第3話 名前を失った村
第3話 名前を失った村
父の席に置かれた紅茶から、湯気が消えていた。
「お嬢様。お下げしてもよろしいでしょうか」
老執事が、音を立てずに食卓へ近づく。
「そのままにしておいて」
「ですが、冷めてしまいます」
「戻られたら淹れ直せばよいでしょう」
自分で言っておいて、胸の奥がちくりとした。
今朝の紅茶も濃い。昨日、わたくしが散々文句をつけたのと同じくらいに。厨房の者はきっと、父がいつもの席に着くと思って用意したのだ。
けれど、その席は空いたままだった。
昨夜、王都評議会へ向かった父は戻っていない。使いも、伝言も、届かなかった。
食卓の端にはチェス盤がある。
白い王は、昨夜父が逃がした位置から動いていない。わたくしの黒い女王は、その首に刃を届かせる一手を探したまま、待ちぼうけを食わされていた。
盤上に指を伸ばす。
……いけませんわね。
わたくしが勝手に駒を進めても、お父様が返してくださらなければ勝負にはならない。
「お嬢様」
老執事が、今度はわたくしの皿を見た。
「朝食を」
「食欲がありませんの」
「公爵閣下なら、そういうときほど食べろと仰います」
「皆、都合のよいときだけお父様の言葉を使いますのね」
「長くお仕えしておりますので」
よくもまあ、そんな澄ました顔で。
パンを手に取る。まだ温かい。皮を噛むと、ぱり、と小気味よい音がした。
昨日はあれほど食べたくなかったのに。
いまは、この音を聞けば父が顔を上げるような気がして、余計に腹立たしい。
そのままもうひと口、噛んだ。
◇
午前6時。
玄関へ現れたのは父ではなく、名録院の役人が3人だった。
「アルベルト・ノワールヴェイン公爵閣下は、聖環に関する緊急監査に入られました」
先頭の役人は、用意した文言を読み上げるように告げた。
「いつお戻りですの?」
「監査中につき、詳細はお答えできません」
「監査の場所は?」
「お答えできません」
「では、本人からの伝言は?」
役人の喉が小さく動いた。
……ありませんのね。
「併せて、公爵家の名証権を一時停止いたします。国家保安上の措置です」
差し出された書状を受け取る。
王家、教会、名録院。3つの印はいずれも、見覚えのある正式なものだった。これほど手際よく揃えられる組み合わせではない。
それなのに、肝心のものがない。
「お父様の署名は?」
「国家保安上の措置ですので」
「同じ言葉を繰り返さなくても聞こえていますわ。お父様は、ご自身の監査権の停止に同意なさったのですか?」
役人は書状に目を落とした。
「……詳細は追って通達いたします」
それで会話は終わったつもりらしい。
わたくしは書状を畳み、彼らの退室を待った。後ろ姿に問いを重ねても、答えが増えるとは思えなかったからだ。
扉が閉まるなり、書斎へ向かう。
父の机に書状を広げた。封蝋を爪の先でなぞり、紙を明かりに透かす。3つとも本物の印影。しかし、名録院の封蝋だけ、縁にごく薄い段差があった。
……剥がして、押し直した?
残留魔力を慎重に追う。下に、別の術式の線が眠っている。
印そのものは偽物ではない。だからといって、この書状に書かれたことまで真実とは限らない。
思わず暖炉へ目が向いた。
燃やす? まさか。
お父様なら、証拠を消すような真似をした時点で、事件より先にわたくしを叱るでしょうね。
書状を机の隅へ避けたところで、控えめなノックがした。
「お嬢様。こちらを」
老執事が銀盆を差し出す。
そこには、使い慣れた懐中時計が載っていた。
「昨夜、閣下をお乗せした馬車の座席の下から見つかったそうです」
父の時計。
蓋の縁には、わたくしが幼い頃につけた細い傷がある。勝手に触って落とし、こっそり戻したつもりで、あっさり見破られた日のものだ。
親指で蓋を開く。
針は動いていなかった。
午前0時13分。
「……故障でしょうか」
老執事の問いに答えず、裏蓋を返す。
金属の内側へ、細い針で文字が刻まれていた。
――西部第4霊脈区画。
――消えた者ではなく、残されたものを見ろ。
短い言葉なのに、思わず2度読んだ。
昨夜の封書。消えた213人。西部第4霊脈区画。
父は、そこに何かを残したのだろうか。
「馬車を用意してちょうだい」
「お嬢様。閣下は外出をお控えになるようにと――」
「存じています」
昨夜の父の声は、まだ耳にある。
邸から出るな。
けれど、何かあれば残されたものを確かめろ、とも。
どちらか一方だけを守ればよいという話ではないのでしょう、お父様。
「だからこそ、誰にも先を越されないうちに確かめたいのです。護衛も連れてまいります」
老執事はひと呼吸置き、静かに頭を下げた。
わたくしは時計を胸元へしまった。
◇
王都から西へ、馬車で半日。
森へ入る頃には、車輪が踏みつける泥の音さえ変わっていた。湿った轍が深くなり、木々の間から差す光は細くなっていく。
「この先がセレン村です」
護衛が道標を指した。
地図には確かに、そう記されている。
しかし、実物の道標に村の名はなかった。森へ伸びる矢印だけが残り、その下は木目を剥き出しにしている。
看板を塗り直したのかと思った。近づいてみれば違う。古い塗料のひびはそのままなのに、文字のあったはずの場所だけが、最初から何も書かれていなかったように滑らかだった。
指を離す。
……こういう消え方を、昨夜も見ましたわね。
村の入口で馬車を降りた。
軒先の洗濯物が揺れている。戸口には泥のついた靴が並び、井戸には真新しい縄が掛けられていた。畑の畝は崩れていない。通りを渡る風が、どこかの家の扉を、こと、こと、と叩いている。
なのに、誰も出てこない。
鍬を置いたままの畑。
桶に水を張ったままの井戸。
竈からは煙ひとつ上がっていなかった。
「……213人が、揃って夜逃げをなさったそうですわね」
護衛の返事はない。
最初の家の扉を押した。
乾いた木の軋みが、妙に大きく響く。
卓上には3人分の食器。煮込み料理は表面が黒く乾き、木匙が1本、床に落ちていた。椅子は倒れたまま。暖炉の上には家族の肖像画が掛かっている。
父親らしい男。母親らしい女。まだ幼い娘。
その下に、名を書き入れるための余白があった。
何もない。
わたくしは絵の端を光にかざした。
紙の表面に、削った痕がない。
「《アクアヴェール》」
指先に集めた水の魔力を、絵の下へ薄く這わせる。表面の凹凸が、濡れた紙に淡く浮かび上がった。
額縁を動かしたときの擦り傷。
古くなった紙の歪み。
それらは見えるのに、名前を書いた筆圧だけが見つからない。
……消したのではない。
書かれていた事実そのものが、抜け落ちている。
背中を汗が伝った。
墓地でも同じだった。
墓標には生没年が残っている。名だけがない。家の契約書には代金と日付があり、署名の欄は空白。村の学校に残された出席簿には、人数を数えた跡があるのに、肝心の子どもたちの名前がなかった。
誰かがここで暮らしたことは、消えていない。
ただ、誰だったのかが分からない。
父が時計に刻んだ言葉を思い返す。
――消えた者ではなく、残されたものを見ろ。
◇
学校には、小さな机が23台並んでいた。
黒板には、途中まで書かれた宿題。
――家へ帰ったら、今日あったことを一つ話すこと。
言われなくても、子どもたちは何かを話したでしょうに。
そんなことを考えてしまった。
机の端に、浅い傷で小鳥が彫られていた。
わたくしも昔、父の書斎机へ薔薇を彫ろうとして止められたことがある。
『家の紋章を増やしたいなら、紙に描け』
『机の方が長く残りますわ』
『お前の落書きとしてな』
『芸術です』
『署名しろ。責任を持つなら止めない』
結局、署名する勇気は出ずに諦めた。
今なら笑える。あのときの父は、わたくしが何を描こうとしたかよりも、誰が描いたのかを大切にしていたのだろうか。
小鳥の下に名前はなかった。
それでも、彫った子の手つきが見える気がした。ここを少し深く削りすぎて、羽を描く途中で刃が滑ったのかもしれない。
わたくしはその傷から手を離す。
この子が、昨日の宿題を誰に話したのか。
聞ける相手は、ここにはいない。
窓の外に、白い塔が見えた。
村の中央に立つ霊晶塔。王都の霊晶灯より太い支柱を持ち、台座からは地中へ何本もの導管が伸びている。
扉を抜け、石畳の広場へ向かった。
塔の足元には、荷車の轍が残っていた。雨水が溜まった溝は、森の方へ延びている。村へ運び込んだのではない。荷を載せて、外へ出た跡に見える。
塔の台座に手を添えた。
ぞくり、と指が冷えた。
霊晶片に触れた昨夜と似ている。
声ではない。映像でもない。
ただ、誰かが誰かを引き留めようとした気配が、息の詰まるほど濃く残っている。小さな手を放したくない。家への道を忘れたくない。呼び慣れた名を、最後まで口にしていたい。
――《記憶痕》。
これだけ密集しているのなら、自然に残ったものではない。塔の奥へ、押し込められている。
何人分なのかは分からない。
けれど、この村の人々と無関係だとは、とても思えなかった。
誰が、何のために。
答えを探して台座を回り込んだとき、森の奥から鐘の音がした。
1度。
2度。
3度。
遠い礼拝堂の鐘に似ていたが、音はあまりにも均一だった。
塔の表面に白い亀裂が走る。
「お嬢様! お下がりください!」
護衛の叫びに、わたくしは反射的に台座を離れた。
木立の間から、白い外套の男たちが現れる。
6人。
揃いの銀仮面。胸に所属を示す紋章はない。先頭の男が杖を上げ、その後ろで2人が左右へ散った。
道を塞ぐ位置。
……最初から、逃がすつもりがありませんのね。
「記録汚染を確認。区画を焼却する」
「お待ちなさい」
わたくしは塔を背にする。
「ここには、まだ人が残っている可能性があります」
「登録住民は0名だ」
「登録されていないことと、存在しないことは別ですわ」
「存在しない者に、保護権はない」
男の杖先が、迷いなく家並みへ向けられた。
その背後でも、杖が上がる。
話し合いに来たのではない。
わたくしは札入れに手を掛けた。
「《ファイアアロー》」
炎の槍が、通りへ走る。
火を消すなら水。けれど、ここで真正面からぶつければ、逸れた炎が家々へ散る。
……上へ。
補助札を1枚、空へ放った。
「《エアバースト》!」
札がほどけ、横殴りの風が炎を屋根の上へ押し上げる。
続けて2枚目を井戸へ投げた。
「《アクアジェット》」
井戸水が白い弧を描いて噴き上がり、押し上げた火槍にぶつかった。
熱い蒸気が一気に広場を包む。
視界は奪った。
……こちらの視界も、ですけれど。
足音。
右へ2人。正面から、1人。
蒸気の向こうで、短い詠唱が走る。
「《ストーンバインド》」
石畳が盛り上がり、土の鎖が足首へ絡みついた。
3枚目を足元に叩きつける。
「《ウィンドカッター》!」
鋭く絞った風が石鎖の継ぎ目を断つ。足を引くと、裂けた裾がふくらはぎを擦った。
あと数寸、遅れていたら足を持っていかれた。
蒸気が割れる。
目の前の男は、杖ではなく短剣を抜いていた。
わたくしは札入れの底に残した厚紙の束を握り、魔力を通す。硬くした紙の側面で刃を受け流すと、衝撃が手首に響いた。
……重い。
腕力で競えば負ける。
なら、刃の向きだけ変えればよい。
男の肘が外へ流れた隙に、手首を打つ。短剣が石畳へ落ちた。続けて足を払うと、銀仮面が地面にぶつかる鈍い音がした。
追撃はしない。
命令を実行しているだけの目だった。だからといって許せはしないけれど、殺す理由にもならなかった。
倒れた男を避けて、塔を見る。
蒸気の薄い向こうで、2人が家々へ火を放っている。
……では、残る3人は?
見えた。
塔の台座に身を寄せ、何かを刻んでいる。
赤い術式線。爆破用の起動印。
家を焼くのは、わたくしを塔から離すため。
最初から、こちらが本命だったのだ。
「塔です! 台座を守って!」
護衛が駆けだす。
だが、赤い線がひとつにつながった。
間に合わない。
塔が砕ければ、中に押し込められた《記憶痕》も失われるかもしれない。この村で何が起きたのか、確かめる手掛かりが――。
かつ、と小さな音がした。
爆ぜかけた塔の、足元から。
聞き違い?
もう一度。
石板の下で、何かが叩いている。
目を凝らすと、台座の隙間に細い指が見えた。
人がいる。
息が止まった。
塔に残る記録と、その下で生きている人間。
両方を守れる手は、もう残っていない。
……ならば。
わたくしは台座へ駆け戻った。
「こちらを! 下に人がいます!」
補助札は3枚とも使い切った。
掌を石板の隙間へ向け、直接、風の魔力を押し込む。
「《エアバースト》!」
術式が荒い。札で整えた時のようには広がらず、風が腕を逆向きに押し返した。
くっ……もう少し!
石板がわずかに浮く。
「剣を!」
護衛の1人が隙間へ剣身を差し込み、もう1人と力を合わせて持ち上げた。
土と埃が吹き上がる。
暗い穴の中に、身を縮めた少年がいた。
小さな肩を掴み、引き寄せる。
「走れますか!」
答えを待つ時間はなかった。
護衛へ少年を押し渡し、わたくしも飛び退く。
背後で、台座を走る赤い線が白く変わった。
「伏せて!」
護衛が土の障壁を立ち上げる。
「《アースウォール》!」
次の瞬間、世界が白く弾けた。
腹の底まで揺さぶる衝撃。砂利が頬を打ち、石の破片が障壁へ雨のように降り注ぐ。
少年を庇うように地面へ転がった。
咳き込んだ拍子に、口の中がざらつく。
耳鳴りの向こうで、何かが崩れる音が続いていた。
顔を上げる。
霊晶塔は、根元から失われていた。
白い欠片が、雨のように降っている。
銀仮面の男たちの姿も、いつの間にか消えていた。
わたくしは握り締めていた少年の肩から手を離した。
生きている。
それだけは、確かだった。
◇
少年は、10歳になるかならないかという頃合いだった。
泥の固まった茶色の髪。灰青色の瞳。何度も継ぎを当てた上着。首には、文字を削り取られた木札が下がっている。
「痛むところは?」
首を横に振る。
「お名前を教えてくださる?」
少年は口を開いた。
けれど、音にならない。
木札を握り締める細い指が、白くなった。
「……分からない」
「覚えていることだけで結構ですわ」
「お母さんが、いた」
少年が地面を見つめる。
「でも……顔が、分からない。名前も」
涙は出ていなかった。
そこが、胸に刺さった。
忘れてしまったというより、忘れたことさえ確かめられずにいる。そんな声音だった。
少年は手の中のものを、そっと差し出した。
小さな裁縫針。
根元に乾いた赤黒いものが付いている。
「これは?」
「……持ってろって」
誰に、と尋ねかけてやめた。
少年の手を開かせないように、針の先だけへ指を添える。
冷たさが走った。
針を持つ誰かの手。布を寄せる指。糸の引きつれ。小さな襟元を整える仕草。
知らないはずの温もりが、胸の奥へ滑り込む。
――《記憶痕》。
完全な記憶ではない。言葉と映像が整っているわけでもない。
それでも、何度も呼ばれた音だけが、形を失わずに残っていた。
『ルカ。あなたは、ルカ・アーレンよ』
誰かの声が、耳ではない場所に触れる。
縫い物をしていた手の温かさが、一瞬だけ戻った気がした。
わたくしはゆっくり息を吸った。
「ルカ」
少年が顔を上げる。
「ルカ・アーレン」
木札がかすかに温かくなった。
削られた面の奥で細い光が揺れ、木目に沿って文字の一部が浮かんだ。
少年は胸元を見下ろした。
「……僕の、名前?」
「ええ。その針に、あなたをそう呼んだ方の《記憶痕》が残っています」
「……お母さん?」
声が震えていた。
「縫い物をなさっていた方です。最後まで、あなたのお名前を呼んでいらっしゃった」
ルカは針を見つめた。
その方が母親なのか、いまどこにいるのか。わたくしにはまだ分からない。けれど、知らないことを埋めるために、この子の名前まで取り上げる理由はない。
わたくしは針を返す。
少年はそれを両手で包み込んだ。
「ルカ……」
自分で確かめるように、もう一度。
「……ルカ」
その頬を、ようやく涙が伝った。
ああ。
呼べる。
名前がある。
村の人々を救えたわけではない。塔も守れなかった。
それでも、この子の前で、何も残らなかったことにはしたくない。
わたくしは少年の目線まで膝を折った。
「ルカ。もう少しだけ、わたくしを信じてくださる?」
少年は針を握ったまま、小さく頷いた。
◇
夕刻、王都から早馬が到着した。
駆けつけた使者は、わたくしの前に跪いた。いつもなら公爵家の紋章を掲げる馬車が、今日は何の印もつけずに待っている。
「リゼリア様」
お嬢様でも、公爵令嬢でもない。
呼ばれ方が変わったことに、まず気づいた。
「アルベルト・ノワールヴェイン公爵が、聖環破壊および人体実験の容疑で拘束されました」
握っていた手袋が、小さく軋んだ。
「……どなたが、そのような罪状を?」
「西部第4区画の住民を用いた違法術式の証拠が発見されたと」
わたくしは崩れた塔を見た。
住民の名前が消えた村。
それを焼き払おうとした所属不明の兵。
そして、塔の下に隠されていた、たった1人の子ども。
誰かが順番を入れ替え、父を犯人に仕立てようとしている。
……いいえ。
そう決めつけてはいけない。
父は潔白だと信じている。けれど、わたくしが見たものと、まだ見ていないものは分けなければ。
「王命により、ノワールヴェイン家は即時封鎖。あなたにも王都への出頭命令が出ています」
使者の声が、やけに遠く聞こえた。
「分かりました。戻ります」
「リゼリア様」
ルカが、わたくしの袖を掴んだ。
「行っちゃうの?」
「ええ。でも、その前に、あなたを安全な場所へ移します。怪我の手当ても必要ですわ」
護衛に目を向ける。
「ルカの木札と針は、本人から離さないでください。村で見たことはすべて記録に残して。少年の名前も、必ず」
護衛が頷くのを確かめてから、ルカの手に自分の手を重ねた。
「……また消されたら?」
小さな問い。
今朝のわたくしなら、すぐに答えられただろうか。
名前さえ取り戻せば大丈夫だ、と。
そんな約束を、もう軽々しく口にしたくなかった。
「そのときは、わたくしがもう一度呼びます」
ルカは俯いたまま、頷いた。
わたくしは立ち上がり、馬車へ向かった。
◇
夜更け。
車輪が石畳の道へ戻る頃、外の街路には王都の白い灯が見え始めていた。
父の懐中時計を開く。
止まった針は、午前0時13分を指したまま。
裏蓋の刻み目を、指先で追う。
西部第4霊脈区画。
消えた者ではなく、残されたものを見ろ。
その下に、もうひとつ、小さな傷があった。
白い王の駒に似ている。
……わたくしに気づかせたかったのかしら。
単なる傷かもしれない。意図があったとしても、父に聞くまでは分からない。
けれど、今朝あの時計を手にしたときと、同じ場所で指が止まった。
王都に戻れば拘束されるだろう。
逃げれば、父を救う手がかりを調べる時間は稼げるかもしれない。けれど、父が何をしたのか、王国が何を証拠としているのか、わたくしの目では確かめられない。
……どちらも、気に入りませんわね。
選ぶべきなのは、逃げるか、従うかではない。
何を見て、何を記録し、どこで相手の言葉を覆すのか。
今朝の父の手は読めなかった。
ならば今度は、相手の盤面から調べてみせる。
「お父様」
声に出すと、車輪の響きに紛れて消えた。
「勝負は、まだ終わっておりませんわ」
時計を閉じる。
王都の門が見えてきた。
白い光の下に、衛兵たちの影が並んでいた。
その誰もが、こちらの馬車を待っているように見えた。




