第9話 その名で戦う
3本の火槍が迫る。
先頭は胸へ。次は足元へ。最後の1本は、前の2つを避けた先――わずかに右へ身を引いたところを狙っている。
ご親切なこと。逃げる方向まで指定してくださるなんて。
もっとも、従う義理はございませんわね。
12枚の《ブラッドアルカナ》が、目の端で赤黒く揺れていた。手元へ引き寄せた2枚を正面に重ねかけ、思い直す。
ただの壁では、3本目に貫かれる。
欲しいのは、炎を受け止める厚みではない。避ける方向を、あちらの思いどおりにさせないための角度だ。
「《ブラッド・ガード》!」
2枚を左右に開く。薄い血晶の盾が、互いに違う傾斜を作った。
最初の火槍が左の盾を滑り、空へ逸れる。次の炎は右の盾に噛みつき、薔薇の花弁に似た亀裂を刻んだ。
最後の炎。
予想どおり、2枚の間に生まれた隙間へ飛び込んでくる。
――そこは、もう空けておりませんのよ。
右手を返し、盾の角度を変えた。炎の穂先が血晶の縁を擦り、処刑台の外縁を支える石壁へ突き刺さる。火花が散り、壁際にいた冠衛士が見物人を下がらせた。
ほっとしたのは一瞬だった。
「……っ!」
右の手首に焼けた針を差し込まれたような痛みが走る。盾に刻まれた亀裂が、まるでこちらの皮膚に移ってきたようだ。
1枚が赤い欠片となって砕けた。残る1枚も、血晶の輪郭を保てず崩れ落ちる。
12枚のうち、2枚。
ただ3本の火槍を逸らしただけで、この有様とは。
……高価な授業料ですこと。
それでも、身体は動く。足首の《公名錠》が石床を踏むたびに食い込むが、首を刎ねられるよりは幾分ましだ。
「術者を拘束しろ!」
名録院長エレナ・ヴァルクの声が飛ぶ。
司祭が白杖を上げ、冠衛士たちが階段を駆け上がった。
こちらへ来る兵士は4人。正面から2人、右階段から2人。司祭の背後には、まだ12本の霊晶杭が立っている。
杭は壊れていない。
あれが生きている限り、公名を剥がす術式は再び動く。兵士をいくら退けても、足元の錠が締まり続けるなら、こちらの負けだ。
敵を倒す前に、敵が頼っている仕組みを止める。
残る10枚を指の間へ寄せた。
「《アルカナ・ディール》」
10枚が血の花弁のように散った。
高く跳ね上がった3枚に、司祭たちの目がつられる。2枚は階段を滑り、冠衛士の足元へ。別の2枚は白杖の石突きを追い、残り3枚は霊晶杭の陰を回り込ませた。
「札を落とせ!」
光弾が1枚を撃ち抜いた。
頬に細い裂傷が走る。熱い血が顎へ伝った。
……あら。そこまで痛みを分けてくださる必要はありませんのに。
9枚。
まずは階段。
石床を滑った2枚が、迫る兵士の足首に赤い糸を絡ませた。拘束できるのは、せいぜい一瞬。けれど先頭がつまずけば、後続は剣を振れない。
次は白杖。
杖の術式環へ貼りついた2枚から魔力を流し、司祭の詠唱を乱す。白い光が手元で散り、杖を握る指が驚いたように開いた。
そして、杭。
3枚を同じ場所へ向けない。1本の杭を叩けば、隣が負荷を肩代わりする。先ほど足元で見た光の巡り方が、そのまま答えだ。
1本目には、流れを止める札。
2本目には、逆向きへ流す札。
3本目には、戻ってきた魔力を受ける札。
残った2枚を断頭台の左右へ投げ、床下へ延びる回路を挟み込んだ。
……さあ。ご自慢の連携を、少しだけお借りしますわ。
12本の霊晶杭は互いを補うように結ばれている。ならば、1箇所で生じた食い違いも、互いに補おうとして運んでしまう。
1本目が低く唸った。
2本目の光が一拍遅れて明滅する。
3本目から、赤黒い筋が隣へ走った。
「回路を切り離しなさい!」
エレナの命令が飛ぶ。司祭が白杖を床へ打ちつけた。
遅い。
杭は1本ずつ砕けたのではなかった。内側へ閉じ込められた魔力が逃げ場を失い、12本の光が一斉に乱れる。床下で重い音が響き、霊晶杭の表面に亀裂が走った。
破裂したのは霊晶ではなく、そこへ繋がる術式線。
白い光が天井のない空へ噴き上がり、広場を薄く照らした。
同時に、血晶の札が2枚、音もなく砕けた。
「く、ぅ……!」
胸の奥を鷲掴みにされたような痛み。膝をつきかけ、断頭台の縁へ手をついた。
こんな乱暴な使い方、二度としたくありませんわね。
――できるだけ、ですけれど。
足首の《公名錠》が悲鳴のような金属音を立てた。赤く明滅していた刻印が途切れ、留め金が割れる。
両足が、ようやく自分のものに戻った。
だが、解放感に浸る暇はない。
「反逆者を取り押さえろ!」
階段を上がってきた冠衛士が剣を構えた。
無傷で残った札は5枚。2枚は深い亀裂を抱え、指に応じて鈍く震えている。
兵士が一歩踏み込む。
5枚を手元へ束ねた。
「《アルカナ・ファン》」
札同士の縁が噛み合い、薄い鉄扇の形を取る。
剣が振り下ろされた。
正面から受ければ押し潰される。扇を斜めに立て、刃を外側へ滑らせた。金属を引っ掻くような音が耳の近くで弾ける。
開いた手首へ、閉じた扇の背を打つ。
「がっ!」
剣が石床へ転がった。
次の兵士は槍を突き出す。刃先より先に、後ろ足を見る。深く踏み込む癖があるなら、槍を止めずに横へ流せばよい。
扇の隙間で柄を絡め、半歩だけ身を沈めた。
相手の力が行き場を失う。足を払うと、鎧が硬い音を立てて倒れた。
追撃はしない。
罪人の処刑を命じられた兵士であっても、命令書へ署名した本人とは限らない。もちろん、だからといって無傷で通して差し上げるほど、お人好しでもないけれど。
「下がりなさい。次はもう少し痛いところを叩きますわよ」
自分でも驚くほど、声がかすれた。
扇が重い。握る指に力を込めるだけで、掌の傷から血が滲む。
初めての魔術とは、つくづく使い勝手がよろしくない。
◇
広場を囲む霊晶灯が、一斉に白く輝いた。
……まだ何かございますの?
処刑台の杭は沈黙したというのに、王城へ続く街路の灯まで、同じ拍子で明滅している。
足元から白い線が伸び、広場の外周へ輪を描いた。
司祭たちが顔を見合わせる。
「王都側の補助回路が……!」
聞き慣れない呼び方ではない。王都には、街路を照らす以上の用途を持つ霊晶灯がある。以前、父と調べた市場の事故でも、灯は人間の公名を読み取ろうとした。
けれど、12本の杭が壊れた瞬間に、街路全体が呼応するとは。
どこまで繋がっていらっしゃるの、この国の灯は。
残る札が勝手に震えた。
手元の5枚ではない。亀裂の走った1枚が、王城のある方角へゆっくり向きを変える。
壊れかけた術式の反射かと思った。
ところが、その表面に薄い光が滲む。
湯気の立つ紅茶。
銀の匙が受け皿へ触れる音。
白い王の駒をつまむ指。
『……リゼリア』
息が止まった。
お父様。
札の向こうから聞こえたのは、懐かしい声だった。
『食べろ、リゼリア』
……まったく。
今、この場面でまで、食事の心配をなさるなんて。
喉の奥が熱くなる。笑おうとした唇が震え、代わりに息が漏れた。
ただ、これは会話ではない。
こちらの呼びかけに応じた証拠もない。《記憶痕》なら、本人がその場にいなくても残る。死を認めたくないからといって、確証のない声を生存の証明にしてはならない。
……分かっておりますわ、お父様。
それでも、札が向いた先と、この記憶が浮かんだ理由は調べられる。
父の名前は、まだ何かに繋がっている。
だから、今は死ぬわけにいかない。
「全周封鎖!」
冠衛士の号令が響いた。
広場へ通じる路地に兵士が並ぶ。正面の門は閉ざされ、鐘楼から矢をつがえる音がした。
下へ降りても、囲まれるだけ。
では、上。
処刑台の背後、建物の庇までの距離を測る。飛び移るには遠い。足場に使える札は5枚。血晶で空中に留めておけるのは、ほんの一瞬だろう。
上手に使えば、足りるかもしれない。
失敗すれば、広場へ落ちる。
……もう少し試しやすい場所で練習したかったものですわ。
足元へ2枚を滑らせ、黒い薔薇の茎のような血糸を処刑台の側面へ這わせた。棘が石の継ぎ目に噛み、上へ伸びる。
「逃がすな!」
エレナが叫ぶ。
「逃げるなと仰るのなら、せめてお招きする場所を選んでくださいまし」
茎を踏み、処刑台の外へ身体を投げた。
1枚目を足の下へ。
固い感触が、靴底を一瞬だけ受け止める。
2枚目。
跳ぶ。足の裏で血晶が軋み、踏み切った途端に崩れた。
3枚目。
痛む肩を壁へ向け、ようやく庇の縁を掴んだ。石の角が爪に食い込み、思わず声が漏れる。
腕を引き上げる。屋根へ転がり込んだ瞬間、背後から白い光弾が飛んできた。
亀裂の入った2枚を振り返らせる。
「《ブラッド・ガード》!」
赤い障壁が広がり、光弾を受けた。
乾いた破裂音。
2枚は赤い花弁となって散り、胸の奥へ鈍い痛みが戻る。
けれど、光弾の勢いは殺せた。
屋根瓦が肩の下でずれ、粉になった砂が頬へ貼りつく。痛みで視界が滲むのを、袖で乱暴に拭った。
下から声が上がる。
「黒薔薇が逃げた!」
「屋根だ! 追え!」
……あら。
先ほどまで殺せと叫んでいたのに、今度は逃げるなと。
どちらか一つにしていただきたいものですわね。
笑みを作ろうとして、失敗した。胸が苦しく、息が浅い。指先を動かすと、残る札が頼りなく揺れた。
追われる身には、皮肉を言う自由さえ惜しい。
屋根の傾きを確かめ、隣の建物へ渡る。瓦が1枚外れ、背後へ滑り落ちた。鐘楼から矢が来る前に、煙突の陰へ身を隠す。
今のわたくしを捕まえるのに、王国はどれほどの人員を動かすつもりかしら。
いえ、逆に考えましょう。
追手が集まる場所は、それだけ守るべきものから人が離れているということ。
大通りへは戻らない。屋根の高低差が続く北側へ進み、巡回兵が見上げにくい軒の裏を選ぶ。
屋根の上からなら、通りを歩いていたときには見えなかった道が見える。
◇
王都の外壁が見えた頃には、鐘が何度も鳴っていた。
昼の日差しはまだ高い。街路に映る影の向きから、逃走に思った以上の時間を費やしたことが分かる。傷だらけの囚人服で往来を歩けば、即座に見つかるだろう。
外壁の巡回路へ続く石段の前で、物陰へ身を伏せた。壁の上には冠衛士が2人。騒ぎの中心へ向かう鐘を気にしているのか、何度も王城の方角を見ている。
残る《ブラッドアルカナ》を1枚、指先へ寄せる。
薄い血晶の表面に、かすかな文字が浮かんだ。
ルカ・アーレン。
次いで、エドガー・ミルン。
どちらも、確かに出会った方々の名前。
国が帳簿から消したところで、今日ここで呼び返せる。少なくとも、今はまだ。
胸元の懐中時計を開く。
4つの名前を刻んだ裏蓋は、爪の傷でひどい出来栄えだ。
お父様がご覧になれば、間違いなく書き直しを命じるでしょうね。
それでも、消しはしない。
止まっていた針が、ふるりと震えた。
風か。魔力の余波か。
今度も、答えを急ぐわけにはいかない。
「……分かっておりますわ」
蓋を閉じ、王城のある方角を見た。
父の生死を証明するもの。
奪われた213人の名を、誰が、何のために使っているのかを示すもの。
そして今日、あの処刑場で何が行われたのかを記したもの。
集めなければならない証拠は、山ほどある。
王国を滅ぼせば、それで片づく?
とんでもない。
帳簿を燃やせば、そこにいた人々まで返ってくるとお考えなら、随分と都合のよい計算ですこと。
失われた名前を、取り戻す。
そのために生き延びる。
この順序だけは、間違えない。
外壁の向こうでは、街道が白く乾いていた。遠くの野原に、風が走る。
振り返ると、王都グランヴァルトは相変わらず眩しかった。
同じ光の下で、誰かが今も名前を呼ばれている。誰かは、呼ばれるはずの名前を失っている。
ならば、仕事は残っている。
「いずれ、お返しいただきますわ。全部」
王国が用意した処刑台は、空になった。
代わりに、1つの呼び名が王都へ残った。
――黒薔薇。
それを誰がどう呼ぼうとも、名乗るかどうかを決めるのは、もう王国ではない。
鐘の音に紛れ、血晶の札を石段へ滑らせる。巡回兵の視線が城の方角へ動いた一瞬に、壁の上へ駆け上がった。
下りは、札を1枚ずつ足場へ変えた。途中で魔力が途切れ、最後は壁面に指を擦りながら滑り降りることになったけれど、どうにか両足で地面を踏めた。
土の匂いがした。王都の石畳では嗅いだことのない、草と土の匂い。
その足で、王都から離れる街道へ踏み出す。
背後では、追手を呼ぶ鐘が鳴り続けていた。
それでも、足は止めない。
黒薔薇がどこで咲くのかまで、王国に決めていただくつもりはございませんもの。




