第1話 白い灯の下で(前編)
「お父様。いくら何でも、今朝の紅茶は濃すぎますわ」
繊細な彫刻の施された銀の匙で、琥珀色の紅茶を一度だけかき混ぜてみる。
当然ながら、色は薄くならない。匙に触れた磁器が、ちりん、と小さく鳴った。
ひと口含めば、渋みが舌の奥に居座ったまま離れない。昨日とは正反対の出来栄えだ。
向かいの席に座る父――アルベルト・ノワールヴェインは、朝刊と分厚い監査報告書を同時に広げ、こちらを見ようともしなかった。
「昨日は薄いと文句を言っただろう」
「昨日は薄すぎましたの。ですが、今日のはまるで救護院で出される滋養薬のようですわ」
「注文の細かい娘だ」
「毎朝同じ一級の茶葉を使いながら、毎朝これほど違う味を演出する方が、よほど高度な技術が必要ですけれど?」
新聞の陰で、父の厳格な口元がわずかに緩んだ。
見逃しませんわよ、その程度の変化。
漆黒の髪のこめかみには、いつの間にか銀色が増えている。ようやく上げた赤褐色の瞳は相変わらず鋭く、娘の小言など監査すべき不備のひとつとでも思っていそうだった。
せめて朝食の間くらい仕事を忘れていただきたい。もっとも、この鉄の政務官にそれを望むのは、少々酷というものかもしれない。
とはいえ、こちらも人のことばかり言えない。
大理石の食卓の端には、昨夜から勝負を持ち越したチェス盤が置かれている。
白い王と、黒い女王。
いま、わたくしの黒い女王は、父の白い王の首に刃を届かせるまで、あと僅か2手の位置に迫っている。
……少なくとも、わたくしの読みでは。
その2手を頭の中で並べ直しているうちに、父は監査報告書を3枚もめくり終えてしまった。こちらが何時間もかけて築いた包囲網を、あの人は指先ひとつで崩してしまうことがある。
だからこそ、今度こそ勝ちたい。
「食事の席にまで、その忌々しい書類を持ち込まれるのですか?」
「お前もさっきから、視線で盤面をなぞっている」
「これは親子の、高尚な会話の呼び水ですわ」
「ずいぶんと無言の時間が長い会話だな」
「お父様がその紙の束を閉じれば、わたくしはいくらでも喉を鳴らしますわ」
父は、手元の報告書を1枚だけ、これ見よがしに閉じた。
ぱたり。
わざわざ音を立てるところが、実に腹立たしい。
「1枚では、わたくしの寂しさを埋めるには到底足りません」
「これでも最大限の譲歩だ」
「お父様の辞書にある『譲歩』は、天秤の誤差の範疇のようですわね」
父は返事の代わりに紅茶を口へ運んだ。少なくとも、渋すぎるとは言わなかった。
そのとき、老執事が焼きたての白パンと半熟卵を運んできた。
白パンの香ばしい匂いが、書類の紙とインクの匂いを一瞬だけ押し退ける。老執事は父娘の言い合いに眉ひとつ動かさず、いつもの位置へ皿を置いた。毎朝のこととはいえ、見事な無関心である。
わたくしはパンを半分に割った。
ふわりと湯気が立つ。中身は柔らかく、焼き目のついた外側だけが少々手強そうだ。
その硬い皮をナイフでそっと切り分け、皿の端へ寄せる。
紙の擦れる音が止まった。
「残すな、リゼリア」
……見ていらっしゃったのね。
「硬いのですもの。顎が疲れてしまいますわ」
「午後の魔術講義で、栄養不足のために倒れるよりましだ」
「講義で倒れたことなど、ただの一度もございません」
「お前が13歳の初夏に、一度ある」
「あれは空腹のせいではなく、招聘された教官の説明が、あまりにも眠気を誘う退屈なものだったからですわ」
「当時の医師の診断書には『低血糖』とあるが」
「王都の医師という生き物には、もう少し風雅な情緒が必要ですわね」
父は何も言わず、わたくしの皿を見た。
こういうときに限って、監査官の眼差しになるのは卑怯だと思う。
結局、皮まで口へ運ぶ。ぱり、と乾いた音がした。よく噛めば香ばしい。……認めたくはないけれど。
父は満足したとも、褒めるとも言わず、また書類へ視線を落とした。
そういう人なのだ。
心配を優しい言葉にする代わりに、皿の上のパンを見張る。
出来を褒める代わりに、今より難しい課題を寄越す。
危険だから外へ出るなとは言わず、逃げ道を3つ考えさせる。
17歳にもなって朝食まで監督されるのは、淑女として少々不本意ですけれど。
「ところで、本日の王都視察には、わたくしも同行させていただけるのですね?」
「中央市場に新設された霊晶灯を見せる」
「灯りでしたら、毎晩見ておりますわ」
「では、その灯りをともす魔力は、どこから来る?」
「霊脈から――」
答えかけて、口を閉じた。
……違う。父が訊いているのは、そんな教科書の一行ではない。
霊晶灯は、霊晶に蓄えた魔力を光へ変える公共の魔導灯。王都の通りに並ぶ白い光も、国を守る巨大な結界《白冠》も、霊脈をはじめとする魔力の供給で支えられている。
その程度なら、初等講義でも習う。
では、中央市場に立つ1本の霊晶灯へ、魔力はどんな経路で運ばれるのか。途中で何が制御し、誰が管理しているのか。
そこまで考えた途端、わたくしの知識は霧の中へ消えた。
《白冠》が《灰触》を防いでいることなら知っている。海の向こうの国々が、我が国との往来に慎重である理由も。
けれど、自分の足元を照らす灯りの仕組みすら、最後まで説明できない。
父が報告書をめくる。
何も言われないのが、かえって悔しい。
「……そういえば、今週の社交会への招待状が3通届いておりますけれど」
「公共の灯りの構造を学ぶ方が、お前の将来に役立つ」
「あら。お父様は、ご自身の愛娘の縁談を少しも心配なさらないの?」
「婚姻届に署名する際、相手が自分の公名を震えずに書けるかは確認する」
「……まぁ。我が公爵家の婿選びは、ずいぶんと基準が低いのですわね」
「悲しいかな、その程度も満たせぬ者が多い」
思わず吹き出しかけ、ナプキンで口元を押さえた。
この人は平然とひどいことを言う。
けれど、こちらばかり笑わされるのは癪だ。
わたくしはチェス盤へ手を伸ばし、昨夜から狙っていた位置へ黒い女王を滑らせた。木の駒が盤に触れ、こつりと鳴る。
「チェック。王手ですわ、お父様」
父の指が止まった。
ほんの一瞬、盤の上へ赤褐色の目が走る。
さあ、どう受けますの? 王を逃がしても、その先には――。
「市場から帰宅した後に、続きをやろう」
「途中で逃げずに、ちゃんと戻ってきてくださいね?」
「王とは、本来、生き延びるために逃げるものだ」
「盤の外へ逃げ出すのは、明らかなルール違反ですわ」
父は白い王の頭に、人差し指を軽く添えた。
「ならばリゼリア、盤の外側をも見る目を持て」
……ああ、また始まりましたわ。
「盤の上にあるものだけが、選択肢のすべてとは限らない。相手が何を守り、何を失いたくないのか。そこまで見て、初めて次の一手を選べる」
それなら、いま盤を離れるお父様は何を守っていらっしゃるのかしら。
口にしかけて、やめた。
父の視線はもう報告書へ戻っていた。わたくしにはまだ見えない何かが、紙面の上にあるらしい。
少々悔しいけれど、勝負はお預けだ。
◇
中央市場へ向かったのは、日がすっかり落ちてからだった。
王都グランヴァルトの夜は、どこまでも白い。
磨かれた馬車の窓から、霊晶灯の光が滑り込む。車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、革張りの座席が小さく揺れた。外には焼き菓子を売る店の最後の呼び声。歩行者の靴音。閉まりかけた店の戸が、遠くで軋む。
けれど、ここで育ったわたくしにも、この白さはときに不思議に見える。
貴族街では、黒鉄の支柱が10歩ほどの間隔で立っている。装飾の多い門扉も、庭木の枝先も、夜とは思えないほど鮮明だ。
中央市場に近づくと、灯りは30歩ほどごとに1本となった。光が途切れるたび、通行人の顔が闇へ沈み、次の灯りの下でまた現れる。
さらに城壁寄りの道では、白い霊晶灯が減り、代わりに獣脂の炎が揺れるという。
同じ夜なのに、場所によってこれほど違う。
「……まるで、灯りにも身分があるようですわね」
独り言のつもりだった。
けれど父は、膝の上の書類から顔を上げずに答えた。
「身分ではない。支払った税の額だ」
「払えぬ者は、暗い道を歩けと?」
「そう聞こえるように仕組まれている」
馬車が、石畳の窪みを越えた。
父の書類がかすかに揺れる。その端を押さえた指が、ある場所で止まった。
「西部第4霊脈区画。昨年の登録住民は213人」
脈絡のない数字に、わたくしは窓から父へ目を移す。
「今年は、何人になりましたの?」
「0だ」
聞き間違えたかと思った。
「……0? 疫病か、あるいは《灰触》が?」
「死亡届は1件もない。転居届も同じだ。家屋と土地は記録に残っている」
「では、なぜ……」
「住民の公名だけが、帳簿から消えた」
膝の上で組んでいた指に、知らず力が入った。
213人。
子どもも、大人もいただろう。家が残っているなら、その扉を開け、食卓を囲んだ人たちがいたはずだ。
それが、たった1つの数字――0に置き換わっている。
「全員が示し合わせて夜逃げした、とでも?」
「名録院の公式見解ではな」
父は書類を閉じなかった。
ただ、紙面を押さえる指だけが、少し強くなっていた。
怒っていますわね。
先ほどまで税の話をしていたときとは、声の重さが違う。
では、何をお疑いなのですか。
そう尋ねようとして、言葉を飲み込む。
父には、わたくしの知らない情報がある。だからこそ、まず自分で確かめたい。帳簿に残る家と土地を見れば、何が分かるのだろう。
窓の外を、ひとりの少年が走り抜けた。
白い灯の下で誰かに呼ばれ、少年は振り返る。次の角へ消えるまで、その声に笑いながら応えていた。
――あの子の名前が、明日、帳簿から消えたなら。
今しがた見た笑顔まで、なかったことにされるのだろうか。
わたくしは、父の指先が押さえた数字をもう一度見た。
213人。
その人たちは、本当にどこへ行ってしまったのか。




