第7話 処刑台へ続く道
逃げ道を捨てたのなら、あとは間に合わせるだけ。
もっとも、こちらは両手と足首を拘束された死刑囚。
人助けをするには、いささか不向きな装いですこと。
「そこの方! お子さんの頭を守って、壁際へ!」
母親が顔を上げる。
「商人の方は無理に立たないで。そちらの衛士、聞こえまして?」
倒れた兵士の指が僅かに動く。生きている。
鐘楼が大きく軋んだ。
足りないのは、時間。
それなら、買えばいい。
魔封環の留め金へ爪を差し込んだ。
昨夜覚えておいた継ぎ目。公名を参照する刻印が、わずかに歪んでいる。法廷が名を書き換えたせいで、拘束具はその名を読み直そうと脈打ち続けていた。
そこへ、血のついた指先を押し当てる。
爪の下に金属が食い込み、目の奥が白くなるほど痛んだ。
「……本当に、手荒な身分証明ですこと」
公名を参照する外側の術式へ、この身体に残る魔力を内側からぶつける。
継ぎ目が軋む。
まだ足りない。
もう一度、指を押し込む。
鋭い音とともに環が割れ、足元へ落ちた。
締めつけから解かれた両手に血が巡り、指先がじんじんと痺れる。《公名錠》は足首に残り、魔力も思うようには戻らない。
……ええ。十分とは言い難いわね。
けれど、今ある手でやるしかない。
囚人服の縫い目から、時計の保護板を抜き出した。
刻み込んだ簡易術式。
狙うのは鐘楼そのものではない。あんな石の塊、止めようとしたところで魔力が足りない。
落下方向を、ほんの少し変える。
その隙に、人を逃がす。
「皆様、伏せて!」
小さな金属片へ魔力を通す。
「《エアバースト》!」
圧縮した空気が上へ弾けた。
耳の奥が塞がれ、肺を押しつぶされるような圧が胸へ返ってくる。吹き上がった風が粉塵を巻き、落下中の石材へぶつかった。
止まらない。
当然だ。
石の重さを甘く見ていれば、助けるどころか全員巻き添えになる。
それでも、落ちる角度が僅かに変わる。影が石畳を滑った。
「今です! 走って!」
母親が娘を抱いて飛び出す。駆けつけた冠衛士が、2人を壁の陰へ押し込んだ。
商人は動けない。
足首の錠を引きずって駆け寄り、腕を肩へ回す。
「立てます?」
「脚が……!」
「見れば分かりますわ。でしたら、こちらへ体重を預けて!」
男の身体は想像よりずっと重かった。汗で湿った衣服が指の中を滑る。踏ん張るたび、公名錠が足首の傷へ食い込み、息が漏れた。
「っ……少しは、ご自分でも押してくださいまし!」
男が歯を食いしばって腕を動かす。ようやく近づいてきた衛士へ引き渡した瞬間、肩から力が抜けそうになった。
まだ1人。
倒れた冠衛士の襟を掴む。
鎧が石畳を擦って、耳障りな音を立てた。
重い。こちらは荷物を減らすという概念をお持ちでないのかしら。
引く。もう一度。
あと半歩。
頭上で石が爆ぜた。
兵士を抱え込むように身体を倒した直後、鐘楼が崩れた。
背中を衝撃が突き上げ、肺の空気が一気に押し出される。大きな石の落ちる音が、しばらく耳の奥で続いた。
息を吸うと、口の中へ砂が入った。喉が焼けるように痛み、咳をしても、すぐには空気が戻らない。
……もう。
お父様には、食事を残すなと言われていたけれど、砂まで召し上がれとは教わっておりませんのよ。
腕の下で、兵士が咳き込んだ。
「……生きていらっしゃる?」
小さく頷く。
よかった。
その一言が胸の中に落ちた途端、急に手が震え始めた。
「なぜ……逃げなかった」
兵士が掠れた声で尋ねた。
開いていた路地には、すでに衛士たちが入り始めている。
逃げる機会は失った。
「逃げたところで、あなたが亡くなれば、きっとわたくしの仕業にされますもの」
「それ……だけ、か……」
……さあ。
命を危険にさらした理由を、ここで美しく語れるほど余裕はない。
ただ、あの母親が娘を庇う姿を見てしまった。
見てしまったものを、見なかったことにはできなかった。
「お礼は、歩けるようになってからで結構ですわ」
そう答えたとき、粉塵の向こうが赤く染まった。
◇
「《フレイムランス》!」
覆面の男が杖を構えていた。
炎の穂先は、こちらではなく、倒れている衛士の背を狙っている。
……そこまでして、死人を増やしたいのね。
兵士の腰帯に伝令札が3枚見えた。術式信号を記すための薄い紙片。魔力を通す下地が施されている。
「少々、お借りしますわよ」
1枚を抜き、残る2枚を指に挟んだ。
相手の杖先が、こちらの肩に合わせて僅かに動く。
狙っているのは、避けた先。
ならば、まず避けるふりをする。
右へ肩を開くと、男の指が引きつった。
来る。
炎の槍が走った。
術式を通した伝令札を重ね、穂先の側面へ斜めに差し込む。正面から受ければ焼き尽くされる。欲しいのは、槍を止める力ではなく、その向きを変える一拍だ。
赤い熱が腕を舐めた。
「っ……!」
袖の焦げる匂いが鼻を刺し、皮膚がひりつく。先頭の札が黒く縮み、炎の穂先が僅かに逸れた。
背後の石壁に火槍が突き刺さり、砕けた石が頬を掠める。
男の目が見開かれた。
あら。そういう顔もできるのね。
残った2枚を扇状に投げる。男が反射的に顔を庇った、その一拍で踏み込んだ。
杖を持つ手首へ肘を打ち込む。
乾いた音。
杖が落ちる。
足先でそれを手元へ寄せ、男の膝裏を払った。倒れた相手へ追撃する必要はない。次の敵が、すでに詠唱を始めている。
「《ストーンバインド》!」
石畳の継ぎ目が盛り上がり、足へ向かって伸びてきた。
《公名錠》まで巻き込まれれば、今度こそ動けなくなる。
拾った杖を地面へ向ける。
「《アクアヴェール》」
薄い水膜が石鎖の継ぎ目へ滑り込んだ。
そのままでは、すぐ振り払われる。
膨らみかけた接合部を見極め、冷気を集中させる。
「《フリーズ》」
水が凍り、氷の膨張で石鎖の継ぎ目が割れた。伸びかけた先端が、足へ届く寸前に砕け散る。
ほっと息をつく。
……これだけの手間をかけるなら、普段の補助札を1枚持たせていただきたかったものですわ。
「リゼリア・ノワールヴェイン!」
低い声が広場に響いた。
ギルベルトが冠衛士を率いて踏み込んでくる。剣先は、こちらではなく、倒れた覆面へ向けられていた。
「武器を置け」
杖を石畳へ置く。
「逃げるつもりなら、今頃ここにはおりませんわ」
「見ている」
総長の視線が、崩れた鐘楼から救出された市民たちへ移る。
「襲撃者との関係は」
「助けに来たと名乗りながら、肝心の本人を放って市場を焼いていた方々です。随分と変わった忠臣ですこと」
「そうだな」
「ご理解いただけたなら、話が早くて助かりますわ」
「……判決を覆す権限は、私にはない」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
分かっている。
この人は法廷に立っていない。命令を止められなかったことも、今までの言葉で十分に分かっている。
それでも、こんなときくらい、もう少し気の利いたことを言ってくださってもよいでしょうに。
「でしたら、せめて今見たことを、そのまま記録してくださる?」
ギルベルトは救出された兵士を呼んだ。
「何があった」
「彼女が……市民と我々を助けました。襲撃者に加担した様子はありません」
兵士の唇は切れ、血が混じっていた。それでも、言葉は明瞭だった。
「記録に残せ」
総長が告げる。
それだけのことが、どれほど難しいか。
「……ありがとう存じます」
「移送は続ける」
「ええ。存じておりますわ」
近づいてきた兵が、新しい魔封環を差し出した。ギルベルトが手で制する。
「今は必要ない。私が見る」
格子越しに時計を返してくれたときと同じ、不器用な言い方だった。
こんな形でしか手を差し出せない人もいるのね。
だからといって、すべてを許したわけではないけれど。
◇
処刑場へ続く通りには、市場よりも多くの人がいた。
人の熱気と汗の匂い。足元で踏み潰される紙片。白い石造りの広場へ向かうほど、怒号が壁に反響して、言葉の輪郭を失っていく。
「黒薔薇!」
「反逆者を殺せ!」
「毒花め!」
同じ呼び名が、何度も降りかかった。
黒薔薇。
父が誇りを持って掲げていた紋章。
朝の盤上に置かれていた黒い女王の駒。
それらと同じ色の名を、王都の人々は罵声として使っている。
……ずいぶんと勝手な命名ですこと。
公名を奪われるだけでも不愉快なのに、代わりの呼び名まで他人に決められるとは。
足首の《公名錠》が熱を持った。靴下の上から皮膚を焼くような痛みが走り、歩幅が乱れる。刻印は赤く明滅し、何かを確かめ直すように締めつけを繰り返した。
名前を消そうとしているのに、名前を頼りに締め上げようとする。
こちらの事情などお構いなしね。
群衆の端に、見覚えのある母子がいた。
市場で助けた娘が、母親の腕の中からこちらを見ている。
少女の唇が小さく動いた。
ありがとう、と言ったのかもしれない。
罵声に掻き消されて、聞こえなかった。
母親は娘を抱き寄せ、何も言わずにこちらを見つめていた。
……それでいい。
あの子が大きくなったとき、何を見て何を信じるのかまで、王国や見物人に決めさせる必要はない。
視線を前へ戻す。
白い階段の先には、断頭台。
その周囲を囲むように、霊晶杭が並んでいた。
杭から伸びる細い光の線を、目で追う。
ただ首を落とすだけなら、あんな大掛かりな設備は要らない。
まず名前を奪い、その後で命を奪う。
法廷で聞かされた手順を思い返し、喉の奥に苦いものが込み上げた。
……お父様。
あの時計の時刻も、立会人のいない執行報告も、まだ答えが出ておりませんのよ。
何もかも片づいたような顔をして、先に勝負を終わらせないでくださいまし。
胸元の時計が、歩みに合わせて小さく揺れた。
最初の段へ足を載せる。
白い石に、囚人靴の音が響いた。
次の段へ。
まだ、確かめることがある。




