第4話 反逆者の娘
屋敷の門から、黒薔薇が消えていた。
馬車の窓越しに見慣れた門柱を探し、思わず背筋を伸ばす。いつもなら黒鉄の紋章がある場所に、銀色の旗が垂れていた。
王家の直轄を示す旗。
……随分と、お仕事がお早いこと。
門の内側には冠衛士が並び、庭には使用人たちが集められている。濡れた芝の匂いに、馬の汗と、松明の油が混じっていた。深夜だというのに、玄関から書類の箱が次々と運び出されている。
箱にも、額縁にも、蔵書の背にも、白い番号札。
昨夜まで、わたくしたちの家にあったものだ。
門をくぐった馬車が止まる。
階段を降りると、石畳の冷たさが靴底から伝わった。庭の端で、老執事が兵士に何か説明している。こちらに気づいた彼の背が、かすかに伸びた。
わたくしは先に頭を振った。
近づいてはなりません。
今、彼まで連行されたら、屋敷の者たちを守る人間がいなくなる。
「リゼリア・ノワールヴェイン」
鎧の継ぎ目を鳴らして進み出たのは、短く刈った灰色の髪の男だった。濃紺の鎧に重い外套。軍人の足運びだが、抜刀する気配はない。
「冠衛士総長、ギルベルト・ローデンだ。王命により、身柄を拘束する」
「お父様はご無事ですの?」
「現在地は答えられない」
「では、罪状を伺いましょう」
「聖環中枢への不正干渉。証拠隠滅。アルベルト・ノワールヴェインの逃亡幇助」
最後の言葉で、胸の奥に残っていた疲労が消えた。
「お父様は拘束されたのでしょう? 逃亡幇助とは、奇妙な話ですわね」
「それを裁くのは法廷だ」
「裁く前に、罪状が確定しているように聞こえますけれど」
ギルベルトは言い返さず、背後の兵士に目を向けた。
逃げ道は門、庭、屋敷の裏手。どこも冠衛士が押さえている。ここで抵抗すれば、使用人たちへ刃が向くかもしれない。
選べる手が少ない。
だからといって、相手の望む手しか打てないわけではありませんわ。
「1つ、お願いがあります」
わたくしが両手を差し出すと、兵士が魔封環を近づけた。ひやりとした金属が手首に噛み合う。
「西部第4霊脈区画で、ルカ・アーレンという少年を保護しました。彼は生きています。公爵家の身柄とは切り離し、保護してください」
「同区画に、登録された住民はいない」
「それを証明するために、わたくしは村へ行ったのです」
「本人の公名は」
「ルカ・アーレン」
ギルベルトが隣の記録官へ合図する。
薄い術板をなぞる指。数拍の沈黙。
「……該当なし」
予想はしていた。
それでも、記録官が何でもないことのように首を振った瞬間、爪が掌へ食い込んだ。
「今、あなたが聞きましたわね」
ギルベルトを見る。
「ルカ・アーレン。その名前を、覚えておいてください」
「記録にない名だ」
「記録にないことと、呼ばれたことがないことは違います」
記録官は術板を下ろした。
ギルベルトはしばらくわたくしを見ていたが、やがて低い声で告げた。
「連行しろ」
魔封環に赤い細線が走る。刻まれていた公名を見て、喉の奥が詰まった。
リゼリア・ノワールヴェイン。
末尾の線だけ、妙に薄い。
刻印の不良なのか。それとも――。
確かめようと指を動かした瞬間、環が締まった。骨に届くような痛みが走り、わたくしは手を止める。
取り上げられたのは、携えた補助札と、父の懐中時計。
「それは私物ですわ」
「証拠品として預かる」
ギルベルトが時計を受け取る。
「傷つけないでくださいまし。大切なものですの」
彼は返事をせず、時計を外套の内側に収めた。
誰かがわたくしの背を押した。
屋敷の扉は開いているのに、そこへ帰ることは許されなかった。
◇
王城の地下で一夜を過ごした。
眠れたのは、鐘が一度鳴るほどの間だけだったと思う。
朝、差し入れられた黒パンを半分かじり、薄い水で流し込む。食欲はなかった。けれど、考えるには頭が要る。空腹に足を引かれている場合ではない。
連れていかれた先は《聖名法廷》。公名に関わる重大犯罪を、記録と証言の照合によって裁く場所だ。
足元の石は、屋敷の床よりも滑らかだった。磨き抜かれているせいで、足音が遠くまで響く。
高い壁には、名前が刻まれている。
いくつもの名前。名の下に契約、身分、処分の記録が連なり、魔力の光が細く流れていた。
国にとって、人間とはこれほど書き連ねなければ認められないものなのかしら。
傍聴席は空だった。
証人を呼ぶことすら許されない法廷で、いったい誰が判決を確かめるというのでしょう。
中央に立つ人影が、こちらを振り返った。
「お父様」
声が、思っていたよりも小さく出た。
アルベルト・ノワールヴェイン。
公爵服から家紋が剥がされ、両手には鎖。顔に目立つ傷はない。しかし、こめかみの銀色が、昨日より増えたように見えた。
近づこうとしたわたくしを、兵士の腕が遮る。
父はその腕と、わたくしの手首を見た。
「朝食は」
……こんな場所で、最初にそれを聞きますの?
「少しだけいただきました」
「少し、は食べていない時の言い方だ」
「今朝は、どうしても喉を通りませんでしたの。お父様は?」
「今は私の話ではない」
「では、わたくしだけ監督されるのは不公平ですわね」
父は呆れたように息を吐いた。
その癖も、声の調子も、あの朝と何も変わらない。
変わってしまったのは、わたくしたちの間にある鎖だけだった。
「時計は見つけたか」
「ええ。盤の印まで刻むなんて、随分と意地の悪い伝言ですこと」
「読めたなら結構」
「返してもらえるかは、まだ分かりませんけれど」
父の眉が、わずかに動く。
「没収されたのか」
「手元にはありません。でも、刻まれていた言葉は覚えていますわ」
わたくしは彼の目を見た。
「消えた者ではなく、残されたものを見ろ」
父は頷かなかった。
ただ、赤褐色の瞳を細めた。
「お父様。わたくし、あの村で――」
「リゼリア」
父が遮る。
高壇の記録官がこちらを見ていた。
……そういうことですのね。
知ったことを、この場で軽々しく明かしてはならない。父に知らせたい気持ちはある。けれど、誰が耳を澄ませているのか分からない。
「盤はまだ、わたくしの番ですわ」
「分かっている」
「白い王を、勝手に動かさないでくださいね」
父はすぐに答えなかった。
その沈黙だけで、胸が冷える。
戻るという約束を、今の父はできない。
「……盤を守るために、駒になるな」
ようやく返ってきた声は、低かった。
「盤そのものを疑え」
槌が鳴る。
父との距離を埋める前に、兵士が一歩進んだ。
◇
高壇には、3人が座っていた。
中央にいるのは、王国宰相レオポルト・エルンスト。鉛色の目、装飾を抑えた濃灰の長衣。右手だけに嵌めた白い手袋が、黒ずんだ書面の上でひどく目立つ。
その右側には、名録院長エレナ・ヴァルク。濃紺の院長服に身を包み、細身の記録杖を膝へ置いている。紙を揃える指先が、1枚の角までぴたりと合わせた。
左には白い法衣の代理司祭。
裁く者。記録する者。国家に祈りを与える者。
これほど都合よく席が埋まっているのに、事件が起きた村から来た人間は、わたくし以外にいない。
「被告アルベルト・ノワールヴェイン」
エレナが書面を開いた。
「西部第4霊脈区画の住民213人を違法に拘束し、《名核》および《記憶痕》を用いた人体実験を行ったことを認めますか」
「認めない」
「同区画の地下施設から、ノワールヴェイン家の《名証印》が検出されています」
壁面に光が浮かぶ。
霊晶塔の内部。人を寝かせるための接続台。保存容器。黒薔薇の印。
見覚えのある階段と壁の傷があった。
わたくしが昨日、歩いた場所だ。
映像はよくできている。場所を示すには十分なほど。
けれど、誰がいつその印を残したかまでは、どこにも映っていない。
「父の《名証印》があるのなら、父がそこを調べた証拠にはなります」
わたくしは一歩前に出た。
「ですが、人体実験を行った証拠にはなりませんわ」
「被告の発言は、許可されていません」
エレナの声は平坦だった。
「ならば、いつ許可されますの? 判決が決まった後でしょうか」
レオポルトが片手を上げた。
「続けなさい。アルベルト」
「異常を確認し、監査に入った。名証権保持者としての正当な職務だ」
「調査命令は存在しません」
「私自身が、その権限を与えられている」
「その権限は昨日付で停止されています」
「停止前の行為まで遡って無効にはならない」
父の返答には迷いがなかった。
エレナは記録杖の先端を、卓上の印へ当てた。
「記録上、あなたが同区画へ入ったのは、停止後です」
映像の隅に、日付が浮かぶ。
父はそれを一瞥した。
「書き換えたな」
「法廷記録を侮辱する発言です」
壁の名前が明滅する。
アルベルト・ノワールヴェイン。
その下の「監査官」という文字が黒ずみ、代わりに別の文言が染み出した。
反逆者。
罪が確かめられる前に、その名へ罪が結びつけられていく。
父の肩が、一度だけ揺れた。鎖を握る指が白くなる。
……まさか。
これは判決を記す仕組みではない。
判決へ向かう途中の言葉さえ、人の公名に刻む仕組みだ。
「お待ちなさい!」
手首の魔封環が鳴った。
「審理中でしょう。なぜ、もう罪名を刻んでいますの?」
「法廷は記録に従っています」
「今、目の前で記録を変えているではありませんか」
エレナは視線を逸らさない。
「あなたの意見も、記録します」
返答になっていない。
だが、ここで声を荒らげれば、わたくしの言葉まで「反逆者の娘の妄言」として並べられるだろう。
息を整える。
証拠は、見つけたものと、誰かに見せられたものとで違う。
同じだと思ってはいけませんわ。
「……では、今のわたくしの異議も、一字一句残してくださいまし」
エレナの指が止まった。
その短い間に、父がわたくしを見る。
静かな視線だった。
◇
「アルベルト」
宰相レオポルトがようやく口を開いた。
「あなたには幾度も機会を与えた」
「不正を見なかったことにする機会か」
「王国を存続させる機会だ」
レオポルトは、机に置かれた数字の並ぶ書類を指先で押さえた。
「《白冠》が停止すれば、王都の何十万人もの住民が《灰触》に晒される」
「だからこそ、《白冠計画》を止めるわけにはいかない」
その言葉に、喉が渇いた。
《灰触》を防ぐ結界が人々の暮らしを支えていることは、知っている。昨夜までわたくしも、その守りの下にいた。
けれど、守るための費用として、何を差し出していたのか。
誰が決めたのか。
「本人の同意もなく、213人の《名核》を装置につなぐことが、存続ですか」
父の声が響いた。
代理司祭が腰を浮かせる。
「それは国家機密に――」
「機密だから続けられるのだ」
父が言い切った。
レオポルトは否定しない。
「選ばなければ、さらに多くが死ぬ」
「選ばれる者は、選ばれたことすら知らない」
「知れば拒否する者がいる」
「当然だ」
「その拒否によって命を落とす者の責任は、誰が負う?」
言葉が止まった。
わたくしは唇を噛む。
あの村で、鍋が火から下ろされることなく残っていた。子どもの背丈に合わせた傷が柱に刻まれていた。名前を忘れられても、そこで暮らした人間の手がかりは消えなかった。
王都の灯りが消えれば、同じように食卓を囲んでいる人々が危険に晒される。
それも、嘘ではない。
だからこそ――。
「……お聞きしてもよろしいかしら、宰相閣下」
レオポルトがこちらを見た。
「213人へ、命を差し出してほしいと頼んだ記録はありますの?」
「必要な決定は、国家が下した」
「では、その213人が断ることのできる手続きは?」
「現行制度にはない」
「ほかの方法を検討した記録は?」
白い手袋の指が止まる。
「あなたはまだ、その重さを理解していない」
「ええ。国を治める重責について、わたくしはあなたほど存じません」
正直に答えた。
「ですから教えていただきたいのです。何人を救えるのか計算なさるとき、救われない213人は、誰が選んだのですか?」
エレナの記録杖が、かすかに音を立てた。
数字の意味を、ここでひっくり返せるとは思っていない。
それでも、誰の名前も呼ばれないまま「必要な数」へ変えられるのを、黙って見ているわけにはいかなかった。
レオポルトは、長い息を吐いた。
「……リゼリア・ノワールヴェイン」
初めて、宰相がわたくしの公名を呼ぶ。
「あなたには、まだ選択肢がある」
◇
「ノワールヴェイン家の《根源印》を王家に返還する。そして、父の関与については知らなかったと証言しなさい」
レオポルトは二通の書類を並べた。
「そうすれば、あなた個人の責任は問わない」
指示された署名欄は、すでに作られていた。
返還。
不知の証言。
どちらも、わたくしが今日ここへ来る前から用意されていたものだ。
《根源印》は、我が家が代々預かってきた、聖環中枢へ接続するための家系印。
あれを手放せば、王家は父の権限を完全に切り離せる。
わたくしは解放されるかもしれない。
父の名は、その代償に残される。
「リゼリア」
父が呼んだ。
振り向くと、口を開きかけていた父が、言葉を飲み込むのが見えた。
生きろ、と言いたいのでしょう。
分かっていますわ。
生きてさえいれば、調べ直せる。別の証拠を集め、別の道を探せる。今、この場で何もかも失うより賢い選択かもしれない。
ただし、そのためには一つ、嘘をつかなければならない。
わたくしは何も知らなかった、と。
ルカ・アーレンの名前を聞き、村を歩き、焼かれようとしていた塔の下から助け出した、その事実を。
なかったことにする。
「……実に合理的ですわね」
レオポルトの目が細くなる。
「ならば」
「署名の前に、確認を」
わたくしは紙から顔を上げた。
「わたくしが『知らなかった』と証言した場合、ルカ・アーレンを見たという記録も消えますの?」
「その少年は、登録上存在しない」
「それは質問の答えではありません」
「存在しない者について、証拠を作ることはできない」
……ああ。
ようやく分かった。
これは父を切り捨てるかどうかの選択ではない。
わたくし自身が、この目で見たものを捨てられるかという選択だ。
父に守ってもらうために、父が教えてくれたことを否定する。
その手だけは、どうしても打てない。
「申し訳ありません。署名はいたしませんわ」
「父とともに罪を負うのか」
「わたくしは、わたくしの見たことに責任を持ちます」
魔封環の締めつけが強くなる。痛みで指先が震えた。
それでも、署名欄へ手は伸ばさなかった。
「ルカ・アーレン。西部第4霊脈区画の生存者です。わたくしが保護しました」
昨日の村で、あの子の声を聞いた。
『……また消されたら?』
そのときは、もう一度呼ぶと答えた。
今、ここで呼ばなくてどうするのです。
「その名前を、記録してくださいまし」
エレナは動かない。
レオポルトが目を閉じた。
「選択を放棄したと判断する」
「いいえ」
思わず笑いそうになった。
「あなたが並べた2つの手を、どちらも選ばなかっただけですわ」
誰も、言い返さなかった。
槌が鳴る。
次の瞬間、わたくしたちの行く先が読み上げられた。
アルベルト・ノワールヴェイン。
聖環破壊および国家反逆の罪により、死刑。
リゼリア・ノワールヴェイン。
反逆幇助および《根源印》の不法保持により、死刑。
……死刑。
知っていたはずの言葉なのに、一度では意味が入ってこなかった。
喉が鳴った。
数日前まで、来週の講義を気にしていた。
父との盤の続きを、いつ指すか考えていた。
来週という言葉を、もうどこへ置けばいいのか分からない。
壁に刻まれたノワールヴェイン家の名から、光が消えていく。
魔封環の公名に、黒いひびが一本走った。
人間の名前を塗り潰すのに、こんなにも音がしないなんて。
◇
「移送する」
兵士が腕を取った。
足元に力が入らない。倒れるほどではない。ただ、靴の中の指先が自分のものではないように冷たかった。
「総長」
父の声がした。
ギルベルトが顔を上げる。
「少しだけ、娘と話をさせてくれ」
エレナが記録杖を持ち上げた。
「規定にはありません」
「移送経路の確認だ」
ギルベルトがそう答え、兵士へ目をやる。
通路の両側で足が止まった。
少しだけ。
何を話せばいいのだろう。
父の潔白を問うこともできる。昨日の村のことも。懐中時計に残された傷の意味も。
けれど、父が目の前にいる時間は、もう長くない。
「お父様」
「リゼリア」
「タルトを、新しく用意させますわ」
自分でも、驚くほどつまらない言葉が出た。
父の目元がゆるむ。
「一切れでいい」
「……随分と控えめですこと」
「お前は甘いものを残すだろう」
「お父様と食べるなら、残しませんわ」
父の手が動いた。
鎖が鳴り、伸ばしかけた指が止まる。
あの日、襟元の留め具を直したときの手。
あと少しなのに、届かない。
「……戻りたいと思っている」
父が、苦しそうに言った。
命令でも、監査結果でもない。
ただの願いだった。
「ならば、生きてください」
「お前もだ」
兵士が一歩近づく。
父の瞳が、まっすぐわたくしを捉えた。
「公名を渡すな」
言い返す前に、両側から腕を取られた。
「お父様!」
引き離される。
父が、わたくしの名前を呼んだ。
「リゼリア」
「はい!」
届くように、はっきりと。
兵士に引かれながら、振り向く。
「アルベルト・ノワールヴェイン!」
父を、公名で呼んだことがあっただろうか。
鎖の音が、一度だけ止まった。
それだけだった。
曲がり角の向こうへ、黒い背中が消えていく。
……聞こえましたわね、お父様。




