Ⅲ-EP.9 扉の向こうで待つもの
「姐さん、おはよう」
二階の控え室の扉が軋み、数人の娼婦が入ってきた。
香油の甘い匂いと、衣擦れの音が一緒に流れ込む。
エンジュは机に並べた銀貨から視線を上げ、口元だけで笑う。
「さっさと支度しな。今日は客が多いよ」
「はーい」
軽い返事が返り、控え室にはまた笑い声が広がった。
その笑い声に被るように、階下で誰かが荒い声を上げた。
「上は関係者以外、立ち入りは……」
「お待ちください!」
香瓶を持っていた娼婦が、手を止める。
「……え?」
制止の声を押し切るように、何者かが室内へ踏み入ってきた。笑い声は途切れ、娼婦たちの動きが揃って止まる。
「……クラヴィオ様」
クラヴィオは、室内に視線を巡らせることもなく口を開いた。
「引き取りに来た」
エンジュは一礼だけ返し、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。
「今宵は、どの娘をご所望でしょうか」
「娼婦じゃねぇ」
クラヴィオは吐き捨てて奥へ向かう。
「クラヴィオ様、何を」
「無駄口はいい。運べ」
数名の従者が黙って続き、奥の部屋に入ったところで、足を止める。
寝台に横たわる蝙蝠族へ、従者たちの手が伸びる。
エンジュの胸の奥に、短い痛みが走った。
ライオル様が命をかけて救った、あの実験体。
市場で、檻を空にした人間。
「おやめください」
「なんだ」
「その者を、連れて行かせるわけにはいきません」
「……ほう」
「この蝙蝠族には、会うべき相手がいます。その者に会わせるまでは、連れて行かせません」
「なら、連れてこい」
クラヴィオは口元を歪め、抑えきれない笑みを零した。
「そいつを、ここに」
*
「ぶっ倒れてんじゃねぇよ……」
リフの肩に腕を回したまま、ルシアーナが絡むように言う。酒気が濃い。足取りは危うく、ほとんど体を預けている
「石みてぇなのしか食わねぇからだ。肉食え、肉……」
宿の廊下を抜け、リフは部屋の扉を押し開ける。
彼女を支え、なんとかベッドの縁へ座らせた。
「ほら、着いたよ」
言い終わる前に、ルシアーナは後ろへ倒れ込む。ベッドが軋み、ピンクの長い髪が枕に広がった。
さっきまで酒場で杯を握ったまま、「大事なやつ、見つけたんだろ!」と怒鳴っていた声が、今はもう眠気に溶けていた。
片足をベッドからはみ出したまま、ルシアーナは大の字に寝転ぶ。
「会わせてやる……絶対……」
酒に濁った声が、寝言になって零れる。
リフは立ったまま、その言葉を聞いていた。
胸の奥が、鈍く疼く。
あの獅子族の怒鳴り声も、喉の奥に残る息苦しさも、消えない。
それでも──
会わなければ、何も始まらない。
そっとコートを羽織る。
階段を下り、宿の扉に手をかける。
木戸を押した瞬間、外気と一緒に、鮮やかな羽が視界に飛び込んだ。
「あ」
孔雀族の女、ピーリアが、目を丸くする。瞳は宝石のように深い。
隣に立つ白狐族のコハクは、腕を組んだまま静かにリフを見下ろす。
どちらにも、種の名残が妖しく美しく残っていた。
「探したのよ、あんた」
「ドグールの言った通り。宿、ここだった」
リフは戸口の境目に立ったまま、ピーリアとコハクの顔を順に追った。
「……娼館から?」
「そう。姐さんが呼んでる。来るでしょ」
「分かった」
リフは静かに頷く。ナトカにもらったコートの裾を指で整え、一歩外へ出る。
夜気が頬を撫で、気持ちがわずかに揺れた。
「案内して」
石畳を歩き出すと、ピーリアが横に並んだ。尾羽の先が、かすかにリフの袖に触れる。
「ねえ、あの蝙蝠族、あなたの何?」
「大事な人」
「……そう」
「麒麟属が来るなんて、ただの蝙蝠族じゃないんでしょ」
「さぁ、どうだろう」
「知らないのに迎えに来たの?」
コハクが、会話を断ち切るように口を挟む。
「分かったなら余計なこと聞くのやめなさい」
「別に、聞いただけ」
ピーリアは唇を尖らせ、尾羽を揺らす。
「待ってるだけのあんたには、関係ないでしょう」
「知ってるよ。でも、聞きたくなることくらいあるでしょ。行こ、姐さんが待ってる」
赤と紫の灯りが、三人の影を石畳に長く落としていた。
*
「連れてきたよ、姐さん」
ピーリアが、半歩下がる。
コハクも腕を組んだまま、無言で間を空けた。
残された隙間から、リフが前へ出る。
「……来たのかい」
金色の瞳がまっすぐリフを射抜いた。
視線がぶつかった瞬間、喉の奥が焼けるように乾いた。
「二度と会わずに済むなら、それが一番だったけどね」
「分かってる……それでも、来た」
リフは頷く。指先が、ナトカのコートを無意識に掴んでいた。
「ゼルに、会わせてくれるなら」
「会って、どうする」
「会いたい。それだけ」
広間にいた娼婦たちの囁きが消える。
エンジュはしばらく黙っていたが、やがて背を向けた。
「上に、来な」
階段を数段上がったところで足を止め、振り返らないまま言う。
「だが、覚えておきな。あの部屋にいるのは、あんたの知ってる世界の延長じゃない」
階段の奥、廊下の灯りが細く伸びていた。
その先に、重い気配がひとつ。




