示す。
「資金を出すっていう変わり者が現れてな。奴隷商はやめることにした」
「……やめる?」
「ああ。お前が解放した連中も、稼げる場所があるなら働くってな」
リフは解体された格子を見つめる。
「いいじゃねぇか。そんなことより腹減った」
「ははっ。奥で炊き出しやってる。食うか」
「言うまでもねぇ、当然行く」
ルシアーナはさっさと歩き出し、ドゴールもそれに続く。
リフが後を追おうとした瞬間、周囲に獣の気配が増えた。
振り向く間もなく、獣人に囲まれる。
「……え?」
並ぶ顔に戸惑っていると、ひとりが胸元から小さな札を取り出して見せた。
「見てくれ。登録証、手に入った」
「俺もだ、ほら」
札を掲げる手が増えて、すぐ後ろからも声がかかる。
「あんたのおかげだ」
「そうなんだ。よかった、安心したよ」
「仕事もくれるって話になってる」
差し出された札が重なり、詰め寄る体にリフはじりじりと後ろへ追いやられる。
「……え、ちょ、待って」
色めき立つ元奴隷たちの間を縫うように腕が伸び、リフの前に見慣れた皮膜の翼が広がる。
「こいつから離れろ」
「ゼル!」
突然の割り込みに驚き、リフはゼルの腕に触れる。
「誤解だよ。大丈夫、話してただけ」
距離を詰めていた獣人たちの間から、押し殺したような笑い声が漏れる。
「勘違いすんな。礼を言ってただけだ」
「取って食いやしねぇよ」
押し合うように詰めていた元奴隷たちが、笑いながら散っていく。そのあとに残ったのは、リフの前を塞ぐゼルの皮膜の翼だけだった。
「ゼル?」
視線を合わせようとしない様子に、少しだけ間を置いてから、リフは言葉を選ぶように口を開く。
「昨日、戻ってこなかったから心配した。ルシアーナも気にしてた」
「……ああ」
ゼルは短く応じると、散っていく元奴隷たちの気配に紛らせるように言葉を継ぐ。
「あいつらを、解放したんだってな」
「うん。ヴォルガにもらった金貨……」
リフは俯いて、指先を軽く握り直す。
「勝手に全部使った、ごめん」
「構わない」
リフの視線を正面から受け止めきれないまま、ゼルはわずかに顔を逸らす。
「……昨日は、悪かった」
「いや、俺が勝手にやったことだよ」
「違う」
「俺のせいだよ」
「違うんだ。お前に腹を立てたわけじゃない」
感情に言葉が追いつかず、ゼルは握った拳を震わせて言葉を探す。
「俺が……」
続きがすぐに出ないまま、もう一度拳を握り直す。
「何も出来なかったことに、腹が立った」
リフはまっすぐゼルを見つめる。
「お前にあんなことをさせた」
何かを振り切るように一歩踏み込み、ゼルはリフを抱き寄せた。逃げ場を塞ぐように、明るい茶褐色の髪へ顔を埋め、息を押し殺す。
「……許せなかった」
抱き寄せた腕に抑えきれない力がこもる。
「守れなかった自分が」
「十分だよ」
リフは包み込むような広い背に、そっと手を添える。
「ひとつ、聞いてもいいか」
「うん」
「どうして、逃げてる」
「……」
「話せないか」
「……ごめん」
「そうか」
「どうしても、言えなくて……」
途切れた言葉の続きを探すように、リフは身を引こうとする。
「顔、上げるな」
髪に顔を埋めたままわずかに首を振り、ゼルは滲むような声でつぶやく。
「まだ、お前に向ける顔がない」
「顔、見たいよ」
「見なくていい」
ゼルは落ち着かない様子でリフを離し、どこかぎこちなく背を向けた。
切り離されたように静まり返った二人の周りに、市場のざわめきがゆっくりと戻ってきた。
*
朝の光が、薄いカーテンの隙間から差し込み、室内の空気を白く浮かせていた。
寝返りを打ったゼルは、いつも隣にあるはずの体温がないことに気づき、手探りで空になった寝床に触れる。
「……リフ?」
ゼルは身を起こし、室内を見回した。
もうひとつの寝台では、ルシアーナが横向きに寝転がり、毛布と枕を好き放題に占領していた。
「起きろ、ルシアーナ」
「……んん……うるせぇ……」
毛布の中で声がくぐもる。
「リフはどこだ」
「知らね……」
答えながらも、ルシアーナは毛布を顔から引き下げ、不機嫌そうに片目を開けた。
「朝早く出るって言ってたぞ」
「聞いてない」
ルシアーナは枕に顔を半分埋めたまま、面倒そうに息を吐いた。
「じゃあ、お前には言ってないんだろ」
「なんで俺に言わない」
ゼルは外套を掴み、扉へ向かった。
「おい」
扉が少し強めに開き、朝の冷たい空気が流れ込む。
「……なんなんだよ」
ルシアーナは髪をかきながら舌打ちし、慌ててブーツを履き潰しながら、後を追った。
「おい、待てって」
呼びかけてもゼルは足を止めず、宿の廊下を足早に進んでいく。
「リフが黙って行ったってことは、一人で行きたかったんだろ」
「……」
ゼルの足取りがわずかに鈍る。
「それより朝メシ食おうぜ」
ルシアーナが外套の裾を引くと、ゼルは諦めたように階下の食堂へ向かった。
下の食堂はまだ客も少なく、奥の厨房から温かな湯気が立っていた。
「適当になんか出してくれ」
勝手に席へ座るルシアーナの向かいに、ゼルは腰を下ろす。
「相変わらず、自由だな」
「お前も相変わらず……かと思ったが、少し変わったな」
「変わりもする。理由も分からず殺されかけて、今も追われている」
「そういう意味じゃねぇんだけどな」
ほどなくして運ばれてきた丸パンの籠と白いチーズ、薄く切られた燻製肉、湯気の立つスープが卓に並ぶ。
ルシアーナは籠に手を突っ込み、丸パンを鷲掴む。
「美味いか?」
「王宮の飯とは違った美味さがある」
ルシアーナはちぎったパンを口いっぱいに頬張り、続けて白いチーズを放り込みながら喉の奥で軽く笑う。
「ルシアーナ、俺はなぜ国を追われている」
「あー、竜骨の儀で、星詠師の婆が久しぶりに王に何か言ったらしい」
「父上に?」
「獣の理がどうとか、お前が流れを壊すとか」
「俺が?どういうことだ」
「難しいこと言ってたし、半分も分からなかった」
ゼルの表情から、わずかに力が抜けた。
「竜骨の儀なら、兄上たちもいたのか」
「知らねぇけど、そうじゃねぇの」
ゼルは頬杖をつき、卓に置かれた白いチーズへ手を伸ばす。
「イサリスが追ってきている。前にいた街の格闘技場で襲われた」
「面倒なのに絡まれてんな」
「やつは兄の部下だ、白蛇族に擬態して動いていた」
「……白蛇族?そう言えば、奴隷市場の檻の中にいたな。あいつイサリス配下のアルベルクか」
ルシアーナは燻製肉にかじりついたまま、硬い筋が噛み切れず、眉をしかめる。
「なんか色々と、面倒くせぇな」
咀嚼を続けるルシアーナを見て、ゼルはひとつ息をついた。
「……お前は、なぜここにいる」
「婚約者だからだろ」
噛み切った肉をスープで流し込み、ルシアーナは空になった椀をそのままテーブルへ戻す。
「好きだから来た。それだけだ」
通りがかった店員に向けてルシアーナが声をかける。
「おい、酒もくれ」
「俺にも頼む」
「お、珍しいな。飲むか」
「果実のものがいい」
店員が小さく会釈して注文を受ける。
「酒はやっぱり王宮の方が美味いよな」
「そうだな」
運ばれてきた果実酒を受け取り、ルシアーナが先に杯を持ち上げる。
ゼルもそれに応じ、二人は軽く縁を合わせた。




