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第1話「三年前から、男が窓に来る」



 王宮の廊下は、いつも音が響きすぎる。


 足音も、衣擦れも、小声の囁きも、石造りの壁に反射して余計に届く。だからイレーネは昼間の廊下が苦手だった。特に今日のような日は。


 「女官部の権限縮小案を提出した。来月の議会で審議する」


 グスタフ宰相の声が、廊下の端まで届いた。三十歳の若き宰相は振り返りもせず、書類を副官に渡しながら歩いていた。すれ違いざまに言われた言葉だった。挨拶もなく、説明もなく、ただそれだけ。


 女官部の長代理として立っていたイレーネは、「承知いたしました」と頭を下げた。


 頭を下げながら、奥歯を噛んでいた。


 権限縮小。つまり、三年かけて積み上げてきた仕事が削られる。イレーネの部署が管理してきた王宮内の記録、情報の整理、各部署の連絡系統——それを宰相の一声で、来月から別の部署に移すという。理由も、相談も、何もない。


 グスタフの背中が廊下の角に消えた。


 冷たい男だとは知っていた。王宮で最も恐れられる宰相だとも。ただ、あれほど何もない目で人を見る人間を、イレーネはあまり知らなかった。視線が触れた一瞬、確かに目が合ったのに——彼の目に、イレーネは映っていなかった。


────────────────────────


 夜になると、男が来る。


 三年前から続いている。最初の夜のことを、イレーネは今でも覚えている。


 残業で遅くなって、部屋に戻ったのは夜半を過ぎた頃だった。空気を入れ替えようと窓を開けたら、城壁の出っ張りに誰かが座っていた。悲鳴を上げようとしたら「静かにしてくれ、少し休んでいるだけだ」と言われた。


 仮面をつけた男だった。


 怪しいにもほどがある。「ここは王宮の城壁です」と言ったら「知っている」と言った。「何者ですか」と聞いたら「通りすがりだ」と言った。「城壁を通りすがる人間がいますか」と言ったら「今ここにいる」と返ってきた。


 声が、妙に疲れていた。笑い方も不慣れで、まるで久しぶりに笑ったみたいな声だった。


 それが引っかかって、追い払えなかった。


 それから三年間、男は不定期に来た。多いときは週に三度。少ないときは月に一度。いつも夜で、いつも仮面をつけていた。名前を聞くたびに「言えない」と言った。それでも話した。イレーネの仕事の話、他愛ない笑い話、空の色の話。イレーネが仕事で行き詰まった夜は、夜明け近くまで隣にいた。


 この時間だけが、イレーネには息のできる場所だった。


────────────────────────


 その夜も、男は来た。


 窓枠に腰かけて「今日は顔色が悪い」と言った。挨拶の代わりにそれを言うのが、この男の癖だった。


 「宰相が、私の部署を標的にしています」とイレーネは言った。隠す気になれなかった。「来月から権限を縮小すると。三年かけて作ってきた仕事が、来月から消える」


 男は少しの間、黙った。


 「理由は言われたか」


 「何も。廊下ですれ違いざまに言って、そのまま行ってしまいました」


 また沈黙が落ちた。男は窓の外の夜空を見ていた。


 「グスタフという宰相です」とイレーネは続けた。「会ったこともないのに、嫌いになりました」


 男が少しだけ、息を吐いた。


 「そうか」


 「そうか、だけですか」


 「……すまなかったな」


 妙な言い方だと思った。「あなたが謝ることではないでしょう」と言ったら、男は「そうだな」と言って、それ以上は何も言わなかった。


 夜明け前、男が帰り際に振り返った。


 「イレーネ」


 名前を呼ばれた。三年間で、初めてだった。


 「どうして名前を知っているんですか」


 「三年、聞いていれば覚える」


 それだけ言って、男は城壁の向こうに消えた。


 イレーネはその夜、明け方まで眠れなかった。


────────────────────────


(第2話へつづく)

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