間幕VII 銃声より速いもの
工房の窓を開けると、向こうから燻した肉の匂いが流れてきた。
腹が減る。
昨日の夕飯に焼いたレーサーラビットは、思ってたよりずっとうまかった。筋肉のついた脚の肉は噛みごたえがあるのに、火を通すと妙に柔らかい。あれが5羽もあるなら、干し肉にするのも悪くない。
ただ、あの獲物を1人で5羽、しかも肉をほとんど傷つけずに持ち帰ったってのが、どうにも引っ掛かっていた。
リゼリアが手慣れているのは分かった。
でも、どれだけ速いんだ?
あいつは「音速兎」と笑っていたが、名前だけ聞けば大げさな呼び名だ。ウサギの脚なんざ、銃の弾より速くはないだろう。
……そう思ってた。
この時点では、な。
◇
作業台に《赤鐘》を置いた。
今日は弾薬の調合と整備の日だ。
灰触を越えるときに何発使ったか、記録を見ながら残りを数える。通常弾と、魔力を通すための特殊な弾。後者は使える数に限りがあるから、旅の途中で何でもかんでも切り札にするわけにはいかない。
部品を並べ、弾の状態を確認する。
魔力弾に使う媒体は、配合を少し間違えるだけで反応が不安定になる。こっちは感覚任せで触るより、決めた手順を守る方が早い。計量器と記録帳を脇へ置き、1本ずつ仕上がりを確かめた。
弾薬の作業が終わると、空になった器具を片づけ、銃を点検した。撃針の動き、照準、グリップの固定。細かい傷はいくつもあるが、どれも今すぐ使えなくなるようなものじゃない。
「……さて」
机の上には、巻き直したワイヤーもある。
前に使ったとき、引っ掛かるまでが少し遅かった。腕を伸ばす角度に問題があったのか、固定先を見極めるのに時間をかけすぎたのか。あの数瞬が戦闘じゃ命取りになる。
試すなら、障害物のある森の方がいい。
作業場に火種が残っていないことを確認し、弾薬を安全な場所にしまってから、俺は外へ出た。
菜園の向こうでシュテルが干し肉を確かめている。リゼリアは畝の間を歩いて、水路の栓を触っていた。
「ちょっと森で身体動かしてくる」
声を掛けると、シュテルが顔を上げた。
「銃の試射ですか?」
「それも少し。先にワイヤーの確認だ。夕方までには戻る」
「気をつけてくださいね」
「分かってる」
リゼリアは水路の栓を戻しながら言った。
「東の草地にはレーサーラビットがおりますから、走る音が聞こえても不用意に追わない方がよろしいですわ」
「……ちょうどいい」
「何が?」
「いや、こっちの話」
リゼリアは一度だけ、俺の顔を見た。
口元が少し笑ったような気がしたが、何も言われなかった。
◇
森へ入る前に、まず安全な空き地を選んだ。
足場は乾いていて、頭上には太い枝。周りに人の通る道はなく、灰触の区域からも離れている。試す場所としては悪くない。
ワイヤーの先を木へ固定し、短く助走をつけた。
身体を持ち上げ、幹の左側を回る。
1度目は回転が大きすぎた。
靴底が木の根を掠め、着地が半歩ずれる。
「……違うな」
もう1度。
今度は枝の位置を見て、身体を浮かせる前にワイヤーの角度を取る。腰だけ先に動かし、足は最後まで地面に残した。思ったより小さな動きで、幹の向こうへ抜けられた。
3度目には、幹の裏へ回りながら《赤鐘》を抜くところまでつなげた。
撃つつもりはない。狙いをつけるまでの姿勢を確かめるだけだ。
そこから、もう1つ。
《赤鐘》の投擲練習だ。
実戦では武器を手放す危険がある。だから普段、積極的に選ぶ技じゃない。けど、相手の視線をずらしたいときや、ワイヤーで回収できる位置へ一度放り込んでおきたいとき、取れる選択肢が1つ増える。
もちろん、装填したまま試すような真似はしない。
弾を抜き、作動しない状態だと確かめた《赤鐘》を、短い回収用ワイヤーにつないだ。銃口を人のいる方向へ向けないことも、手元の確認も済ませてから始める。
軽く投げて、受け止める。
1度目は回りすぎた。ワイヤーを引く手が遅れ、落ち葉の上へ落としてしまう。
「……痛ぇな、これ」
痛いのは俺の懐だ。銃を投げて傷めるなんざ、下手な練習にも程がある。
拾って調子を確かめ、投げる距離を短くした。
2度目は、腕の高さで回収できた。
3度目は、木の影から身体を出す前にワイヤーを引き、掌へ戻してみる。
手元に重さが戻るまでの感触は、まずまずだ。
けど、これを素早い相手へ使えば、銃が戻ってくる前に逃げられるだろうな。
そう考えたとき、近くの草が揺れた。
背の低い草地の奥に、長い耳が立っている。
……いた。
レーサーラビット。
昨日、作業台に並んでいたあいつらと同じ大きさだ。
違うのは、まだ生きていて、こっちを見ていること。
「……ちょっと付き合えよ」
俺は《赤鐘》をホルスターへ戻し、草地へ向かった。
◇
まずは姿を見せず、距離を取る。
リゼリアの言葉は覚えている。あいつらは人の気配に敏感で、目で追えないほど速い。
だからって、いきなり撃つ気はなかった。
どの方向に逃げるか、まず観察したい。
ウサギは耳を動かし、短い草を食んでいた。
右に倒木。左には浅い沢。正面に細い道。
俺が進めば、右の木陰へ逃げるのが自然だ。
そこで、足元の枯れ枝を踏んだ。
ぱきっ。
次の瞬間、ウサギが消えた。
「……は?」
右を向く。いない。
左を見る。いない。
草が揺れたのは、背後だった。
振り返ったときには、遠くの木の根元で長い耳が跳ねている。
……おいおい。
確かに速い。
走ったというより、見えていた場所から別の場所へ飛び移ったみたいだった。途中で何が起きたのか、まるで分からない。
俺はそっと息を吐いた。
「……音速兎って呼び名、伊達じゃねえな」
どうやら、昨日のリゼリアを少し甘く見てたらしい。
それでも、ここで引き返したら練習にならない。
俺は草地の外側へ回り、ワイヤーの先を枝に掛けた。
正面から追うのは無理だ。なら、追う時間を減らせばいい。
少し先に回り込んで、獲物が抜けたくなる道を押さえる。
リゼリアが言っていたのは、そういうことだったはずだ。
ワイヤーを頼りに小さな沢を越え、木の裏へ移る。
気配を殺して待つ。
……来ない。
しばらくして枝の向こうに耳が見えた。今度は逃げる気配がない。
俺は慎重に《赤鐘》を構えた。
照準の中へ、灰色の毛が収まる。
引き金を引こうとした瞬間、また消えた。
銃声は鳴っていない。
狙われたことを感じ取ったのか、ただこちらの呼吸を読んだのか。
「……っ、くそ!」
ウサギの足跡は、俺が思っていた場所より2歩先に続いていた。
速いだけじゃない。止まる、曲がる、跳ぶ。その切り替えが早すぎる。
何度も追えば、そのうち疲れるのは俺の方だ。
気づけば、肩で息をしていた。
……あの女、これを5羽だと?
しかも、全部きれいに仕留めてきたんだぞ。
冗談じゃねえ。
俺は帽子を脱いで汗を拭いた。
ここまで来たら、ちょっと本気で考えてやる。
◇
足跡を追うのをやめ、地面を見た。
沢と倒木の間に、細い通り道がある。草の踏まれ方がほかと違う。獲物がいつも通るのか、地面だけが滑らかになっていた。
俺がさっき見たウサギも、結局その道を使っている。
木の陰でしゃがみ込んだ。
いま必要なのは、銃の腕より、道を覚えることだ。
ウサギが跳ぶたび、後脚の着地点に細かい土が跳ねる。
その土の跡を見る。
何度か繰り返すと、わずかに癖が分かってきた。草地から出るとき、右の根を強く蹴る。逃げる方向は毎回違っても、踏み切る場所は似ている。
なら、そこへ照準を合わせる。
俺はワイヤーを手元に巻き、空いた手で小石をひとつ拾った。
小石を離れた場所へ投げる。
乾いた音がした。
ウサギの耳が向く。
俺は息を止めた。
――来る。
低い灰色の影が走った。
思っていたより、少し右。
引き金には触れない。
まだだ。
影が根元へ近づき、後脚を深く沈める。
そこが、一瞬だけ速さの途切れる場所だった。
《赤鐘》の照準を、次に頭が現れる位置へ置いた。
引き金を引く。
短い銃声が、森を打った。
灰色の影が草へ落ち、そのまま動かなくなった。
俺はすぐに近づき、獲物の状態を確かめた。
苦しませることなく仕留められたらしい。肉を傷つけた場所も、思っていたより小さく済んでいる。
「……やっとかよ」
思わず腰を下ろした。
何発撃ったわけでもない。だが、そこへ来るまでの方がずっと大変だった。
ウサギ相手に、こんなに頭を使ったのは初めてだ。
顔を上げると、午後の陽が木の枝から漏れていた。
……まいったな。
リゼリアが、あの顔になるわけだ。
逃げ道を読む。切り返しを先回りする。速さで勝てない相手に、どうやって1歩だけ先へ行くか。
上手くいくと、どうしようもなく嬉しい。
勝負を挑むような目になるのも、そりゃ分かる。
ただし、これは食料だ。獲った以上、きちんと使う。
俺は獲物を処理し、持参した布に包んだ。
昨日のリゼリアの手つきを思い出して、真似できるところだけ真似る。やり慣れていない分、どうしても時間はかかったが、肉を傷めずに持ち帰ることを優先した。
それでも、あいつの作業よりずっと遅い。
「……相当たくましいお嬢様だわ、ほんと」
今度は、心の中だけでなく声に出た。
◇
屋敷へ戻ると、シュテルが台所で保存容器を並べていた。
「おかえりなさい。練習はどうでしたか?」
「……まずまずだ」
「ずいぶん疲れてますね」
「走らされた」
「誰にですか?」
俺は布包みを掲げた。
シュテルの目が丸くなる。
「レーサーラビット!」
「1羽だけな。こいつ1羽に、どれだけ手間取ったことか」
そこへ、菜園から戻ってきたリゼリアが顔を出した。
包みを見ると、すぐに表情を変えた。
「あら。仕留められたのですか」
「まあな。正直、あれがあんなに速いとは思ってなかった」
「でしょう?」
……なんでそんなに嬉しそうなんだ。
「正面から追うと、逃げるより先にこっちが疲れる」
「えぇ。踏み切りを読まないと、なかなか捕まえられませんわ」
「気づいたよ。あと、あいつら止まる直前にもう1回曲がるだろ。あれが厄介だ」
リゼリアは目を輝かせた。
「そうなのです! あの切り返しが見事で……あ、失礼。つい」
俺とシュテルは顔を見合わせた。
……やっぱりな。
リゼリアの昨日のやる気は、肉だけの問題じゃなかった。
「これ、今夜の飯に使おうぜ。干し肉の方は5羽で足りてるだろ。こっちは俺が獲った分だし、新鮮なうちに食っちまおう」
「そうですね。では、火の準備は私がします」
シュテルが頷く。
リゼリアは包みを受け取ろうとして、手を止めた。
「……解体も、カルマがなさいますか?」
「おう。昨日見てたから、少しは分かる」
「では、わたくしは横でお手伝いしますわ」
「頼む。ただし、全部やっちまうなよ。俺も覚えたいんだ」
リゼリアは、嬉しそうに笑った。
「承知しましたわ」
作業台へ向かいながら、俺はもう1度獲物の重さを確かめた。
1羽だけ。
昨日のリゼリアの5羽と比べれば、ささやかなものだ。
それでも、あの速さを知った今なら、この1羽を仕留められたことがちょっと誇らしい。
そして次にあいつが「肉を獲りに行く」と言い出したら、少なくとも決闘みてえな顔を笑うのはやめてやろう。
……たぶん、な。




