第2話 白い灯の下で(後編)
答えを探しているうちに、窓の向こうが白く弾けた。
遅れて、腹の底を殴りつけるような破裂音。
「っ……!」
馬が甲高くいななき、車体が横へ跳ねる。肘掛けに伸ばした指が空を切り、肩から窓枠へぶつかった。革張りの座席を滑りかけたところで、馬車が急停止する。
耳の奥で、高い音が鳴り続けていた。
「閣下、お嬢様! 外へ出られませんよう!」
御者台から護衛の声が飛ぶ。
父は膝の報告書を閉じた。窓の外を一度見ただけで、表情が変わる。
「リゼリア。ここにいろ」
「中央市場の霊晶灯ですわね?」
「まだ決まったわけではない」
では、確かめればよろしい。
そう口にする前に、焦げた匂いが扉の隙間から入り込んだ。
わたくしは取っ手へ手を掛ける。
「お嬢様!」
「近づきません。何が起きたかを見るだけですわ」
父の返事を待たずに扉を開いた。冷たい夜気が頬を打つ。その中に、焼けた金属と濡れた石の、鼻の奥を刺すような臭いが混じっていた。
中央市場の広場。
人垣の向こうで、新設された霊晶灯が異様な白光を放っていた。淡青色であるはずの霊晶が白く濁り、黒鉄の支柱に刻まれた術式線が赤く明滅している。
露店の天幕が震えた。
誰かが倒した籠から果実が転がり、石畳にぶつかって潰れる。それでも店主は拾おうとしない。皆、灯りの根元を見ていた。
そこに男が倒れている。
煤のついた灰色の作業着。節くれ立った手。腕に嵌められた金属環から赤い火花が散るたび、身体が跳ねた。
あれは保守担当者の《認証環》。本人の公名と作業権限を照合する器具だ。
……おかしい。
整備を許された人間が、自分の管理する霊晶灯に拒まれている?
「お父さん!」
人垣を割って、小さな少女が駆け出した。
栗色の髪を短く編み、擦り切れた黄色い上着を着ている。大人たちの間をすり抜ける身体は、驚くほど細い。
少女の行く先で、霊晶が膨れ上がった。
白い術式線が、支柱の頂へ一斉に駆け上がっていく。
先ほどの衝撃波と同じ前兆。
距離は――間に合う。
腰の札入れから、補助札を1枚引き抜いた。術紙の角が指の腹を擦る。自分で書き込んだ薔薇の術式線に、瞬時に魔力を流し込む。
「伏せなさい!」
走りながら札を放った。
少女と霊晶灯の間で術紙が開き、深紅の薄い障壁を張る。
その直後、白い魔力が激突した。
耳を刺す音。赤い膜に亀裂が走る。薔薇の花弁が裂けるように術式線がほどけ、一撃で札が燃え尽きた。
くっ……1枚では、持たない!
それでも、ほんの一拍は稼げた。
わたくしは少女の肩を抱き込み、石畳へ身を伏せた。膝が硬い地面に打ちつけられる。背中の上を、熱い風が通り抜けた。
髪の先で、何かが焦げる匂いがする。
「怪我はありませんか?」
「お父さんが……お父さんが!」
少女はわたくしを見ない。逃げようとしたのではなく、倒れた男のもとへ行こうと、まだ腕を伸ばしていた。
「今は動いてはいけません」
「でもっ……!」
言い聞かせる声が、自分でも腹立たしいほど無力に聞こえた。
男の認証環は火花を散らし続けている。近づけば少女まで巻き込まれる。けれど、あのままでは男がもたない。
どう止める?
灯りの基盤を壊す? 駄目。過負荷になった霊晶がどう弾けるか分からない。
認証環だけを外す? それも、術式が流れている最中では――。
「名は」
父の声がした。
護衛に周囲を警戒させながら、男の少し手前へ膝をついている。認証環の火花を避け、手を伸ばせる位置を見極めていた。
「この男の名前だ。誰か知らないのか」
周囲にいた作業員たちが、互いの顔を見合わせる。
「同じ班の者ですが……」
ひとりが口を開き、そこで止まった。
「……あれ? 名前は、何だった?」
「おい、昨日も一緒だったろ」
「知ってるんだ。顔も、声も……なのに」
男たちは、何かを探すように唇を動かした。
誰も答えない。
同僚の名前を、誰ひとり。
冷えた夜気が、破れた手袋の隙間から入り込む。けれど指先が冷たいのは、そのせいだけではなかった。
先ほどの213人が頭をよぎった。
帳簿から名前が消えた人々。
これは、その逆ではないのかしら。
記録だけでなく、人の口からも、名前が奪われていく。
倒れた男が喉に手を当てた。
「わ、私は……」
認証環が赤く光る。
「エ……エド……」
言葉が途切れ、身体が痙攣した。
「エドガー!」
わたくしの腕の中で、少女が叫んだ。
「エドガー・ミルン! わたしのお父さんだよ!」
霊晶灯の明滅が止まった。
ほんの一拍だった。
支柱を走る赤い術式線が淡青色へ変わり、認証環の締めつけが緩む。倒れた男が一度、大きく息を吸った。
……通った?
少女の声に反応したのですか?
だが、次の瞬間には赤い光が戻っていた。
『登録名、不在』
金属同士を擦ったような声が、広場に響く。
『該当する公名は存在しません』
男が、また石畳の上で跳ねた。
「違うもん!」
少女がわたくしの腕を振りほどきかける。
「お父さんはここにいるもん!!」
いますわ。
わたくしにも見えている。
煤で汚れた頬も、血の滲んだ手首も、息をするたびに上下する胸も。
それなのに、灯りは彼を「存在しない」と告げた。
誰のための認証ですの。
人が、そこにいるというのに。
父が右手を掲げた。
公爵家の指輪に刻まれた黒薔薇が、赤褐色の光を帯びる。
《名証印》。名と本人との結びつきが正しいかを照合する、我が家の監査術式だ。
「エドガー・ミルン」
父が、はっきりと呼んだ。
「王都霊晶灯保守組合、中央市場第3班所属。娘ニナ・ミルンの父。17年間、同じ公名で労働契約を更新している」
指輪から細い光が伸び、男の認証環と支柱の術式線へ絡みついた。
空中に、光で描かれた文字が浮かぶ。
雇用契約。
納税履歴。
住居の契約書。
娘、ニナ・ミルンの出生証明。
ある。
確かに、ある。
わたくしは光の文字を追った。職場の記録、住居の記録、親子の記録。作られた場所の異なる証明が、すべて同じ男を指している。
ならば、この人は何者でもない誰かなどではない。
エドガー・ミルンだ。
なのに、霊晶灯の認証だけが彼を拒絶している。
《名核》まで失われたのか、それとも接続のどこかが断たれたのか。講義で習った知識をいくら並べても、目の前で起きていることには届かない。
「認証を停止しろ」
父の低い声と同時に、指輪の光が狭まった。
支柱を走る術式線がひとつずつ消え、霊晶灯が落ちる。認証環の赤い火花も途絶えた。
急に暗くなった広場で、誰かが泣き出す。
露店の奥から、落ちて割れた皿の音がした。それを合図にしたように、人々のざわめきが戻ってきた。
「……ニナ」
男が、かすれた声を出した。
「お父さん!」
少女が駆け寄り、父親の胸にしがみつく。
焼け焦げた認証環の内側で、深紅の小さな光が一度だけ瞬いた。
ニナが父の名を叫んだ時と同じ、かすかな揺らぎ。
先ほど同僚は名前を言えなかった。それでも、この子だけは呼んだ。父も娘の名に応えた。
わたくしは、その小さな光から目を離せなかった。
「公爵閣下」
人垣の向こうで、白い法衣が揺れた。
聖オルディア教会の銀環紋。
監察官たちが、護衛の間を抜けて進んでくる。
「此度の認証異常は教会の保安案件です。その身元不明者を引き渡していただきたい」
身元不明者。
今、父は彼の名前を呼び、17年分の記録まで示したというのに。
「異常を起こしたのは、この男ではない」
父が立ち上がった。
「あなた方の管理する霊晶灯だ」
「名録院の中央記録に公名が存在しない以上、身分詐称の疑いがあります」
「私の《名証印》で確認した契約と出生証明はどうする」
「偽造された可能性もございます」
「ならば、公開監査を行え」
監察官の口元から、薄い笑みが消えた。
「……公爵家の権限を越えております」
「名証の監査権を王家から委ねられた家に、照合を求める権限がないと?」
「本件は《聖環》の保安に関わります。通常の手続きでは――」
「私は、手続きの話をしている」
それまでよりも静かな声だった。
監察官の靴先が、石畳を半歩擦った。
わたくしは父の手元を見た。指輪の光は、もう消えている。
魔術で脅しているわけではない。
「連れていくなら、誰の命令によるものかを記録に残せ。その者の公名を私の監査帳簿へ刻もう」
「それは……」
「名乗れるな?」
監察官は答えなかった。
市民たちが、父と監察官を交互に見ている。
ここで命令者を明らかにすれば、エドガーを連れていこうとした責任の所在が残る。名乗らずに連行すれば、権限を示せなかった事実が残る。
相手が持ち出したのは、国家の保安。
父が問うたのは、その名を使って命令した者の責任。
……ああ。
朝の食卓が、不意に胸をよぎった。
『盤の外側をも見る目を持て』
目の前の盤面で勝とうとしていない。
相手が立っている場所そのものを、問うているのだ。
「……後ほど、正式な通達をお送りいたします」
「待っている」
白い法衣が人垣の向こうへ去っていく。
父は護衛たちに、エドガーとニナを公爵邸の別棟へ移し、治療を受けさせるよう命じた。
ようやく立ち上がると、膝がひりついた。
足元に、補助札の燃え殻が落ちている。
拾い上げた端が、指の間で灰になった。細かく描いた薔薇の線は、もう形もない。
あと1枚、用意していれば。
もっと早く、あの子を安全な場所へ――。
「リゼリア」
父の声に、顔を上げた。
「怪我は」
「大したことはございません。……お父様」
「何だ」
「エドガーさんの《名核》を切り離したのは、名録院でしょうか」
「分からない」
「ですが、あの監察官たちは、最初から知っていたように……」
「憶測でものを言うな」
「……はい」
思わず唇を噛む。
反論したい。けれど、あの者たちの思惑を裏づける証拠は、まだひとつも持っていない。
「ただし、見たことまで疑う必要はない」
「見たこと、ですか?」
父は、エドガーとニナの方を見た。
少女はまだ父親の袖を掴み、何度も名前を呼んでいる。
「娘が父の名を呼んだときだけ、術式は迷った」
はい、と答えようとして、やめた。
わたくしは、消えた記録のことばかり考えていた。
父は、記録が否定しきれなかったものを見ている。
握っていた燃え殻が崩れ、掌に黒い粉が残った。
◇
公爵邸へ戻った頃には、夕食がすっかり冷めていた。
銀の蓋を外すと、肉料理の脂が白く固まっている。温め直してもらう間、果実のタルトだけが、手つかずのまま食卓に残された。
「お父様が遅いからですわ」
「暴走したのは霊晶灯だ」
「霊晶灯は、わたくしと夕食の約束をしません」
「私もしていない」
「今朝、帰ったら盤の続きをすると」
「あれは盤上の話だ」
「食事を抜いてよい理由にはなりませんわ」
父の皿へ、温め直された肉を取り分ける。
「娘に食事を監督される年齢ではないのだが」
「今朝は、わたくしがパンの皮まで監督されましたもの」
「必要なことだった」
「こちらも必要です」
父が小さく息を吐き、ナイフを取った。
ひと口食べるのを見届けてから、わたくしも自分の席に戻る。
いつもの食卓。
朝と同じ人が、向かいにいる。
なのに、ナイフを動かす指は、なかなか思いどおりにならなかった。
別棟では、エドガーとニナが診察を受けている。手首を焼かれたあの人が、明日も娘の名を呼べますように。
……名前を呼ぶ。
あの時、ニナの声だけが、霊晶灯をほんの一瞬止めた。
「お父様」
「何だ」
「誰も名前を思い出せなくなったら、その人は別人になってしまうのでしょうか」
父はすぐには答えなかった。
代わりに、タルトの銀蓋を持ち上げる。甘い果実の匂いが立ち、切り分けた一片がわたくしの皿へ置かれた。
「お前は、どう思う」
「記録は必要です。契約にも、財産にも、相続にも」
「それは、制度の話だ」
「……ニナさんは、記録にない名前を呼びました。あの方を自分の父だと、少しも疑わずに」
「そうだ」
「ならば、名前は帳簿の中だけにあるのではないのでしょうね」
「それも、ひとつの答えだ」
「それも?」
父は、食卓の端に残されたチェス盤へ目を向けた。
「誰かが呼ぶ。本人が応える。明日も同じように呼ぶ。その積み重ねを、紙一枚で消せると思うか」
思い浮かんだのは、認証環の赤い火花だった。
「……消そうとしている人が、いるのですか」
「そこまでは分からない」
父は迷わず言った。
分からない、と。
都合のよい答えをくれない人だ。けれど、今日ばかりは、その慎重さが胸に残る。
「ただ、名を奪うなら、記録から手をつけるのが早い。次に呼ぶ人間を遠ざければ、確かめ合う機会も失われる」
父の手が、盤上の白い王を動かした。
こつり。
朝、わたくしが仕掛けた王手から、一歩だけ逃れる手。
……逃げられましたわね。
もちろん、まだ終わってはいない。
「今夜、王都評議会へ?」
「ああ」
「明朝では、いけませんの?」
「明日には残っていない記録があるかもしれん」
その言葉に、タルトへ伸ばしかけた手が止まった。
白い霊晶灯の下で、確かに人が倒れていた。
それでも教会の監察官は、あの人を身元不明者と呼んだ。
213人の名が消えた帳簿も、いずれ、なかったことにされるのかもしれない。
父は椅子を離れ、老執事から黒い外套を受け取った。
襟元の黒薔薇の留め具が、僅かに曲がっている。
わたくしも立ち上がり、金具を直した。銀の鎖が指先に冷たい。
「曲がっていますわ、お父様」
「人目につかない場所だ」
「見えないところを確かめるのが、ノワールヴェインの仕事なのでしょう?」
父の手が上がった。
何をなさるのかと思う間に、肩へ落ちていた髪の一房を、そっと背中へ払われた。指先の温もりは、すぐ離れた。
「……帰ったら、盤の続きを」
「お前の番だ」
「次こそ、白い王の逃げ道を塞いで差し上げますわ」
「まずは盤の外も見ろ」
「分かっております」
……本当に分かったと認めてもらうには、まだ足りないのでしょうけれど。
父が玄関へ向かう。
扉の隙間から、夜の冷気と霊晶灯の白い光が差し込んだ。
「お父様」
振り返った父へ、もうひとつだけ。
「タルト、残しておきますわ」
「お前ひとりで食べても構わない」
「嫌です。お父様と食べます」
父は、ほんの少しだけ笑った。
「では、戻る理由が増えたな」
わたくしが返事をするより早く、廊下の奥から駆け足の音がした。
「公爵閣下! 急ぎの封書が!」
使用人が銀盆を抱えて現れる。
差出人の公名は、どこにもない。
白い封蝋に刻まれているのは、王家の紋章でも教会の銀環紋でもない、見慣れない王冠だった。
「開けるぞ」
「ええ」
父が封を切る。
羊皮紙には、たった3行。
――西部第4霊脈区画。
――旧住民数、213。
――現在登録数、0。
馬車の中で聞いた数字と同じ。
わたくしは思わず父の顔を見た。
「……これだけですの?」
父が紙を引き抜いた、その時だった。
封書の底から、チリン、と硬い音がした。
銀盆の上に落ちたのは、爪ほどの小さな霊晶片。
淡く曇った表面に、何本もの細い傷が入っていた。
「触るな、リゼリア」
鋭い声が飛んだ。
けれど、わたくしの指先は、もうその欠片に触れていた。
「――っ!」
冷たい。
石の表面が冷えているのではない。触れた指の、もっと内側から熱が引いていく。
慌てて手を離したのに、冷たさが残った。
胸の奥へ、沈んでいく。
誰かがいる。
顔は見えない。声も聞こえない。何をされたのかさえ分からない。
ただ、手を放すまいとする気配だけが、指の感覚に絡みついていた。
小さな手を握ったこと。
同じ名前を、何度も呼んだこと。
その人が、目の前からいなくなるのを恐れたこと。
わたくし自身の思い出ではない。
……《記憶痕》。
人が誰かを覚え、呼び合い、共に生きた痕跡が、魔力へ残ることがある。映像のように再生できる記憶ではない。それでも、確かに誰かが誰かを求めた、その名残。
授業で習ったはずだった。
こんなふうに、冷たさまで伝わるなんて。
『――名前を、消さないで――』
聞こえた、と感じた。
けれど音ではない。耳ではなく、胸の奥で、誰かが必死に口を動かしたような――。
「リゼリア」
父に呼ばれ、息を吸い込んだ。
いつの間に止めていたのか、自分でも分からなかった。
「……お父様。今のは」
「戻ってから聞こう」
父は厚い布で霊晶片を包み、封書ごと外套の内側へ収めた。
「行ってしまわれるのですね」
「ああ」
父は、わたくしの手を見た。
「指は」
「……大丈夫ですわ」
そう言うと、父は一度だけ頷いた。
「邸から出るな。何かあれば、まず残ったものを確かめろ」
「はい」
それが何を意味するのか、今はまだ分からない。
玄関の大扉が開き、白い灯の中へ父の背が消えていく。
父の足音を追うように、しばらくその場に立っていた。
◇
食堂へ戻ると、タルトは銀蓋を被ったまま残っていた。
皿の縁に、わたくしの指の跡がついている。いつもなら使用人が片づけてしまうものなのに、今夜は誰も手を伸ばさなかったらしい。
隣には、父とのチェス盤。
黒い女王。
一歩逃れた白い王。
手を伸ばせば、次の一手を指せる。
わたくしは盤の前に立ち、白い駒を見つめた。
――次は、お前の番だ。
父の声が、まだ耳に残っている。
指先を持ち上げる。
けれど、黒い女王には触れなかった。
続きを指すのは、父が戻ってから。
温め直してでも、一緒にタルトを食べるのだ。
そう決めて、銀の蓋をそっと戻した。
食卓の端で、白い王はまだ盤の上に立っていた。




