間幕VIII 今夜だけの約束
乾いた肉を1日分ずつ包み終えたとき、わたくしは思わず大きく息を吐いた。
棚には干し肉の包みが7つ。そのほかに予備の小袋が1つ。小麦粉は湿気を避けて別に分け、野菜も持ち運べるものを選んだ。
出発のための準備は、ほとんど終わっている。
台所の窓から夕日が差し込み、流しの上に細い光を落としていた。
わたくしが水を切っていると、シュテルが使い終わった計量器を棚へ戻した。
「これで、明日の朝に慌てなくて済みそうですね」
「えぇ。あとは荷物の確認くらいですわ」
言いながら、わたくしは無意識に書庫の方へ視線を向けてしまった。
ベネブルグへ持っていく記録。照合しておきたい帳簿。まだ考えられることは山ほどある。
けれど、今日はもう遅い。
あの書庫へ入れば、きっと夜を使い切ってしまう。
「リゼリア」
シュテルが、わたくしの顔を覗き込んだ。
「……また書庫のことを考えていました?」
「少しだけですわ」
「少しだけ、ですか」
そこへカルマが現れた。
手には食器を3枚、重ねて持っている。
「おい、飯のあとに仕事始めるなよ。ようやく荷造りが終わったんだろ」
「……お2人とも、わたくしの考えることがよく分かりますのね」
「付き合いが長くなってきたからな」
カルマは皿を置き、椅子を引いた。
何気ない動きだった。
それを見て、わたくしはふと思いついた。
「でしたら、今夜はひとつ約束をいたしませんこと?」
「約束?」
「えぇ。夕食のあとは、仕事の話をしないのです。調査も、次に向かう場所のことも、誰が何を企んでいるのかという話も、今夜はおしまい」
カルマが片眉を上げた。
「……おまえが言うのか?」
「わたくしが言いますの」
「へえ」
明らかに面白がっている。
シュテルは少し考え、それから頷いた。
「いいと思います。私も、今夜は何も考えたくありません」
「決まりですわ。では、もし誰かが仕事の話を始めたら……」
「皿洗い追加、でどうだ?」
「それでは今夜中に全部の食器が磨り減ってしまいますわ」
カルマが笑った。
「じゃあ、話題を変える役だな。言い出した奴が、次の話を考える」
「えぇ。それならよろしいですわ」
わたくしは小さく手を叩いた。
今夜は、ただの夜にする。
それだけの約束が、なぜだか楽しみだった。
◇
夕食は、干し肉にしなかった分の野菜と、残りの肉で作った温かい煮込みだった。
カルマが焼いたパンを小さくちぎり、シュテルが鍋の具をそれぞれの皿へ分ける。わたくしは庭で摘んだ香草を少し添えた。
「……あ、この匂い好きです」
シュテルが皿へ鼻を近づけた。
「庭の南側にある香草ですわ。火を止めてから入れると、香りが残りますの」
「へえ。俺は胡椒が多い方が好きだけどな」
「カルマは、何にでも胡椒を掛けたがりますね」
「うまいだろ?」
「加減があると思います」
シュテルは淡々と答えた。
カルマが少し不満そうに口を尖らせる。
「……おまえ、最近ずいぶん遠慮なくなったな」
「そうでしょうか?」
「そうだって」
わたくしは笑ってしまった。
出会った頃のシュテルなら、こういう小さな好みの違いにも、もう少し気を遣っていたかもしれない。今は自分の意見を言い、カルマも特に気にしない。
この家で食事をすることが、少しずつ自然になっている。
「ところで、お2人は好きな料理がございますの?」
わたくしは尋ねた。
カルマが即答する。
「肉だな」
「……料理を聞いておりますのよ?」
「分かってるよ。焼いた肉。塩と胡椒を効かせたやつ」
「ずいぶん簡単ですわね」
「簡単でうまいのが一番だろ」
シュテルが少し考えた。
「私は、焼きたてのパンが好きです。何もつけなくても、焼けたところの香りがするもの」
「それは分かるな」
カルマも頷く。
「熱いのを割ったとき、湯気が上がるだろ。あれ、腹減ってるときにはたまんねえ」
「では、明日の朝も焼きましょうか」
そう言いかけて、わたくしは口を閉じた。
明日の支度の話をしない約束だった。
カルマがすかさず指を向ける。
「あっ」
「……まだ仕事ではありませんわ」
「ぎりぎりだな」
シュテルが笑った。
「では、リゼリアの好きな料理は?」
「わたくしですか?」
少し考える。
好物を聞かれたのは、いつ以来だろう。
甘い菓子も嫌いではない。けれど甘すぎるものは少し苦手だ。温かい紅茶には、香りの強いものを選ぶ。料理なら、薄く焼いた生地に果物を包んだものが好きだった。
「……薄い生地で果物を包んだお菓子、かしら。甘さは控えめな方が好みですわ」
「お菓子なんですね」
「えぇ。食事とは別ですけれど」
「いいじゃねえか。今度食ってみたいな」
カルマが言った。
わたくしは、少しだけ目を丸くした。
自分の好きなものを話すと、誰かが一緒に食べたがる。
考えてみれば、何も不思議なことではない。
けれど、それが妙に嬉しかった。
◇
食事の片づけを終えてから、わたくしは居間の戸棚を開けた。
中には古いチェス盤がある。
盤面の角は少し擦れているものの、駒はすべて揃っていた。長いあいだ動かしていなかったけれど、保護魔術のおかげで傷んでいない。
「チェスか」
カルマが覗き込んだ。
「えぇ。昔から好きなのです。少し、遊びませんこと?」
「……それ、絶対強いだろ」
「普通ですわ」
「普通の奴はそんな顔で言わねえよ」
シュテルが駒をひとつ取り上げた。
「私は、ルールを少し知っているくらいです」
「では、3人で交代しましょう。勝ち負けより、楽しむのが目的ですもの」
そう言うと、カルマがすぐに口を挟んだ。
「……念のため聞くけど、リゼリアは楽しむだけで済ませられるのか?」
「失礼な」
「この前、ウサギ5羽獲ってきたときの顔、忘れてねえからな」
シュテルが噴き出した。
「そういえば、あのときも……」
「お2人とも!」
抗議してみたものの、わたくしも笑ってしまった。
結局、最初の対局はカルマとシュテルに任せた。
わたくしは手元で紅茶を淹れ、2人の向かい合う様子を眺める。
カルマは駒を動かす前に相手の手元ばかり見ていた。シュテルは盤面全体を確かめ、動かせる場所をひとつずつ数える。
性格が、そのまま出るものらしい。
「……なあ、これ、動かしていいんだよな」
「それは斜めには動けませんよ」
「えっ、そうだっけ」
「駒によります」
わたくしが説明すると、カルマは頬を掻いた。
「覚えること多いな」
「カルマ。そちらを動かすと、次に私の駒が取れます」
「……教えてくれるのか?」
「今日は練習ですから」
シュテルが涼しい顔で答える。
カルマは少し考え、別の駒を動かした。
その直後、シュテルが彼の別の駒を取った。
「……おい」
「そちらは、言っていませんでしたので」
わたくしは紅茶を吹きそうになった。
「シュテル、案外容赦がありませんのね」
「えっ。……そうでしょうか」
彼女はきょとんとしている。
カルマが笑い出した。
「やっぱおまえ、最近遠慮なくなったわ」
その対局は、シュテルが勝った。
続いて、わたくしが彼女と向かい合う。
棋譜を読む癖で、つい次の手を考え始めた。けれど、目の前のシュテルは急いでいない。駒を手に取る前に、ゆっくりと盤を眺めている。
わたくしも、少しだけ手を止めた。
勝つためだけの時間にしなくてもいい。
今夜は、そういう約束だった。
シュテルが駒を動かした。
「……あ、間違えました」
「戻してもよろしいですわよ」
「いえ、このままで」
彼女が真剣な顔をしたので、わたくしも思わず笑みを深める。
やっぱり、考える遊びは好きだ。
けれど、盤を囲んで笑うことの方が、今日はもっと楽しかった。
◇
夜が深まる前に、わたくしたちは庭へ出た。
ここへ帰ってから、3人でただ空を見上げるのは初めてだった。
別荘の周りは森に囲まれているけれど、庭の中央からなら星がよく見える。防護術式の光も、空を眩しくするほど強くはない。
シュテルは一番先に空を見上げた。
「……綺麗ですね」
「星が好きなんですの?」
「はい。小さい頃から、夜に窓の外を見るのが好きでした」
彼女はひとつ、明るい星を指した。
「季節が変わると、見える場所も変わるんです。知っている星を見つけると、なんだか安心します」
「へえ」
カルマが首を反らす。
「俺なんか、夜に空見たら天気が変わるかどうかしか考えねえな」
「それも大事な見方ですよ」
「でも、おまえみたいに名前は知らねえ」
「では、今日はひとつ覚えてください」
シュテルは嬉しそうに、空の一点を示した。
わたくしとカルマが揃ってそちらを見る。
「どれだ?」
「ほら、少し右です」
「……あれか?」
「それは違います」
「難しいな!」
カルマが真剣に星を探しているのが可笑しくて、わたくしは小さく笑った。
今日のシュテルは、いつもよりよく話す。
星の名前を告げる声には、審問官としての緊張も、祈祷を唱えるときの張りつめた調子もなかった。
ただ、自分の好きなものを誰かに教えたい人の声だった。
「……リゼリアは?」
カルマが尋ねた。
「俺たちばっかり話してるけど、おまえは何してるときが一番楽しいんだ?」
わたくしは空から視線を下ろした。
チェス。紅茶。庭の手入れ。狩りも嫌いではない。
ひとつに決めるのは難しい。
「……最近ですと、こうしてお2人と過ごす時間、かしら」
言ってから、少し照れくさくなった。
カルマが一瞬黙る。
シュテルは、ふわりと笑った。
「私もです」
「……俺も、まあ」
カルマは言いかけて、頭の後ろを掻いた。
「……あー、そういうの、面と向かって言われると困るな」
「何を困る必要がありますの?」
「おまえなあ……」
わたくしは笑った。
星の下で、誰かの好きなものを聞き、その人の話に耳を傾ける。
こんな時間を欲しいと思うようになったのは、いつからだろう。
少なくとも、今夜はあれこれ考える必要はなかった。
◇
居間へ戻ると、カルマが戸棚から小さな木片を見つけた。
「……これ、使っていいか?」
「何に?」
「ちょっとしたもの作ろうと思って。手を動かしてる方が落ち着くんだ」
彼は細い木片と針金を使って、手のひらに乗る小さな仕掛けを組み始めた。
針金をひねり、支点を作り、木片の端を少し削る。銃やワイヤーを扱うときと同じように見えるが、作業している顔はずいぶん穏やかだ。
「こういうものを作るのも、お好きなの?」
「動く仕組み考えるのが好きなんだよ。何でもいい。壊れた道具直すのも、こういう小さい玩具を作るのも」
「へえ。初めて知りました」
シュテルが興味深そうに覗き込む。
「危ないものじゃないですよね?」
「違うって。ほら」
カルマが指で木片を弾くと、小さな仕掛けが机の上で跳ねた。
真ん中に耳のような飾りがついている。
「……ウサギですか?」
「まあ、そうだな」
カルマは少し得意そうだった。
「でも、昨日のやつほど速くねえ」
「それはそうでしょうね」
シュテルが笑い、わたくしも手を伸ばした。
指先で触れると、小さなウサギがぴょんと跳ねる。
「可愛らしいですわ」
「……おまえにそう言われると、なんか変な気分だな」
「なぜ?」
「だって、この前は本物を5羽も……」
彼は途中で口を閉じた。
「……いや、何でもねえ」
わたくしたちは顔を見合わせ、笑った。
その小さな仕掛けは、寝る前に居間の棚へ置くことにした。
窓の外では、相変わらず星が光っている。
わたくしは最後に灯りを落とし、階段へ向かった。
明日の朝、出発する。
けれど、今夜の約束は最後まで守れた。
誰が何を企んでいるのかも、次に何を調べるべきかも、口にしなかった。
代わりに知ったのは、シュテルが好きな星のこと。カルマが作る小さな玩具のこと。そして、2人が焼きたてのパンを好むこと。
そんなことを知ったからといって、何かの問題が片づくわけではない。
それでよかった。
わたくしは自室の扉を開け、ふと立ち止まった。
書庫の鍵は、いつもの場所にある。
今日は、そのままにしておこう。
階下から、カルマの笑い声が聞こえた。少し遅れて、シュテルの声も。
わたくしは微笑み、静かに扉を閉めた。




