間幕VI 湯気の向こうの告白
煙が細く立ち上るのを確かめてから、私は燻製室の扉を閉めた。
干し肉の仕込みを始めて、2日目。
屋敷の裏手には塩と薪の匂いが漂っている。昨日は5羽ものレーサーラビットが台に並び、カルマがしばらく言葉を失っていた。あのときの顔を思い出すと、少し笑ってしまう。
けれど、肉を干す仕事は笑っているだけでは済まない。
温度を上げすぎれば表面ばかり乾く。薪を足しすぎれば煙が強くなり、味にも響く。長く保存する分なのだから、最後まで気を抜かず仕上げなければならない。
「今日は私が見ていますね」
リゼリアが手袋を外しながら言った。
「ありがとうございます。菜園も確認されるんですよね?」
「えぇ。出発前に、水路と防護術式を見ておきますわ。収穫したあとに畝を荒らしたままでは、帰ってきたとき困りますもの」
朝食を終えてから、カルマは弾薬を調合するため工房へこもっていた。銃の手入れをする音が時折聞こえるだけで、今日はほとんど顔を出していない。
あの人が火薬と薬瓶を並べている横で野菜を切るわけにもいかないから、仕事場を分けるのは賢明だ。
リゼリアは燻製室の温度計を確かめると、出入口の小窓を少し開いた。
「昼までにまた見にまいります。それまでに何かあれば、菜園へ呼びに来てくださいませ」
「分かりました」
彼女が小道を下っていくのを見送り、私は作業台へ戻った。
きれいに洗った保存容器を並べ、昨日書いた食料のメモを広げる。
干し肉は3人で7日分、約2.1kgを目安にする。乾き具合によって重さは変わるし、途中の天候まで分かるわけではない。だから少し余裕を持たせる。小麦粉も分けてあり、菜園から採った野菜のうち、持ち運びに向くものは別に包んだ。
やることは、はっきりしている。
それなのに、紙の数字を見つめていると、別の書類の数字が頭に浮かんだ。
聖都オルディオン。
大聖堂の地下。
あそこで見つけた台帳にも、数字が並んでいた。
食料ではなく、人の名前に置き換えられた番号だ。
私はそっとペンを置いた。
◇
クロイツハーフェンでは、港の人々が理不尽な扱いを受けていた。
弱い立場に置かれた労働者が仕事を奪われ、逃げ道を塞がれていた。そこで使われていた王国側の管理記録に、教会へつながる手続きの影が見えた。
聖都では、その影がもっとはっきりした。
祈りの場所だと信じていた大聖堂の地下で、患者から魔力が抜き取られていた。
病人が横たわるベッド。体温も呼吸も、確かに人間のものだった。それなのに書類では、その人たちは名前ではなく番号で管理されていた。
サビーネさん。
エーミルさん。
助け出したあと、2人の名前を本人の口から聞けたとき、私は心からほっとした。
それ以上に、怖かった。
名前を呼んでもらえるところへ戻れた人がいる一方で、戻れなかった人もいる。
祈りを捧げる職員たちが、すべてを知っていたわけではない。病室で患者の手を握り、わずかな変化を見逃すまいとしていた人もいた。フリーダさんは、命を守ろうとしていた。
だからこそ、腹立たしかった。
同じ教会の中で、真剣に人を救おうとする人々の仕事が、別の誰かの手で踏みにじられていた。
「……何のために、教会があるんですか」
声に出してしまってから、私は辺りを見回した。
誰もいない。
薪の燃える、小さな音だけが返ってきた。
ここへ来てから、私は何度も同じことを考えている。
神に祈るから善い人だとは思わない。信者でないからといって、誰かを救わないわけでもない。それでも、祈りの言葉を教え、人を守ることを約束してきた組織が、あの地下で何をしていたのか。
その問いだけは、簡単に消せなかった。
私は審問官だ。
人が訴えたことを調べ、証拠を確かめ、責任を問う立場にいる。だから教会の不正を知ったからといって、教会全体へ怒りをぶつけるわけにはいかない。
けれど、胸の奥で怒りが燃えていることまで、なかったことにはしたくなかった。
◇
私は手を洗い、別荘から持ってきた小さな手帳を開いた。
聖都を出る前に記した、確認すべき人々の名前がある。
まず、中央保全局。
地下の設備を動かす許可、患者の移送、記録の保管。あそこにいた者たちは、王国と教会の両方へつながる書類を扱っていた。
次に、委任印。
大司教本人が使っていない間に、王国側の連絡担当へ預けられた印があった。その印を使った受領記録が、アルベルト・ノワールヴェインの異議に関わる文書と、送出を継続させた文書の両方に残っている。
印を貸した者。
それを使った者。
使われた書類を受け取り、処理した者。
この3つは、同じ人物とは限らない。
分かっていることも、すでにある。委任印を使う仕組みは存在したし、記録がある以上、誰かが実際に手続きを進めた。
さらに《白鳥》。証拠を焼こうとしたあの男は、動くべき記録がどこにあるかを知っていた。襲撃を思いつきで行ったとは考えにくい。情報を与えた者がいる。
私は手帳の余白に、矢印を書いた。
教会の中で、王国からの要請を受ける役目。
教義院の上層と、実際に文書を処理する担当者。
そして中央保全局。
そこをつなぐ人物が、まず調査すべき相手だ。
「……セヴラン大司教は」
彼の名を口にしたところで、手を止めた。
大司教は、私に調査を命じた。地下で見つかった証拠も保全させた。委任印の使用を止め、王国側への照会も進めている。
その行動は、確かに人を救う方へ向いていた。
けれど、以前の通達が教会へ届いていたことも事実だ。いったい、どの段階で何が止まり、誰が何を見逃したのか。
私は彼に直接聞くつもりでいる。
助けてもらったから見逃すのではない。地位があるから疑うのでもない。
誰かが責任を引き受けなければ、同じことが繰り返される。
手帳を閉じた。
教会の中にも、守ろうとした人がいた。
だから、まだやめられない。
そこへ、庭から足音が近づいてきた。
「シュテル。温度はどうかしら」
リゼリアだった。
片手には畝から抜いた小さな草を持ち、袖の先には土がついている。いつもの黒い衣装でも、菜園の土がつくと妙に生活感があった。
「ちょうどよさそうです。火も安定しています」
「よかった。こちらも水路は問題ありませんでしたわ」
彼女は作業台の上にある手帳へ一度視線を向けた。
「……考え事をしていらしたの?」
聞かれた瞬間、うまく答えられなかった。
「少し、教会のことを」
「そう」
それだけ言って、リゼリアは手を洗い始めた。
慰めようとするでも、話を急かすでもない。
その何でもなさに、私はかえって救われた気がした。
◇
夕食のあと、カルマは工房の片づけを続けると言って席を外した。
弾薬の調合は、火や食料から離した場所で行うらしい。危険なものを扱うときほど、あの人は妙に丁寧だ。からかうと怒るので、本人には言わないけれど。
私は食器を片づけながら、浴室の方へ目を向けた。
湯の準備はもう整っている。
この別荘は、外から見ると慎ましいのに、浴室だけは広々としていた。国王を秘密裏に匿うための場所だからこそ、長く滞在しても不自由しないよう造られたのだろう。
「リゼリア」
「はい?」
「……今日、お風呂をご一緒してもいいですか」
自分で口にしてから、少し驚いた。
そんなことを頼むつもりでいたわけではない。ただ、まだ1人になりたくなかった。
リゼリアは瞬きをしてから、柔らかく笑った。
「もちろん。少しお話ししましょうか」
「はい。ありがとうございます」
◇
湯気の向こうで、リゼリアが長い髪をまとめ直していた。
湯船は2人で入っても余裕がある。石の縁は温かく、水を落とす小さな音が浴室に響いている。
私は肩まで湯に浸かり、深く息を吐いた。
「……ずいぶん疲れていたみたいです」
「灰触を越えたばかりですもの。今は休めるときに休んでくださいませ」
リゼリアは、湯の温度を確かめるように指先を動かした。
沈黙が続く。
気まずくはなかった。
けれど、せっかく誘ったのに何も話せないままでは、少し悔しい。
「リゼリア。私、教会のことが悔しいんです」
口を開くと、思っていたより素直に言葉が出た。
「聖都で、地下の患者さんたちを見たとき……怒っていたんです。でも、その場ではやることがありました。助けること、記録を残すこと、誰が何をしたのか確認すること。全部終わってから、やっと腹が立ってきて」
リゼリアは黙って聞いていた。
「教会の名前で人を集めて、祈りの言葉で安心させて、その人たちの《名核》を使っていた。私は審問官なのに、その仕組みが大聖堂の下にあることすら知らなかったんです」
湯の上で、両手を握った。
「知らなかったから責任がない、とは言いたくありません」
「えぇ」
「だからこそ、悔しいです。ずっと教会の中で働いてきたのに、誰がそんなことを決めたのか、まだつかめない。私が信じてきた場所で、あんなことが起きていたのに」
言い終わる頃には、胸の奥が少し苦しくなっていた。
リゼリアは、しばらく考えてから尋ねた。
「シュテルは、教会を離れたいと思っていらっしゃるの?」
私はすぐには答えられなかった。
あの地下を見た日なら、そう言ったかもしれない。
けれど、フリーダさんの顔を思い出す。患者に付き添い、手を離さなかった人。命を救うために夜遅くまで働いていた人々。エーミルさんが自分の名前を言えたとき、泣きそうな顔で喜んでいた人たち。
「……離れたくは、ないです」
ようやく答えた。
「教会にいる人が、みんな悪いわけじゃない。あの人たちと同じ場所で働いていたことまで、嫌いになりたくありません。でも、何もなかったように戻ることもできません」
「でしたら、戻り方を選べばよいのですわ」
「戻り方?」
「今回のことを調べ、責任を明らかにしてから戻る。あなたが見たことを、見なかったことにせずに」
リゼリアは少しだけ視線を落とした。
「わたくしも、父の署名を見なかったことにはできませんもの」
アルベルト・ノワールヴェイン。
彼も《名核》の利用を知り、王国のために承認していた。後に異議を唱えたからといって、過去の署名が消えるわけではない。
リゼリアがそう考えているのを、私は知っている。
「……リゼリアは、お父様を責めたいと思いますか」
「責めたいときもございますわ」
意外なほど、あっさりした答えだった。
「父がもっと早く止めていれば、と考えない日はありません。でも、怒っているだけでは、何が起きていたのか分からなくなります。わたくしは、父が何を認め、どこから拒んだのかを知りたいのです」
湯気の向こうで、赤い瞳がこちらを向いた。
「シュテルも、教会の何を守りたいのか、きっとご自分で知っていらっしゃるのでしょう?」
「……人です」
考えるより先に、答えが出た。
「祈る人も、祈らない人も。助けを求めている人を守るために、私は審問官になりました」
「えぇ」
「それが教会の名前で傷つけられているなら、私は、その人たちの味方でいたい」
リゼリアは、静かに頷いた。
「では、そのために動けばよろしいのですわ」
私は目を閉じた。
簡単な言葉だった。
けれど、あの人たちを見捨てないために何をすべきか、ようやく言葉にできた気がした。
◇
「……でも、実は」
私は少し笑った。
「今日は、もっと情けないことも言いたかったんです」
「何かしら」
「怖かったんです。灰触の中も、聖都の地下も。平気な顔をしようとして、いつも失敗して」
リゼリアは、驚かなかった。
「わたくしも、怖いものはございますわ」
「そうは見えません」
「見せないようにしているだけですもの」
「……そういうものですか」
「えぇ。それに、わたくしは昨日、ウサギに逃げられて悔しがっていたくらいですわ」
あまりに突然の話題で、私は吹き出した。
「レーサーラビットですか?」
「えぇ。最初の1羽には、見事に裏をかかれました」
「5羽も獲ってきたのに、そこが気になるんですね」
「だって、あの切り返しは本当に綺麗でしたのよ」
リゼリアは嬉しそうに言った。
昨夜の食卓でも見た顔だ。書庫で資料と向き合うときには滅多に見せない、年相応の無邪気さがある。
そんな顔を眺めているうちに、私の笑いも止まらなくなった。
「……私、初めてかもしれません」
「何が?」
「お風呂で、こんなに気が緩んだのは」
リゼリアが穏やかに微笑んだ。
「でしたら、今夜は長湯をなさらない程度に、ゆっくりいたしましょう」
「はい」
胸の奥にあった怒りは、まだ消えていない。
きっと、消すべきものでもない。
ただ、今はその怒りだけを抱えているわけではなかった。
同じ湯の温かさに肩を緩められる相手が、ここにいる。
明日も調べるべきことは残っている。教会に戻ったとき、向き合わなければならない人もいる。
それでも今夜くらいは、難しい顔をせずに笑っていてもいい。
私は湯の中で膝を抱え、もう一度、リゼリアの狩りの話をせがんだ。
彼女は少し照れながら、嬉しそうに話し始めた。




