第6話 時計に刻む名前
白い霊晶灯を、こんなにありがたく思う日が来るとは。
王国が囚人の逃亡を防ぐためにつけた明かりで、囚人が細工をしている。たいした皮肉だ。もっとも、笑っている暇はない。
時計の裏蓋には、父が残した短い伝言と、僅かな余白がある。留め金の尖った爪を利用すれば、表面に傷をつけられそうだった。
まず、ルカ・アーレン。
次に、エドガー・ミルン。
それから、アルベルト・ノワールヴェイン。
一本、また一本。
細い爪は思うように進まず、文字は情けないほど歪む。血が滲んだ指を囚人服で拭う。こんな文字を見せたら、父はきっと書き直しを命じるでしょう。
最後の名を刻もうとして、手が止まった。
リゼリア・ノワールヴェイン。
自分の名前を金属片へ刻む日が来るなんて。
王家の記録には、生まれた日から載っていた。公式の文書には何度も署名した。それらが一夜で当てにならなくなるとは、帳簿というものも随分と薄情ですこと。
名前の最後の線を引く。
美しい字ではない。爪で引っ掻いた傷の寄せ集めにしか見えない。
それでも、ここに残る。
この時計を開いた誰かが、名前を読めるかもしれない。
そして何より、今この瞬間、確かに刻んだことを覚えている。
裏蓋を閉じかけて、保護板の端に目が止まった。
留め具で固定された、爪ほどの薄い内張り。機構を守るための小さな金属板だ。
外せる。
外した後も時計本体を壊さずに済むか、縁をそっと探った。爪を差し込むと、小さな音を立てて板が浮く。
これを媒体にして、何ができる?
術式を刻める面積は僅か。安定した魔札と比べるのも失礼なくらい粗末な代物だ。大きな術式は載らない。けれど、方向を絞って空気を押す程度なら、一度だけなら――。
起動線、魔力の流路、放出方向。
順番に刻む。細かい線を引くたび爪の下が痛み、光にかざす指が震えた。
魔封環がある以上、試運転はできない。
出来上がったのは、使えるかどうかも確かめられない、頼りない切り札。
まったく、父がご覧になったらどんな顔をなさることやら。
――確証のない手に全てを賭けるな。
そう仰る声が、容易に想像できた。
「存じておりますわ」
つい、口に出してしまう。
「ですから、これだけに賭けるつもりはございません」
保護板を囚人服の縫い目へ隠し、時計は胸元へ戻す。
地の底から、低い震えが伝わった。
結界の稼働音か、地下を走る魔力か。それとも――。
お父様?
呼びかけそうになり、唇を結んだ。
願望を証拠にしてしまっては、法廷の連中と大差がない。
時計を握り、目を閉じる。
眠れるかどうかは別として、身体くらいは休めなければ。
明日も頭を使うつもりなら、なおさらだ。
◇
午前10時。
囚人馬車の扉が閉まった。
両手には魔封環。足首には《公名錠》。名録院製の拘束具は、記録された公名を鍵に身体と魔力を縛る。公名が消されるほど、その締めつけは増す仕組みだ。
名を剥奪する直前まで、名で縛りつける。
この国の役人は、つくづく器用に矛盾を扱うものですわね。
窓に取りつけられた鉄格子へ触れる。馬車が揺れるたび、手首の傷に冷えた金属が擦れ、細い痛みが走った。
王都の朝は、何も知らない顔をしている。
荷車を押す男。布を広げる露店の女。子どもの襟を直してから送り出す母親。霊晶灯の白い光は薄れ、代わりに差し込む陽射しが石畳を温めていた。
昨日まで、その景色を馬車の内側から眺めていた。
いえ、今も内側にいるのだから、そこだけは変わらないのかしら。
「反逆者!」
石が車体を叩いた。
「黒薔薇!」
「人殺しの娘め!」
……あらあら。
名前を呼んでくれるのは結構だけれど、昨日までと随分と響きが違うこと。
黒薔薇。ノワールヴェイン家の紋章を、彼らは毒花の名に変えて投げつけてくる。
中には、その家紋を誇らしげに見上げていた者もいるだろう。人の評判ほど移り気なものはない。とはいえ、こちらの首が落ちる前から勝手に呼び名を決められるのは、少々気に入りませんわね。
窓から一歩離れる。
怒鳴り返したところで、裁判記録を読み直してくれる人が増えるとも思えない。
それよりも、今朝のギルベルトの言葉が気になっていた。
襲撃が起きる。
救出を名乗る者がいる。
それだけ伝えて、あの人は詳しいことを言わなかった。
……ご親切なのか、不親切なのか。
中央市場に差しかかったところで、馬車が不意に減速した。
前方から悲鳴。
次いで、腹の底を殴られるような爆音が響く。
車輪が石畳の縁に乗り上げ、身体が壁に叩きつけられた。肩の奥が痺れ、思わず歯を食いしばる。焦げた布と油の匂いが押し寄せ、馬が甲高く嘶いた。
「襲撃だ!」
冠衛士の叫び。
鉄格子の向こうで赤い炎が弾けた。屋根から黒い覆面の男が飛び降り、少し遅れて2人が続く。
「ノワールヴェインの姫を奪還する!」
大声で名乗りながら、兵士へ杖を向けた。
……ずいぶん芝居がかった登場ですこと。
囚人馬車はここにある。救出なら錠を外し、こちらへ駆け寄るのが先のはず。
ところが男たちは衛士へ火を放ち、周囲の屋台を焼き、馬車の両脇を炎で塞いでいく。こちらへ向かう者は、1人もいない。
逃がすのが目的ではない。
逃げたことにしたいのか。それとも、救出の名目で別のことをしようとしているのか。
「《ファイアアロー》!」
男の杖先から炎の矢が走り、馬車の蝶番に突き刺さった。金具が赤く膨れ、熱気が頬を撫でる。
2射目。
扉が外側へ跳ね飛んだ。
熱で歪んだ足元の《公名錠》に、細い亀裂が入る。
前方には、人のいない路地。
妙に綺麗に開いた逃走経路だった。
――なるほど。お逃げください、と。
衛士が立て直すまでの間に、あそこへ飛び込めば姿を消せるかもしれない。
足を踏み出す。錠が足首に食い込み、膝がかくんと折れた。
痛みを堪え、もう一歩。
そのとき。
頭上で、石が裂ける音がした。
市場の鐘楼が傾いていた。
炎が根元の梁を舐め、石組みの継ぎ目から白い粉が噴き出している。剥がれた石材が屋台の屋根を砕き、足元の石畳を震わせた。
……冗談ではありませんわ。
崩落の影の下に、人がいる。
娘の頭を必死に抱きかかえる母親。
脚を押さえ、泥に塗れて身を引きずる商人。
馬車から投げ出され、鎧の重みで起き上がれない冠衛士。
親子のすぐ脇には、燃える屋台。煙が流れ込み、母親が咳き込んでいる。
逃げ道は、まだ開いていた。
そこへ飛び込めば、助かるかもしれない。
あの人たちを救いに戻れば、捕まるだろう。
……逃げるか、助けるか。
まるで、それしか手がないと仰るような配置ね。
鐘楼を燃やし、扉を壊し、逃走路を開ける。市民の目が集まる場所で、囚人に選択を迫る。
逃げれば『反逆者が市民を見捨てて逃亡した』。
残れば『反逆者の襲撃で市場が焼けた』。
どちらでも、彼らの望む話に仕立てられる。
――随分と、趣味の悪い筋書きですこと。
けれど、書かれた筋書きを腹立たしく思うことと、目の前の人を助けることは別だ。
あの子が死ぬ。
考えている間にも、石が落ちる。
路地に背を向けた。




