Ⅲ-EP.10 代償
扉を押し開けると、甘い匂いが肌に絡みつく。
灯りを絞った室内で、ソファに深く身を沈めた男の姿があった。ゆるやかに揺れる薄い帳の向こう側で、片脚を組み、肘掛けに頬杖をついている。
「遅ぇな、待たせてんじゃねぇよ」
含み笑い混じりの声が、帳を押し分けるように届く。
「突っ立ってないで来い」
リフは薄い帳を払って、ソファの前まで歩み寄る。
足を止めた先には、長く弧を描く二本の黄金の角。
「……麒麟、属?」
「見りゃ分かるだろ」
リフは室内を見渡す。求めていた姿はない。
「探してるのは隣だ。まだ息はある。どこまで持つかは、知らん」
その言葉に、張りつめていた肩がわずかに落ちる。
「お前、奴隷市場の檻を空にしたそうだな」
クラヴィオの指先が、リフの身体の線をなぞるように宙を滑る。肩の位置から始まり、胸元を辿り、腰のあたりで静かに止まった。
「それで、何が残る」
「何も。鎖が外れただけ」
「何も、か」
「この世界で何が起きてるか、あなたは知らない」
一瞬の沈黙のあと、クラヴィオの喉の奥で笑いが弾けた。
「で、お前は奴のなんだ」
唇の端がわずかに歪む。
「ただの蝙蝠じゃないことは、もう分かってるな」
「ゼルを助けるには、どうすればいい」
「ゼル、か」
クラヴィオは、その名を口の中で転がす。
「娼館がどういう場所か、分かってるだろ」
ソファがわずかに軋み、組んでいた脚が解かれる。黄金の角が灯りを弾き、ゆるやかな足取りで距離が詰まる。
「こういう場所で、欲しいものがあるなら、何を差し出すかは決まってる」
クラヴィオの手がリフのコートの留め具を外す。小さな音を立ててコートが落ち、指先はそのまま下の上着へと滑った。
布が静かに開かれ、守られていた肌に、ひやりとした空気が触れる。
「……っ」
わずかに息が漏れる。
黄金の角がすぐ間近に迫り、甘い香がさらに強まる。
リフは小さく息を呑み込み、逃げる代わりに一歩だけ距離を詰めた。
手首を取られ、身体の向きが崩れる。
抗う間もなく、布張りのソファへ押し伏せられた。
胸がクッションに沈み、息が詰まる。
背に落ちた重みが、逃げ道を塞いだ。
「……ん……っ」
肩口を探る指先が、ためらいなく背へ滑る。
そして左肩で、ぴたりと止まった。
肌に直接貼られた薄い覆い。
そこに何かがあることを隠すためだけの、不自然な処置。
(……こいつ、なんだ、この気配)
ぞくり、とリフの背筋が強張る。
触れられたくない場所を、正確に辿られている。
反射的に腕を引こうとした瞬間、振り払おうとした手首を逆に取られる。軽く捻られ、ソファへ押し戻された。
「面白ぇ」
低く落ちた声が、すぐ背後で響く。
体重がわずかにかかり、身動きが封じられる。
指先が、もう一度左肩へ戻った。
縁を確かめるように爪先がなぞる。
薄く貼られた覆いは、そこだけ異物のように存在を主張していた。
「やめっ──」
制止より早く、端が摘ままれる。
荒く引き剥がされ、覆われていた部分が灯りの下に晒された。
焼け潰れた皮膚に刻まれた、漆黒の刻印。
その中心を囲むように、赤と金の尾羽を模した紋様が彫り込まれている。
「……お前、終身奴隷か」
リフは答えない。
「それも鳳凰属の持ち物とはな。やつは知ってんのか」
ただ、顔を背ける。
「……はは。俺も消されるか」
クラヴィオの指が、焼印に触れる。
輪郭を確かめるように指先でゆっくりとなぞり、爪先が、その中心へ食い込んだ。
「……っ、痛……っ」
掴んでいた腕を引き、リフを抱き寄せる。
「容赦しねぇぞ」
覆いかぶさる影に、視界が塞がれる。
クラヴィオの腕を掴んでいたリフの指がゆっくりと緩む。
帳が、静かに揺れた。
*
「紫色だったんだ」
これまで閉じたままだった蝙蝠族の男の瞼が、ゆっくりと開いていく。
ピーリアは思わず身を乗り出し、寝台の縁に顔を近づけた。
「さすが、麒麟属が持ってきたルーメンね」
寝台から顔を上げ、背後に立つコハクを振り返る。
「クラヴィオ様が持ってきたルーメンで目を覚ますなんて……」
コハクは腕を組み、卓の上の空瓶を見てから、ゼルへ目を戻す。
「ピーリア、あんたが話して夢物語みたいに、本当にどこかの王族かもしれないわね」
ピーリアは立ち上がった。
「クラヴィオ様に知らせに──」
扉が、先に開く。
「必要ねぇよ」
クラヴィオが二人の娼婦の肩を抱いたまま入ってきた。
「よぉ」
ゼルが、静かに身を起こす。
「戻ったか、ゼルファルド」
「誰だ、お前」
「そういうところが、てめぇの嫌いなとこだ」
クラヴィオは喉の奥で笑い、娼婦の腰に腕を回した。
「擬態までして、逃げ回ってるんだってな」
ゼルは寝台の縁に手をつき、頭を軽く振るようにして髪を払った。
「随分と落ちぶれたな、竜属」
「クラヴィオ。まだ、そうして遊んでいるのか」
「お前も楽しめばいい、教えてやろうか」
ゼルの視線は正面のクラヴィオを素通りし、背後に控えていた白狐族の女で止まる。
「助けたのは、お前か。俺は、ひとりだったか」
「あ、いや……」
代わりに答えたのは、クラヴィオだった。
「ずいぶんと趣味が変わったな。人間とはな」
腕に寄り添っていた娼婦の腰へ指を預けたまま、ゼルを見る。
「お前の連れなら、ここに来た。ずいぶんと健気だったぞ」
「どこにいる」
「少なくとも、もうここにはいねぇな」
「それならお前に用はない」
「お前、あの人間が何者か知っているのか」
「……どうでもいい」
ゼルは寝台から足を下ろし、壁際に掛けられていた外套を肩に通した。
身体がわずかに傾ぐが、壁に触れた指先で支え、留め具を整える。
「完全には回復してないだろう」
「問題ない」
クラヴィオは口元をわずかに歪めてみせた。
「礼なら、連れの人間に言え」
「どういう意味だ 」
「どうやってお前を助けたか、聞いてみろよ」
クラヴィオは娼婦の髪へ顔を寄せる。娼婦は嬉しそうに身体を預けた。
「ルーメンの残りが欲しけりゃ、屋敷に来い。あの人間も連れてな」
娼婦の腰を引き寄せ、帳の奥へ向かう。
ゼルはその方向を一瞥しただけで、興味を失ったように視線を戻し、扉へ向かった。
「待って!」
ピーリアが声を上げる。
「私が助けたの!外で倒れてて、それで……」
呼び止めたあとで、逃げ場を失ったように立ち尽くす。
それでも、足を踏み出した。
「ずっと、ここで看てたのよ。目も覚まさなくて……」
「そうか」
ゼルはその言葉を背中で受け止めたまま、扉を押し開けた先へ、そのまま姿を消した。
「あんたが呼び止めるなんて、思わなかった」
コハクの声に、ピーリアが振り向く。
「え?」
「いつもなら、黙って見てるだけでしょ」
「……でも、相手にもされなかった」
ピーリアは、さっきまでゼルがいた寝台を見る。
そこあった体温は、もうどこにもない。
「それでもいいのよ」
「……うん」
コハクはピーリアの肩を、軽く叩いた。




