第5話 死刑囚の晩餐
死刑囚にも夕食を与えるとは、王国は案外、礼儀を重んじるらしい。
鉄格子の下を滑ってきた木盆には、湿気た黒パンが一切れ。それから、冷えた泥を薄めたようなスープが一椀。
匙を沈めると、底に貼りついていた野菜の繊維が頼りなく浮いた。表面には白っぽい脂が膜を張り、鼻先へ近づけるだけで酸い匂いがする。
家畜の餌でも、もう少しまともな色をしているでしょうに……。
「明朝には処刑されるというのに、随分と律儀なことですわね」
牢番からの返事は、鍵束の音だけだった。
結構。食事の感想を求めているわけではない。もっとも、味見をなさったのかとは聞いてみたかったけれど。
王城の地下牢は、昼夜の区別がつかないほど白い。天井の霊晶灯は遠慮というものを知らず、目を閉じても瞼の裏を明るく染める。壁を伝う水滴の音だけが、ときおり妙に大きく聞こえた。
囚人服は薄く、石床は冷たい。座り直すたび膝に冷気が沁みる。公爵家の椅子が恋しいなど、こんなところで実感したくはなかった。
判決が下されたのは今朝のこと。
貴族の処刑には本来、証人の召喚や再審請求のための猶予が認められる。それが明日の午前には執行されるというのだから、ずいぶん迅速な裁きだ。王国の事務方が常にこれほど勤勉なら、父の机に書類が積み上がることもなかったでしょうに。
……いけませんわね。
父のことを考えると、つい、いつもの調子で悪態をつきたくなる。
今朝の法廷でも、あの方は娘の朝食を心配していた。
――朝食は。
もっとほかに尋ねることがおありだったでしょう、お父様。
パンを持ち上げる。表面は岩のように硬いのに、割ると内側が湿っている。これをパンと呼んで差し支えないのか、料理人に伺ってみたいところだ。
ひと口、齧る。
酸っぱい麦の匂いが鼻へ抜け、乾いた皮が上顎に張りついた。冷めたスープで流し込むと、舌に脂の膜が残った。
――残すな、リゼリア。
いつもの声が聞こえた気がした。
「……この有様でも、お叱りになるのかしら」
誰も答えない。
明日の今頃には、ここにいないかもしれない。
そう思った途端、次のひと口が喉を通らなくなった。匙を握る手が震え、椀の縁に小さく当たる。
怖い。
認めたくはないけれど、怖いものは怖い。死というものは、法廷で宣告されたときより、こんな冷たいスープを前にしているときのほうが、よほど身近に迫ってくるらしい。
けれど、明日考える力を失うのは、もっと困る。
噛む。飲み込む。もうひと口。
父が目の前にいたら、さぞ満足げに頷いたことでしょう。
……そして、紅茶がないことを理由に文句を言うのは、きっとわたくしのほうね。
せめて、もう一度だけ同じ食卓につきたかった。
残してきたタルトは、どうなったのだろう。
あんなに甘いものを、今ほど食べたいと思ったことはない。
◇
地上の鐘が12回鳴った。
牢の中では、音が石壁を伝ううちに輪郭を失う。最後の余韻が消えても眠気は訪れず、手首の魔封環を指で確かめていた。
銀色の縁に刻まれた公名。
リゼリア・ノワールヴェイン。
最後の文字だけが、ほかより薄い。
指の腹を当てると、環の内側で術式が脈打ち、手首がきつく締めつけられた。
「……あら」
名を鍵として拘束する道具が、肝心の名を曖昧にされている。ずいぶん気の毒な仕事を押しつけられたものだ。
名録院が公名を改竄し、その公名を頼りに別の部署の拘束具が働く。二つの仕組みが同じ記録を信じ切っているからこそ、食い違いが生まれる。
継ぎ目はある。
けれど手元に札はなく、まともに魔力を流すことさえできない。今ここで弄れば、仕組みを確かめる前に腕を痛めるだけだ。
忘れないよう、環の留め金の位置を覚える。
あとは休むべきだと頭では分かっていた。それなのに、目を閉じるたび、裁判の席で父が見せた横顔を思い出す。
やがて鎧の擦れる音が近づいた。
格子の向こうに現れたのは、濃紺の鎧と重い外套。灰色の短髪をした男――冠衛士総長ギルベルト・ローデンだった。
こんな時刻に総長自ら御出勤とは。王城は、役職の高い方ほど夜更かしをなさるのね。
立ち上がると、彼は格子の前で足を止めた。
「アルベルト・ノワールヴェインの刑は、執行された」
……ええ。
その報せが来ることくらい、考えていた。
考えていた、はずだった。
胸の奥がすうっと冷えて、息の仕方を忘れる。格子を握ろうとした指が空を掴んだ。立っているのに、足元がひどく遠い。
ここで泣いたら、何か変わるのかしら。
変わらない。
では、聞くべきことを聞かなければ。
「……いつですの?」
「午前0時13分」
耳の奥で、鐘の残響が鳴った気がした。
0時13分。
その数字を聞いた瞬間、胸の奥に別の冷たさが差し込んだ。
けれど、今は問いを止めてはいけない。
「立会人は?」
「非公開だ」
「遺体は拝見できます?」
「引き渡せない」
「では、総長ご自身は執行をご覧になったの?」
「答えられない」
なんて便利な言葉。
命を奪ったと告げることはできても、確かめさせることはできないらしい。
「報告は承りました。ですが、それだけですわね」
「何が言いたい」
「お父様が亡くなったと判断する材料が足りません。今は、あなたのお言葉をそのまま信じるわけにはまいりませんわ」
声を保つだけで精一杯だった。
父は生きている。そう断言する証拠もない。
それでも、亡くなったと認めるための証拠も示されていないのに、自分からその結論を選びたくはなかった。
ギルベルトはしばらく黙り、ようやく口を開く。
「……今日の移送で、襲撃が起こる可能性がある」
「助けてくださる方でも現れるのかしら」
「そう名乗る者はいるだろう」
「随分と歯切れの悪い救援ですこと」
「市民を巻き込むな」
なるほど。
おかげで、少し頭が冷えた。
救出を名乗る何者かが市場を荒らせば、反逆者の娘が手引きしたことにできる。真偽より先に、見物人の目に映る筋書きが出来上がるわけだ。
「わたくしの名を使って、どなたかが騒ぎを起こすおつもりなのね」
「断定はしていない」
「ええ。だから、気をつけますわ」
総長の顔に、ほんの僅かな緊張が見えた。
脅しに来たのか。それとも、警告に来たのか。
決めつけるのは、まだ早い。
彼は外套の内側から小さな布包みを取り出した。格子の隙間を通して差し出されたそれを見た瞬間、思わず息を呑む。
父の懐中時計。
「……こちらを、どうして?」
「法廷記録では証拠価値なしとされた。返還しても問題はない」
「そう判断なさったのは?」
「記録官だ」
「そして、それをわざわざ運んできたのは総長ご自身、と」
彼は答えない。
融通の利かないお方だと思っていたけれど、意外と面倒な優しさをお持ちなのね。
布をほどくと、冷たい金属が掌に沈んだ。指先でなぞった蓋の傷に覚えがある。父が机で考え事をするとき、何度も触れていた場所だ。
白い王の印。
手にした途端、何も言わずに済ませたかった言葉が喉元まで上がってきた。
……ありがとうございます、お父様。
違う。今、礼を言うべき相手は目の前にいる。
「総長。ルカ・アーレンという少年をご存じ?」
「西部第4霊脈区画の生存者だ」
「エドガー・ミルンは?」
「中央市場の保守員。娘はニナ」
間を置かずに返ってきた。
記録にない人間の名を、この人は覚えている。
それが今、どれほどありがたいか。
「……ありがとう存じます」
「礼を言われることはしていない」
「では、お願いに変えましょう。今日が終わっても、忘れないでくださいまし」
「お前も、死ぬ前提で話すな」
ぴしゃりと言われ、目を瞬いた。
記録官の文言を読み上げるときとは違う声。
……あら。叱られてしまった。
「総長にも、命令書にないお言葉があるのですね」
「眠れ」
「それは命令ですの?」
「忠告だ」
背を向けた総長の外套が揺れる。
鎧の音が遠ざかっても、懐中時計から手を離せなかった。
父の指が触れた傷を、もう一度なぞる。
そして、蓋を開いた。
止まった針。
その時刻を見た瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
午前0時13分。
ギルベルトが告げた、父の処刑時刻。
けれど、この時計は今夜よりもずっと前から止まっていた。
偶然?
それとも、誰かが時刻を合わせた?
今のところ、どちらとも決められない。
ただ、一つだけはっきりしている。
お父様の死を告げるために選ばれた時刻を、この時計は、先に指していた。




