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第8話 黒薔薇の目覚め



 三段目で、足首の《公名錠》が締まった。


「……っ」


 痛みを顔に出さずに済んだのは、なかなかの幸運だったと思う。


 見物人の前で転ぶなんて、ただでさえ不本意な晴れ舞台に、余計な見世物を添えるようなものですもの。


「進め」


 背後の冠衛士に促され、白い階段を上る。


 断頭台が近づくにつれ、木材に染み込んだ古い鉄の匂いが鼻を掠めた。洗い流しても残るものがあるらしい。床板の継ぎ目には乾ききらない黒ずみがあり、朝日を受けた霊晶杭だけが、不自然なほど清潔に輝いていた。


 十二本。


 円を描いて並ぶ杭の先から、細い光が床へ落ちている。光は刃の下には集まらず、断頭台の周囲を巡って、足を置く位置で交差していた。


 ……あら。


 首を落とすだけなら、そこまで厳重に囲う必要があるのかしら。


 杭と杭の間隔を目で測る。どれか一本を倒しても、隣の杭が欠けた線を補える配置。逃走を封じるためだけにしては、ずいぶんと念入りだ。


 その円の中心へ立たされた。


 群衆の声が、一段高くなる。


「黒薔薇!」


「反逆者の娘!」


「早く始めろ!」


 つい先ほどまで、王都のどこかで暮らしていた人々。


 朝市で買い物をして、子どもの手を引き、明日の天気を気にする。そういう方々が、今日はわたくしの首を待っていらっしゃる。


 ……人気者というのも、考えものですわね。


 笑うつもりで口元を動かしたのに、頬が強張った。


 怖い。


 昨日の夜から、ずっと。


 それでも、今は目を伏せたくなかった。


 処刑台の正面には、名録院長エレナ・ヴァルク。整えられた法衣の裾は、汚れた木床に触れないよう僅かに持ち上げられている。傍らの司祭たちは、揃いの白杖を胸の前へ立てていた。


 エレナが記録書を開く。


「リゼリア・ノワールヴェイン」


「はい。ここにおりますわ」


 広場の喧騒が、ひと呼吸だけ揺れた。


「国家反逆者アルベルト・ノワールヴェインの娘。聖環破壊および王国転覆への加担により、爵位、財産、血統上の権利、ならびに公名を剥奪する」


 声は淀みない。昨夜の食事より、よほど丁寧に準備されたのでしょう。


「一つ、伺っても?」


「発言は認められていません」


「では、お答えにならなくても結構」


 霊晶杭の一本へ視線を向ける。


「刑を執行するだけなら、あの杭が集めたものを、どちらへ送る必要があるのかしら」


 エレナの指が、記録書の端で止まった。


 ほんの僅か。それで十分だった。


 杭の足元から伸びる術式線は、床下へ消えている。処刑人の動きを助けるものではない。ここで生じた何かを、別の場所へ運ぶ線だ。


「余計な知識は、苦痛を増やすだけです」


「お気遣い、痛み入りますわ。ですが、苦痛を増やす設備を用意された方から伺うと、少々説得力に欠けますこと」


 司祭の一人が杖を持ち上げた。


「静粛に」


 白い波紋が広場を横切り、ざわめきを押し伏せる。


 人の声が遠くなった途端、自分の呼吸だけが耳の奥で大きく響いた。


 逃げ出したい。


 ええ。認めましょう。


 足首の錠が外れ、兵士が道を空けてくださるなら、喜んでこの階段を下りたいところですわ。


 けれど、その願いと、ここで何が行われているのか確かめたい気持ちは、別のものだ。


 エレナが片手を上げた。


「公名剥離、準備」


 十二本の杭に灯が入る。


 白い線が足元から這い上がり、《公名錠》へ結びついた。熱した針を皮膚の下へ通されるような痛みに、膝が勝手に折れそうになる。


 何とか踏みとどまる。


 最初の杭が、名を読み上げた。


『リゼリア』


 二本目。


『ノワールヴェイン』


 三本目。


『公爵令嬢』


 続けて、杭の表面へ細かな文字が浮かび上がった。


 アルベルトの娘。


 西部第4霊脈区画の証言者。


 エドガー・ミルンを保護した者。


 ルカ・アーレンの名を呼び戻した者。


 ……ご丁寧に。


 わたくしが誰と出会い、何をしたかまで、調べ上げていらしたのね。


 文字が一列ずつ黒ずんでいく。


 喉の奥が、きゅっと縮んだ。


 ルカ。


 セレン村で、あの子は確かに自分の名前を聞いて泣いた。


 エドガー。


 ニナは、お父さんはここにいると叫んでいた。


 その出来事まで、最初からなかったことにするおつもり?


「公名を奪ったあと、どうなさるの」


「罪人の記録は消去されます」


「違いますわ。お尋ねしているのは、記録の話ではありません」


 杭から伸びた光を見据える。


「わたくしと関わった方々の記憶まで、勝手に片づけるおつもりなのかと聞いております」


「個人の感傷で、国家の安全は守れません」


 なるほど。


 ここでも、国家の安全。


 その言葉には、いつも随分と大勢が詰め込まれる。けれど、押し込まれた人々の顔を見ようとなさる方は、驚くほど少ない。


 言い返そうとしたところで、声が詰まった。


 白い光が胸元を貫いたように感じた。


 息が吸えない。


 頭の中を、見えない指で乱暴に探られる。


 朝食の食卓。


 濃すぎる紅茶。


 白い王と、黒い女王。


 父が新聞の陰で笑ったこと。


 パンの皮を残そうとして、見つかったこと。


 ひとつずつ、場面の端が白く滲んでいく。


 違う。


 忘れたのではない。思い出そうとすると、そこにあったはずの言葉だけが、指の間から抜け落ちる。


 父の声。


 ――残すな、……。


 最後に呼ばれたのは、誰の名前?


「……っ」


 冷たい汗が背中を伝った。


 まさか。


 自分の名を、探している。


 生まれてから一度も探す必要のなかったものを。


 群衆の声が、遠くから戻ってきた。


「黒薔薇!」


「毒花め!」


「黒薔薇!」


 その呼び名だけが、妙にはっきり聞こえる。


 何百もの口が、同じものを指している。


 憎しみであれ、嘲りであれ、彼らは今、ここにいる人間を間違いなく呼んでいる。


 公名は削られかけている。


 けれど、こちらの存在まで消えたわけではない。


 ……本当に、皮肉がお好きな国ですこと。


 国の帳簿から名前を取り上げながら、その口で新しい呼び名を与えてくださるなんて。


 ただし。


 それを受け取るかどうかは、別のお話だ。


 胸元へ手を伸ばす。


 父の懐中時計。


 爪先を痺れさせながら刻んだ四つの名前が、裏蓋の内側にある。


 エドガー。


 ルカ。


 アルベルト。


 そして――。


 最後の文字を指の腹でなぞった。


 傷の盛り上がりが、痛いほど確かだった。


 リゼリア。


 そう。


 それが、わたくしの名前。


 先ほどまで霞んでいた父の声が、不意に輪郭を取り戻す。


 ――残すな、リゼリア。


 なんてこと。


 今度ばかりは、残しませんとも。


 名前も。


 あの食卓も。


 誰かが誰かを呼んだ事実も。


 全部、そちらの都合で消されてたまるものですか。


「公名剥離、開始」


 エレナの声と同時に、十二本の光が強まった。


 足の力が抜け、石床へ膝をつく。


 昨夜、爪を割って刻んだ指の傷が開いた。握り込んだ掌から、温かいものが伝う。


 血が、一滴。


 白い石に落ちる。


 赤いはずのそれが、霊晶杭の光を受けて黒く見えた。


 血の周りで、細い線がほどけていく。


 茎のように。


 棘のように。


 花弁のように。


 ……あら。


 床の模様ではない。


 わたくしの血から、術式が伸びている。


 試した覚えのない回路。それなのに、線のどこへ魔力が流れ、何を支点に折り返すのかが、指先の感覚として伝わってくる。


 父から教わったどの魔札とも違う。


 王家の《公名》だけを鍵にする術でもない。


 胸の内側で、固く閉じていたものが、音もなくほどけた。


 痛みが消えたわけではない。


 むしろ、全身の血が一度に熱を持ったように苦しい。


 けれど、道筋が見える。


 この術式は、奪われる名をただ守ろうとしているのではない。


 別の名を、こちらが選ぶ余地を残している。


 群衆は相変わらず叫んでいた。


「黒薔薇!」


「黒薔薇を殺せ!」


 ふ、と息が漏れた。


 よろしいでしょう。


 お望みの呼び名が、そこまでお気に入りなら。


「……その名、いただきますわ」


 エレナが顔を上げた。


「何を言っているの」


「黒薔薇、と」


 膝をついたまま、顔を上げる。


「皆様がお呼びになっているのでしょう?」


「反逆者を讃える名ではありません」


「存じておりますとも。ずいぶん不名誉な贈り物ですわね」


 震える指を、石床へ置く。


「ですが、それを毒花のままにしておくかどうかまで、決められた覚えはございません」


 血の線が、十二本の光と交わった。


 霊晶杭が一斉に唸り、白い回路へ赤黒い筋が走る。


 掌の下から、薄い長方形が一枚浮いた。


 透けるほど薄いのに、縁は血晶のように硬い。


 もう一枚。


 さらに一枚。


 空気が鳴った。


 血の札は十二枚まで増え、彼女の周囲へゆっくりと広がっていく。花弁のようにも、盤上へ配られた駒のようにも見えた。


 触れてもいないのに、それぞれの位置と向きが分かる。


 ただし、思い通りに動くとは限らない。最も遠い札を引こうとすると、胸の奥が引き攣れ、右手の傷から新しい血が滲んだ。


 ……なるほど。


 代金まで、きっちり取るおつもりなのね。


 その名が、頭の中へ落ちてくる。


 《ブラッドアルカナ》。


 自分の血と《名核》に応じる、十二枚の魔術媒体。


 名前を付けたというより、ずっと奥にあった仕組みを、ようやく見つけた感覚だった。


「術式を停止なさい!」


 エレナの声が裏返る。


 司祭たちが、一斉に白杖を構えた。


 正面の三人。


 右の一人は、足元の杭へ魔力を流している。左の二人は群衆との間へ障壁を張ろうとしていた。


 こちらを攻撃する者と、周囲を守る者。


 少なくとも、全員が同じ判断をしているわけではないらしい。


 救いなのか、隙なのか。


 今は、どちらでも構わない。


 司祭の杖先に、赤い炎が集まった。


 一本は胸の高さ。


 もう一本は、逃げようとする足元。


 三本目は、二つを避けた先へ向けられている。


 ……あらあら。


 ご親切に、逃げ道までお決めくださるのね。


 札を二枚、手元へ引き寄せる。


 呼吸を整えたつもりでも、指はまだ震えていた。


 初めて使う魔術。


 取り戻したばかりの名前。


 背後には、何も知らずに集められた人々。


 失敗すれば、ここで終わる。


 その事実だけは、少しも面白くない。


「《フレイムランス》!」


 三つの炎が、時間差で放たれた。


 さあ。


 今度は、こちらが手を選ぶ番ですわ。

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