Ⅲ-EP.11 再会は少し遠く
夜通し灯っていた店の灯りがひとつ、またひとつと消えていき、明け方の空はゆっくり白み始めていた。
リフは立ち止まり、袖口で額を押さえながら小さく息を吐く。
「……こんなの」
掠れた声が、静まり返った路地にかすかに響く。
これまで、もっと酷い夜をいくつも越えてきた。
鳳凰属の実験施設を逃げ出してからは、食べ物もなく、獣人に身体を差し出して金を得ることも珍しくなかった。
「なんてことない」
今さら一晩のことくらいで、何かが変わるはずがない。
言葉にした途端、肌に残っていた感触がふっと蘇った。
背後から押さえつけられた腕の重さと、逃げ場のない体温。
「……っ」
急に足元が揺れ、リフは壁に手をついた。
石の冷たさが掌に伝わり、その感触に背筋が小さく震える。
ふいに視界の端に、誰かの影が差し込んだ。
顔を上げると、路地の入り口に長い黒髪の獣人が立っていた。見慣れた皮膜の翼。
朝に近い光の中で、その紫の瞳だけがはっきりこちらを見ている。
「……ゼル」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥が強く鳴った。
会えた。
ずっと探していた相手が、いま目の前にいる。
それなのに、このまま背を向けて逃げ出したくなるような、妙な重さが胸に残っていた。
リフは視線を逸らす。
ゼルは数歩こちらへ近づいた。
「リフ」
低い声で名前を呼ばれ、胸の奥がきゅっと縮こまる。
「無事だったか」
「……うん」
素直に顔を上げることができなかった。
小さく息を吐き、なんとか表情を整える。
「そっちは?」
壁から手を離した瞬間、足元がふっと揺れた。
石畳に崩れそうになった身体を、ゼルの腕が掴んで引き寄せた。
触れられた瞬間、さっきまでまとわりついていた体温の記憶が肌の奥でふっと蘇り、リフの身体がわずかに強張る。
「なにがあった、顔色が悪い」
「……うん、大丈夫」
リフはそう答えると、いつも周りに向ける柔らかな笑顔を作った。
ぐう、と誰かの腹の鳴る音が響き、思わずゼルの方を見る。
「……ゼル?」
「腹が減ってる。しばらく何も食べてない」
「そっか。ずっと寝てたなら、お腹すくよね」
胸に張りついていた力がほどけたみたいに、リフの頬がゆるみ、小さく笑いがこぼれる。
「テラスで肉を出してる店があるんだ。ゼル、きっと気に入ると思う」
「肉なら歓迎だ」
並んで歩き出しながら、リフは少しだけ考えるように口を開く。
「ゼル、せっかくマーケットゼロに来たのに、この街まだ全然見てないよね」
「そうだな」
「落ち着いたら、ゆっくり回ろうよ。市場も広いみたいだし、面白そうな店もいっぱいあるよ」
ゼルは歩幅を合わせ、わずかに口元を緩める。
「それも悪くない」
しばらく言葉が途切れたまま並んで歩いていると、ゼルがふと思い出したように足を止めた。
「リフ」
「ん、なに?」
リフが穏やかな顔で見上げてくる。
ゼルはそれを見て目を細めた。
「やっと、会えたな」
隣に並んだリフの手を、ゼルが取った。
突然つかまれた感触に、リフが驚いてゼルを見る。
「また見失うと面倒だ」
リフは小さく笑い、つながれた手をほどかないまま歩き出した。
*
石畳の朝の空気を踏みながら、路地を抜け、宿の前まで戻るとリフはゼルの手を軽く引いた。
「ここに泊まってるんだ」
扉を押すと、部屋の中に朝の光が差し込んだ。
二つあるベッドの片方では、長いピンクの髪が枕からあふれ、うつ伏せのまま両腕を投げ出した体がゆっくり上下している。
「誰だ……」
「あぁ、門を出たところで猿族に囲まれて。そのとき助けてもらったんだ。それで、いま一緒にいる」
「派手な髪だな」
「フラミンゴ族なんだ」
ゼルは寝台に目を戻す。
大の字で眠る姿を見て、肩をすくめた。
「豪快な寝相だな」
「うん、起きてるともっとすごいよ」
ベッドの上の髪がわずかに揺れた。ピンクの髪がもぞりと動き、うつ伏せのまま寝ていたルシアーナが顔だけこちらへ向ける。
「んん……リフか?」
眠そうな目がリフの肩越しに立つ男へ移った瞬間、ルシアーナの呼吸がぴたりと止まった。
「……ゼルファルド」
ゼルは思わず目の前のフラミンゴ族を凝視した。
派手なピンクの髪と、寝起きでだらしなく崩れた格好。
そこに覚えのある気配を感じ取る。
「ルシアーナか?」
信じられないものを見るように眉を寄せた。
「……お前、どうしてここにいる」
寝台の上でがばりと体を起こしたルシアーナは、寝癖のついた髪をかき上げながらゼルを睨んだ。
「どうしてって、探しててんだぞ」
「相変わらず、わけの分からないやつだな。なんの用だ」
「決まってるだろ」
ルシアーナは脚を引き寄せて胡座をかき、身を乗り出した。
「お前を追ってきた」
ゼルは額を押さえた。
「二人、知り合いだったの?」
「こいつは、私の婚約者だ」
「えっ……」
空気が止まった。
「おい、待て」
「なんだ。事実だろ」
リフは反射的にゼルの方を見る。
黒い髪、紫の瞳。
ルシアーナが言っていたた「銀の髪に真紅の瞳」とは、どう見ても一致しない。
「……婚約者?」




