第0話 近づけない国
四つの大陸に、幾つもの国が栄える世界。
そのなかで、人々が訪れたいと願いながら、容易には近づけない王国がありました。
本編に先立ち、まずはその世界の一端をお届けします。
「いつか、ヴァルトグレイズへ行ってみたい」
若い職人がそう言ったとき、師匠は返事をしなかった。
金槌の音が、ひとつ遅れて止まる。
焼けた金属の匂いが、冷えた朝の空気とぶつかった。炉の前に並ぶ工具は、どれも握り込まれたところだけ艶が剥げている。煤で黒ずんだ作業台の上では、掌ほどの魔導灯が、点いたり消えたりを繰り返していた。
「……また消えた」
「術式を疑う前に、接点を見ろ」
師匠の指先が小さな留め具を弾く。乾いた音がして、魔導灯に青白い光が戻った。
「向こうの魔導師なら、こんなの一息で直すんでしょうか」
「知らん。見たことがない」
「だから見に行きたいんですよ」
若者は灯を持ち上げた。手の中で、光がかすかに震える。
ここはヴィム大陸、魔導工房大国タキオーン。
首都フォルトナの朝は、工房の扉が開くより先に始まる。通りを一つ隔てれば、別の炉が唸り、職人たちの槌が違う拍子を刻んでいた。失敗した部品を溶かし直す者もいれば、たった一本の線を刻むため、夜を明かす者もいる。
技術は、使う人間の手に渡って初めて役に立つ。
そう信じる職人たちにとって、魔導と祈祷の双方を発展させた遠い大国は、いつか自分の目で確かめたい場所だった。
「行けるようになったら、何を見せてもらおうかな」
「まず自分の灯を完成させろ」
師匠は再び金槌を握った。
若者も笑って工具を手に取る。
海の向こうへ渡る日が、いつになるのかは分からなかった。
◇
ルクス大陸、ルクセリア王国。
小国の首都ルクセリアでは、焼きたてのパンの匂いが朝の市場を抜けていた。
店先に積まれた籠。釣り銭を数える指。開いたばかりの扉からこぼれる、昨夜の炉の温もり。荷車に道を譲った母親が、幼い子の手を引き直す。
「ねえ、あの国って、そんなに遠いの?」
子どもが指したのは、露店の軒に掛けられた地図だった。
大きな海の向こうに、聞き慣れない国々の名前が並んでいる。ひときわ指が止まったのは、ルシフェル大陸のヴァルトグレイズ王国。
「遠いわね」
「船で行ける?」
「船があれば、どこへでも行けるわけじゃないのよ」
母親はそう答え、紙袋からまだ温かいパンを半分に割った。子どもは受け取ったそれをひと口かじり、もう一度地図を見る。
「じゃあ、嫌われてるの?」
「いいえ。違うわ」
母親の声は静かだった。
ルクセリアは、広い領土や膨大な軍勢を誇る国ではない。けれど、朝になれば市場が開き、夕方には人々が家へ帰る。その何でもない日々が続くことに、この国の強さがあった。
ほかの国と話し、学び、行き来したいと望むのも、同じことだった。
ただ、その願いを急いではいけない相手がいる。
◇
トウィンク大陸。
グロウ帝国の首都スパークルでは、夜明け前から軍靴の音が響く。
冷え切った訓練場に号令が走り、整列していた兵士たちの足が一斉に止まった。革帯の軋み。金具の触れ合う音。吐く息だけが白く、揃わずに漂う。
軍事大国グロウ帝国。
その力を支えるのは、剣の鋭さばかりではない。装備を磨き、隊列を整え、命令を待つ人間がいる。強い軍勢を持つことと、いつでも戦を始めることは同じではなかった。
訓練を終えた兵士が、折り畳まれた大陸図へ目を落とす。
「ヴァルトグレイズは、今も往来が難しいままですか」
「そうだ」
「帝国にも、あの国と交流したい者はいるでしょうに」
上官は地図を広げ直した。
「向こうも、こちらを拒んでいるわけじゃない」
紙の上では、海も国境も一本の線にすぎない。
しかし、その線を越えた後に何を持ち帰ることになるのか――そこまで地図は教えてくれない。
「軍を動かせば、国境を越えられるかもしれん」
上官の指が、自国の首都スパークルの名を押さえた。
「だが、兵が帰ってくる先も、ここだ」
訓練場の外から、街が目覚める物音が聞こえていた。
兵士は地図の上の指を見つめ、それきり口を閉ざした。
グロウ帝国は、ヴァルトグレイズへ軍を向けなかった。
兵を出せないのではない。あえて出さないのだ。
◇
《灰触》。
その名を聞くと、人は灰色の煙や、土埃を思い浮かべるかもしれない。
だが、それは煙のように払えば消えるものではない。
土地を蝕み、命を変質させる災厄。
ヴァルトグレイズは、それを外へ広げまいとしていた。
他国の使節を迎えたくないわけではない。
知識を分かち合うことを嫌っているわけでもない。
近づくことが、相手の故郷まで脅かすかもしれない。
だから、望まれる交流を望むままには増やせなかった。
大陸を隔てた国々も、その事情を理解していた。
行きたい。迎えたい。話してみたい。
その願いを捨てたわけではない。
ただ、手を伸ばすことで相手を傷つけるのなら、今はまだ、伸ばさない。
そんな距離が、世界にはあった。
◇
ルシフェル大陸、ヴァルトグレイズ王国。
その王都グランヴァルトでは、夜になっても街路が白く輝く。
魔導と祈祷が発展した大国の中心。黒鉄の支柱に据えられた霊晶灯が、石畳の継ぎ目まで浮かび上がらせていた。路地の小さな礼拝堂からは、夜の祈りが漏れ聞こえる。向かいでは保守工が霊晶灯の支柱を点検し、その足元を馬車の車輪が水飛沫を上げて通り過ぎた。軒先で待っていた子どもが、店の奥から呼ばれて駆け戻る。
光の下では、誰も足元を探らずに歩ける。
けれど、少し離れれば灯りの間隔が変わった。白く照らされた大通りの先に、淡い闇が溜まっている。人々はそれにも慣れていた。明るい道を選び、暗い場所では歩みを早め、馴染みの店の窓に灯があればほっと息をつく。
この国では、光が暮らしを支えていた。
だが、王国が向き合ってきた《灰触》は、王国一つの事情では終わらない。
海の向こうにいる誰かの、明日の食卓にも関わるものだった。
だから人々は、国を隔てる距離を受け入れていた。
だが、王都の住民たちにとって、その夜の関心事はもっと身近だ。
明日の仕事。届くはずの荷。夕食の献立。帰りの遅い家族。
石畳に落ちる白い光の下で、人は変わらず人を呼び、呼ばれた者は振り返る。
それが、明日も当然に続くと信じていた。
◇
夜が明ける。
白い灯が役目を終え、朝の光がグランヴァルトの屋根を染めていく。
王都の一角、ノワールヴェイン公爵邸では、磨き上げられた銀器が食卓に並べられていた。
湯気の立つ紅茶が、磁器の杯へ注がれる。
この朝、遠い大陸の誰かが憧れていた王国で、ごくありふれた親子の会話が始まろうとしていた。




