第2話「昼間の声と、夜の声が、重なった」
三日後、王宮の廊下でグスタフと正面からすれ違った。
今度は一対一だった。副官も、他の女官もいない。イレーネは壁際に寄って頭を下げた。通り過ぎてくれれば、それでいい。
しかしグスタフは歩みを緩めた。
立ち止まって、イレーネを見た。何も言わなかった。ただ一瞬だけ——何かを確かめるように、静かに見た。それから何も言わずに歩き去った。
背中を見送りながら、イレーネは自分の手が少し冷えているのに気づいた。
あの目が、嫌だった。何も映していないようで、しかし何かを見ている。昼間の廊下で会うたびに、あの目に見られるたびに、どこか落ち着かなかった。
その夜、男が来た。
いつも通りに話していた。イレーネが廊下での出来事を話した。「今日も宰相と廊下ですれ違いました。何も言わずに見てくるんです、あの方。鋭い目で」と言ったら、男が少し黙った。
「どんな目をしていた」
「……何も映していないようで、でも何かを見ている、という目でした」
男は「そうか」とだけ言った。
その「そうか」が、また引っかかった。
────────────────────────
翌週、緊急の合同会議が開かれた。
議題は王宮内の予算配分で、各部署の長と宰相府が同席する会議だった。イレーネは記録係として末席に座った。
会議が始まってしばらくした頃、グスタフが発言した。
その声が、広間に響いた瞬間——イレーネの手が、止まった。
*——同じだ。*
書いていた字が歪んだ。手が震えて、羽根ペンが書類の端に引っかかった。落としそうになって、両手で押さえた。
声の質。話し方の癖。言葉と言葉の間の取り方。
三年間、夜ごと聞いてきた。暗闇の中で、窓枠越しに、何度も何度も聞いてきた。
同じだ。同じ声だ。
顔を上げた。グスタフが書類を見ながら話している。仮面はない。昼間の顔で、昼間の目で、こちらを見ていない。
でも声が、間の取り方が、笑わないときの静けさが——全部、あの男と同じだった。
*違う。違うはずだ。宰相が、なぜ女官の窓に。三年間、あんな話を。*
イレーネは俯いて、書類の文字を見た。何も読めなかった。
────────────────────────
その夜、窓を開けて待った。
いつもより早く、男が来た。窓枠に腰かけて「今日は顔色が白い」と言った。
「入ってください」とイレーネは言った。
男が止まった。三年間、一度も部屋に招いたことがなかった。「……いいのか」と聞いてきた。
「はい」
男が窓から入った。部屋の中に立つと、城壁の上にいるときより、ずっと背が高かった。
イレーネはランタンを手に取った。近づいた。男は動かなかった。光が、仮面の輪郭を照らした。その下の目が——夜の光の中で、昼間に見た目と同じ色をしていた。
「あなたは」とイレーネは言った。「誰ですか」
男は答えなかった。
それからゆっくりと、仮面の紐に手をかけた。細い指が、白い紐に触れた。
外れる、と思った瞬間——
扉が叩かれた。
「イレーネ、まだ起きているの」カタリナの声だった。「明日の書類が見つからなくて——」
男の手が、止まった。
イレーネと男の目が合った。ランタンの光の中で、仮面の紐に指がかかったまま、二人は動かなかった。
────────────────────────
(第3話へつづく)




