間幕V 足音より先に
森の東側へ向かうと告げたとき、カルマはわたくしの顔を見て、なぜか呆れていた。
「肉を獲りに行くんだよな? 決闘じゃねえよな?」
「もちろん、狩猟ですわ」
嘘ではない。次の村か街までは、補給を当てにせず7日ほど歩けるだけの食料を用意しておきたい。菜園と小麦の備蓄庫が無事なのは確かめた。足りないのは肉だった。
ただ、狩る相手の名を口にした途端、胸が少し弾んだことまでは否定できない。
レーサーラビット。
この森で暮らした3年間、何度もわたくしの魔札をすり抜けた、手強い相手だ。
ウサギという名に油断して近づいた旅人は、たいてい何も見えないまま草むらを見送ることになる。大きさは中型の獣ほど。後脚の筋肉が発達し、低い姿勢から一気に加速する。音速兎という呼び名は大げさだと笑う人もいるけれど、目で追おうとする者には、決して笑えない速さだ。
わたくしも、最初はそうだった。
この森へ来て間もない頃。狙いを定めて魔札を飛ばした瞬間、獲物はもう別の茂みの向こうにいた。後に残ったのは折れた草と、踏み外した自分の足跡だけ。
以来、森へ食料を取りに行くたびに少しずつ学んだ。
速いものを追うなら、速さで張り合ってはいけない。
その獲物が、次にどこへ足を置くかを見る。
◇
小道を抜けると、地面がゆるやかに下った。
右手は細い沢。左手には背の低い木々が並び、その間に陽の当たる草地が広がっている。レーサーラビットが好む場所だ。遮るものが多すぎれば走れず、少なすぎれば身を隠せない。この辺りは、その両方がちょうどいい。
わたくしは風下へ回り、外套の留め具を外した。
革の手袋を整える。腰に提げた袋には清潔な布と小型のナイフ。荷物を持ち帰るためのゼェレの収納袋は、口を閉じて肩から下げた。
そこへ血の魔力を流し、《ブラッドアルカナ》を展開する。
赤い魔札が6枚、指の間から滑り出た。
最大で12枚。ただし、たくさん出せばよいというものでもない。今は6枚で、獲物の進路と、わたくし自身の逃げ道を確保する。
3枚を草地の端へ低く配置する。2枚は倒木の陰へ。最後の1枚は手元に残した。
札の表面が陽を返さないよう、角度を調整した。
しゃがんでしばらく待つ。
目を閉じると、沢の流れがよく聞こえた。その下に、細い葉擦れの音が混じる。
――来ましたわね。
背の高い草の間から、長い耳が2本のぞいた。
立ち止まり、周囲を確かめる。鼻先がゆっくり動き、後脚が地面を踏み直す。
わたくしは魔札の位置を変えなかった。
1歩。もう1歩。
草地へ出ようとした瞬間、レーサーラビットの耳が跳ねた。
見つかった。
「《アルカナ・フォーク》」
左と右。進めばぶつかる距離に、2枚の魔札から赤い魔力の筋を立てる。
攻撃ではない。どちらへ逃げても妨げがあると、獲物に見せるだけ。
レーサーラビットは躊躇しなかった。
身体を低く沈め、わずかに開いた中央へ飛び込む。
――中央。
読みどおり。
わたくしは手元の札を動かした。
しかし、獲物は着地しなかった。
宙で後脚を縮め、地面へ触れる寸前に前脚の向きを変える。着いたと思った次の瞬間には、右の根を蹴っていた。
赤い札が、何もない草を切る。
「……っ」
耳の先が見えたときには、もう木立の陰だった。
追わない。
わたくしは呼吸を整え、草地に残った跡を確かめた。蹴られた根元の土だけが、深くえぐれている。
予想より、切り返しが鋭い。
それも、見せた進路を避けただけではない。こちらが中央を押さえることまで読まれたような、見事な動きだった。
思わず口元が緩む。
「……えぇ。そうでしたわね」
久しぶりだというのに、忘れたつもりはなかった。
この子たちは、追われることに慣れている。逃げるための余裕を残したまま、ぎりぎりの場所へ足を運ぶ。
木立の奥から、かすかな葉擦れがした。
もう1度、こちらを窺っているらしい。
ならば、2度目は同じ手にしない。
◇
わたくしは札を回収し、場所を変えた。
倒木から少し離れた、根が2本地面へ露出している場所。右へ跳べば小さな段差がある。左は沢へ向かって開けているが、最初の踏み切りには必ず根を利用する。
獲物の逃げる方向を全部塞ぐ必要はない。
選びたくなる方向を、こちらで用意すればいい。
魔札を2枚、右側の下草に置いた。1枚は根の手前へ。そして、自分の立ち位置をわざと獲物から見えやすい場所へ移す。
しばらくして、再び耳が現れた。
こちらを見る。
わたくしも動かない。
不意に獲物が駆けた。
地面を蹴る音は1度。姿が途切れ、次には倒木の向こうで土が跳ねた。
わたくしの左側を抜けるつもりだ。
そこには出口を残してある。
魔札が赤く光る。
「《ブラッディ・チェーン》」
鎖状の魔力が根元から立ち上がった。
獲物の身体へ巻きつけるためではない。踏み切りの直前、その進路へ一瞬だけ横切らせる。
レーサーラビットは躊躇なく右へ切った。
――そこ。
右に置いた札が、着地点で低く開いた。
獲物が後脚を下ろした瞬間だけ、赤い魔力が輪になって脚の動きを奪う。
勢いを殺された身体が草へ倒れかける。だが、長く拘束して暴れさせれば肉が傷む。
わたくしはすぐに近づき、手早く仕留めた。
草の揺れが収まる。
血の匂いが、冷たい沢風に混じった。
「……ようやく、1羽ですわね」
口ではそう言いながら、頬が熱い。
勝てたことが嬉しいのではない。
今の1歩を読めたことが、少しだけ嬉しかった。
獲物の身体を整え、必要な処置を済ませる。急いで運び出して肉を傷ませては意味がない。汚れの付かないよう布に包み、収納袋へしまった。
ゼェレの袋は、重さをほとんど感じさせなかった。
その便利さに感心しながらも、つい心の中で釘を刺す。
……ただし、獲物を入れる袋が便利だからといって、無理な数を追う必要はありませんわ。
目標は5羽。
今日食べる分と、道中に加工する分を考えれば、そのくらいが適当だ。
わたくしは魔札を回収し、次の草地へ向かった。
◇
2羽目は、最初の1羽より慎重だった。
草地の端でこちらの気配を察すると、1度も開けた場所へ出ず、木の間を縫うように逃げた。
わたくしは追わずに、沢沿いの狭い道を先回りした。ここを通るなら、右脚を置ける石は2つしかない。魔札を石の後ろへ置き、《アルカナ・フォーク》で前方の広い道を避けさせる。
跳躍の着地点を奪うと、獲物は驚くほどあっさりと止まった。
3羽目は逆に、こちらをほとんど警戒しなかった。
そういう獲物ほど危ない。1枚の札を見せた途端、何が起こるか確かめるように、その縁を掠めて跳んだ。
魔札の位置を変えた。
また跳ぶ。
これでは、わたくしが相手の練習相手にされてしまう。
「……お上手ですこと」
思わずそう呟くと、森は答える代わりに木の葉を揺らした。
時間をかけ、ようやく獲物が必ず通る細道を見つけた。魔力の壁を立てず、出口をひとつ残す。そこへ足を伸ばした瞬間を押さえ、傷を増やさず仕留めた。
4羽目を捕まえた頃には、陽が少し傾いていた。
小さな手傷も負っていない。ただ、何度も札の位置を調整したせいで、指先がじんわりと熱い。
狩りは相手の命を頂くことだ。
面白がって長引かせるべきものではないし、仕留め損ねて苦しませるのはもっと避けたい。それでも、狙う位置を考え、駆け抜ける一瞬に手を動かす感覚は、確かにわたくしを夢中にさせた。
この森で過ごした3年間、必要に迫られて身につけたことだ。
けれど、今日は少し違う。
家へ帰れば、2人が待っている。
獲物の重さをひとりで運ぶ必要もなければ、肉を切り分け、火を起こし、保存するまで、すべてを独りで終わらせる必要もない。
それでも、つい、食料の量を計算してしまう。
次の村まで7日。3人で食べる。
以前ならわたくしだけの分でよかった。今は同じパンを3つに分けることを、当たり前のように考えている。
少し不思議だった。
◇
5羽目は、大きかった。
灰色の背に、耳の先だけ濃い毛が混じっている。後脚はとりわけ太く、周囲に残る足跡も深い。
陽の残る草地の真ん中にいた。
わたくしが立ち止まると、獲物もこちらを見た。
「……あなたで最後にいたしましょう」
返事があるはずもない。
それでも、赤い瞳を向けられているような気がして、思わず肩に力が入った。
札を4枚、左右の木立へ置く。2枚は地面すれすれ。残りを手元に浮かべた。
獲物は待たなかった。
低く跳び、まっすぐこちらへ向かってくる。
速い。
初めてこの森で見たとき、何もできずに見送った跳躍を思い出す。
わたくしは、足を引かなかった。
目前の地面へ札を投げる。
獲物が身体をひねった。
こちらの右を抜ける。
……と思わせて、左へ切り返す。
「《アルカナ・キャスリング》」
わたくしの立ち位置と、左の倒木の陰に置いた札の位置が入れ替わった。
さっきまでわたくしがいた場所を、獲物が横切る。
そのまま追えば、背後から魔力を当てることになる。脚を傷めるかもしれない。
わたくしは追わず、先に置いてあった右側の札を動かした。
獲物は空いた道へ跳ぶ。
だが、開けた場所へ出る最後の1歩だけは、踏み切りが大きくなる。
後脚が地面に沈んだ。
「《アルカナ・フォーク》」
左右から2本の赤い筋が立ち上がる。
獲物が頭を振る。右か、左か。瞬きより短い迷いのあと、正面へ跳ぼうとする。
その足元に、最後の札が待っていた。
輪になった魔力が、地面から数寸だけ持ち上がる。
踏み切りを止められ、獲物の身体が低く崩れた。
わたくしは間合いを詰め、苦しませないよう手早く仕留めた。
静かになった草地に、自分の呼吸だけが残る。
「……勝ちましたわ」
声に出すと、ようやく肩の力が抜けた。
獲物の毛並みをひと撫でしてから、必要な処置を済ませる。獲物を丁寧に包み、収納袋の中でほかの4羽と混ざらない位置へ納めた。
魔札を数える。
1、2、3……6枚。
どれも戻ってきている。魔力の消耗も、想定していた範囲だ。狩りに気を取られ、戻る力を残し忘れるほど愚かではないつもりだった。
草の上に膝をつき、今の最後の跳躍を思い返す。
《アルカナ・キャスリング》の位置交換は、相手がこちらへ突っ込んでくるほど扱いが難しい。視線を切る瞬間、札を置いた場所の地面を把握していなければ、かえって自分を危険へさらしてしまう。
けれど、今の使い方なら、わたくし自身の身体を無理に加速させずに済む。
次に試すなら、入れ替わったあとの視界を確保するために、もう1枚……。
「……いけませんわね」
わたくしは口元を押さえた。
狩りは終わったのだ。
それに、食料を待っている2人がいる。
自分の考えに少しだけ呆れながら、森の出口へ足を向けた。
◇
別荘が見えてきたとき、台所の煙突から白い煙が昇っていた。
開いた窓から、焼きたての小麦の匂いが漂う。
以前は、森から帰ると真っ先に灯りをつけたものだ。それから汚れた道具を片づけ、食事の準備を始める。疲れている日は、その順番を考えるだけで気が重くなることもあった。
今日は、窓の向こうに人影が2つある。
ひとりが何かを運び、もうひとりが鍋を覗いていた。
カルマとシュテル。
わたくしは玄関の前で立ち止まり、手袋についた土を払った。
狩りの成果を見たら、2人はどんな顔をするだろう。
カルマは、きっと大げさに驚く。
シュテルは、まず怪我がないか尋ねるだろう。
そのあとは……。
わたくしは、肩の収納袋へ目をやった。
中には、きちんと処置した5羽のレーサーラビットが収まっている。
まさか、取り出すたびに大騒ぎになるとは思っていなかった。
「ただいま戻りましたわ」
扉を開けると、2人が同時に振り向いた。
思わず、笑みがこぼれた。
以前のわたくしなら、今日の狩りを誰かに話すことなど考えもしなかった。
けれど今は、真っ先に話したい相手がいる。




