第75話 音速兎と次の支度
朝飯を食い終わったところで、リゼリアが妙なことを言い出した。
「今日は、食料を確保しておきましょう」
そう言って俺たちに見せたのは、書庫の地図でも、《ローズ・リスト》でもない。薄い木の板に描かれた、この屋敷の見取り図だった。
「食料なら、ゼェレの袋にまだあるだろ」
「えぇ。でも、保存食ばかりでは身体が持ちませんわ。次の村か街までは、1週間ほど歩くことになるでしょう。ベネブルグへ向かう途中で補給できるとは限りませんから、ここで必要な分を用意しておきたいのです」
「それはそうですね。昨日のうちに残りを数えましたが、野菜がほとんどありません」
シュテルが台所から顔を出す。
昨夜、俺たちは商業街ベネブルグから地下街ノーライ、最後に王都グランヴァルドへ向かうと決めた。王国の中枢へ乗り込む前に、人を集め、運び、受け取ってきた連中の記録を押さえる。その順序には俺も賛成だ。
で、決めた翌日から俺たちがやることは、野菜の収穫らしい。
「野菜なら売ってるんじゃねえのか?」
「ここは森の奥ですもの。買いに行くより、裏の菜園を使う方が早いですわ」
「……菜園?」
俺が聞き返すと、リゼリアは当然のように頷いた。
「あと、小麦の備蓄庫もございます。荷物を詰める前に、何が使えるか確認しましょう」
「待て。ここの台所、食い物は空っぽだったよな」
「えぇ。調理済みのものや、すぐ食べられるものは残しておりません。小麦は建物の外にある専用の保管庫です。菜園の野菜は、採ってしまえば長く置けませんから」
なるほど。食い物がない、というのは台所の話だったわけだ。
俺は空になったカップを置いた。
「で、誰が何をするんだ?」
「まず3人で場所を確認しましょう。できれば今日のうちに食材の仕込みと荷造りを進めたいのです」
「分かりました。私、保存食にできるものを考えておきます」
シュテルが袖をまくった。
妙に気合が入っている。そういやこの人、聖都の地下では盾を構えてたくせに、台所だと野菜の切り方を気にするんだよな。
「じゃあ俺は、重いもん運ぶ係だな」
「えぇ。頼りにしておりますわ」
リゼリアが笑った。
素直に受け取っていい褒め言葉なのか、ちょっとだけ迷った。
◇
屋敷の裏へ回ると、石垣の向こうに細長い畑があった。
最初は庭の続きかと思った。低い木柵が風よけになり、その内側に細い通路が何本も走っている。葉の大きい野菜もあれば、土から肩を覗かせた根菜もある。片隅には薬草らしいものが植わり、蔓の伸びた棚もあった。
「……ここ、昨日通ったよな?」
「裏口からは見えない位置にございますから」
「隠し方が徹底してんな。野菜にまで秘密が要るのかよ」
「国王を匿う場所ですもの。煙や人の往来で、ここに暮らしていると知られるのは困りますわ」
「なるほど。食い物の買い出しも、目立つってことか」
そこでようやく、この畑の意味が分かった。
王族を何日、何週間と隠すなら、食い物を運び込み続けるわけにはいかない。穀物は備蓄しても、新鮮な野菜までは難しい。目の届かない場所で育てて、必要なときだけ採る。そのための菜園か。
リゼリアは畑の端にしゃがみ、石で囲った細い水路を指でなぞった。
「地下の水脈から少しずつ引いています。流れが弱くなっていないか、いつもここで確かめていましたの」
水路には澄んだ水が流れていた。葉の影で光が細かく揺れる。
「勝手に育ってくれる仕組み?」
シュテルが尋ねる。
「水と冷えへの備えはありますけれど、種をまいたり、採ったりするのは人の仕事ですわ。わたくしも、ここへ戻るたび手を入れていました」
「3年間、ずっと?」
「えぇ。家を空ける間は、収穫の時期を見ておく必要がありますけれど」
リゼリアは葉を1枚持ち上げ、裏に虫がいないか確かめた。ドレスの裾を膝の脇へ寄せる動きが、やけに慣れている。
見慣れない姿だった。俺が知っているリゼリアは、赤い魔札を飛ばして敵をねじ伏せる女だ。相手の嘘を見抜くときの目つきと、今、野菜の葉を調べている目つきが同じなのが、少しおかしかった。
「カルマ。そちらの葉はまだ小さいので、残してくださいませ」
「おっと。これか?」
「えぇ。大きいものだけ、根元から」
「了解」
言われたとおり、葉をまとめて刈る。刃物なら扱い慣れているが、切り落とせばいいってものでもないらしい。少し刃を深く入れすぎると、リゼリアが横から首を振った。
「それでは次の芽を傷めてしまいますわ」
「……畑の方が銃より難しくねえか?」
「慣れですわ」
そう言って、リゼリアは俺の手元へ小さな籠を置いた。
苦笑いして受け取る。
シュテルは根菜の土を落としながら、葉や皮に傷みがないか見ていた。リゼリアから教わった採り方を1度で覚えたらしい。俺より手際がいい。
「シュテル、そっちはどうだ?」
「使えそうなものが多いです。小さいものは残しておきますね」
「なんだ、優秀な農家が2人もいたのか」
「カルマも上達していますよ」
「それ、最初がひどかったって意味じゃねえよな」
「……どうでしょう」
澄ました返事に、思わず笑った。
しばらくして籠が2つ埋まった。葉物、根菜、それに少し香りの強い草。今日食べる分と、道中へ持っていく分を分ける。土の付いたものはそのまま袋へ入れず、屋敷の水場で洗って乾かしておくことになった。
リゼリアは一番奥の畝を見て、小さく息を吐いた。
「……よかった。こちらも無事でしたのね」
「何か特別な野菜なのか?」
「いいえ。前に植えたものです。出かけるとき、次に戻るまで残っているか少し心配で」
クロイツハーフェンへ向かった朝、ここに立ったんだろう。
まだ1人だった頃のリゼリアが、次に帰ってきたときのために種を残す。そう考えると、俺が引っこ抜きかけた小さな芽まで、妙に大事なものに見えてきた。
◇
小麦の保管庫は、菜園のさらに奥にあった。
地面が少し盛り上がったところに石造りの扉がある。上から見れば、低い物置にしか見えない。鍵を開けたリゼリアが中へ入ると、壁に埋め込まれた小さな霊晶灯が点いた。
「……こりゃ、すげえな」
室内は思ったより広かった。
分厚い木箱と、封のされた穀物袋が棚ごとに分けてある。床は乾いていて、虫の気配もない。入口に貼られた札には、保管した年と種類が書かれていた。
「家の保護術式とつながっていますの。湿気や虫を防ぐための場所ですわ」
「これ全部、小麦か?」
「大半はそうです。ほかに種まき用の穀物も少し」
リゼリアは一番手前の袋の封を確かめ、少量を手のひらへ出した。粒を割って中を見てから、俺に差し出す。
「傷んでいないようですわね」
俺も匂いを嗅いでみた。乾いた穀物の匂いがするだけだ。
「これだけあれば、しばらく買わなくてもよさそうだな」
「全部持ち出す必要はありませんわ。帰ってきたときの分も残しておきたいですから」
「だよな」
その言葉が、何となく嬉しかった。
次に帰ってくるつもりでいる。ベネブルグへ向かって、ノーライを調べて、王都へ行く。その先に何があるか分からなくても、リゼリアはこの家へ戻るための食料を残そうとしている。
俺は空の袋を広げた。
「どれくらい持ってく?」
「粉にする分を先に。残りは必要なだけ袋に入れましょう」
「小麦って、粉にするのもここでやるのか?」
「えぇ。台所の脇に手回しの製粉機がございます」
「……手回し」
嫌な予感がした。
「カルマ、力仕事は得意でしたわよね?」
「さっき言ったばっかりだろ」
「心強いですわ」
リゼリアは、実にいい笑顔だった。
どうやら俺の仕事が決まったらしい。
小麦を小分けにして運び出す。ゼェレの収納袋なら、荷台3つ分ほどは入ると聞いている。米俵みたいな量を抱えて移動しなくていいのは助かるが、どこへ入れたか分からなくなったら本末転倒だ。
俺は袋の口を開き、仕分けの紙札を結び付けた小麦袋を入れた。
「……カルマ、今日はずいぶん几帳面ですね」
シュテルが、札の付いた小麦袋を見て言った。
「ゼェレさんの手紙が効いたんですか?」
「違う。あいつに余計なこと言わせたくねえだけだ」
「今はここにいませんよ」
「いなくても聞こえてそうで嫌なんだよ」
シュテルはとうとう笑いをこらえきれなくなった。
◇
収穫した野菜と、運び出した小麦を台所に並べる。
水を切る籠。小麦を量る容器。製粉機の取っ手。空き瓶と清潔な布。
なんだか商店の仕込みをしているみたいだった。
リゼリアは必要な道具を確認してから、壁の時計を見た。
「お2人に、こちらをお願いしてもよろしいかしら」
「まだ仕事があんのか?」
「えぇ。わたくしは肉を調達してまいります」
「肉?」
シュテルが顔を上げた。
「近くに獲物がいるんですか?」
「この時期なら、森の東側にレーサーラビットが出ますわ」
聞き慣れない名前だった。
「ウサギか。銃持ってった方が早くねえか?」
その瞬間、リゼリアが真顔になった。
「いいえ。あの子たちは2人で追っても、なかなか捕まえられませんの」
「……2人でも?」
「えぇ。逃げ道を塞ぐだけでは、あっという間に抜けられてしまいます。捕らえるには、跳ぶ方向と次の着地点を読まなくては」
何だそのウサギ。
「そんなに速いのかよ」
「音速兎、と呼ばれるくらいですもの」
「……音速?」
「もちろん、普通のウサギとは違いますわ。気配を察すると、目で追うのが難しいほどの速さで駆けますの」
リゼリアはひと呼吸置いた。
「久しぶりですし……少し、腕が鳴りますわね」
目が笑っていた。
いや、口元はいつもの上品な微笑みのままだ。なのに、赤い目だけが明らかに違う。強い敵の居場所を聞いたときの顔に似ている。俺が初めてちゃんと勝負したときにも、こんな顔をしていた気がする。
「待て待て。おまえ、肉を取りに行くんだよな?」
「もちろんですわ」
「なんで決闘に出かけるみてえな顔してんだよ」
「気のせいですわ」
即答だった。
シュテルが横でじっとリゼリアを見ている。
「リゼリア。ひょっとして、そのレーサーラビットが好きなんですか?」
「……狩りがいのある相手だとは思っております」
「やっぱりそうじゃねえか」
「食料を調達するのが目的ですわ。ついでに、久しぶりですので」
「ついでの方が本音じゃねえの?」
リゼリアは否定しなかった。
手袋を整え、《ブラッドアルカナ》の魔札を確認する。外套を羽織る動きまで、妙に軽い。
「夕方までには戻ります。もし遅くなるようなら、先に作業を進めてくださいませ」
「1人で平気なのか?」
「この森はよく存じていますわ。灰触とも離れていますし、危険な区域へは近づきません」
そこは信用している。リゼリアは無茶をすることもあるが、道も分からず走り回るような奴じゃない。まして3年使った自分の家の周りだ。
「分かった。こっちは任せとけ。ただし、怪我してまでウサギを追うなよ」
「えぇ。ご心配なく」
彼女は穏やかに笑った。
「今度こそ、逃しませんから」
「……今度こそ?」
聞き返したときには、もう扉が閉まっていた。
俺とシュテルは顔を見合わせた。
「……前に逃げられてるな、あれ」
「そうみたいですね」
シュテルが少し笑う。
「でも、楽しそうでした」
「……だな」
認めるのはちょっと悔しいが、俺もそう思った。
◇
製粉機は、想像以上に重かった。
いや、本体じゃない。取っ手だ。乾いた小麦を少しずつ入れ、石臼を回す。粉が下の容器に落ちるまで何度も回す。やることは単純なのに、腕だけがどんどん疲れていく。
「……これ、魔法でどうにかならねえのか?」
「できなくはないと思いますけど、私は細かい粉を均一にする魔術は得意じゃなくて」
シュテルが野菜を切りながら答える。
「リゼリアなら一瞬で粉にできるんじゃねえか」
「それで製粉機と同じ状態になるかは、分かりませんよ」
「そりゃそうか」
俺は取っ手を回し続けた。
自分で言うのもなんだが、俺は手先の仕事が嫌いじゃない。銃の分解だの、ワイヤーの張り直しだの、細かい作業は散々やってきた。ただ、力を入れる場所が違うと、こうも勝手が変わるらしい。
シュテルは根菜を薄く切り、鍋に湯を沸かしている。今日の昼飯に使う分、今夜の分、道中用の干し野菜。切ったものを別々の盆に広げ、窓際へ並べていった。
「乾かすの、そんなに時間かかるのか?」
「薄く切れば少しは早いです。でも、出発までに乾ききらなければ、無理に持っていかずに今日の料理に使いましょう」
「ゼェレの袋に入れとけば傷まねえ、ってわけじゃないしな」
「はい。容量が大きくても、食品の保存は別の話です」
当たり前のことだが、あの袋が便利すぎて忘れそうになる。
シュテルが塩を量り、切った野菜を別の盆へ移す。俺は製粉機の取っ手を回しながら、横目で見ていた。
「慣れてんな」
「これくらいなら。教会でも、食事の準備を手伝うことがありましたから」
「審問官ってのは、飯も作るのか」
「審問官だからではないですよ。暮らしていれば必要ですし」
「ごもっとも」
俺は粉のたまった容器を取り出した。
「……リゼリアも、ここでこんなことしてたんだろうな」
口にすると、シュテルの包丁が少しだけ止まった。
「えぇ。3年間、ここを拠点にしていたんですよね」
「菜園の世話して、小麦挽いて、飯作って。で、時々旅に出ては、あの書庫へ資料を持ち帰る」
「いつも1人で」
「……そういうことだ」
昨日、書庫で見た量を思い出す。
机に出しただけであれだけあった。棚の中には、まだ読んでいない資料も山ほどある。あれを3年間、各地を回って集めて、持ち帰って、整理してきたわけだ。
俺にあんな生活ができるかと言われたら、どうだろうな。
手掛かりを追うために街を渡り歩くのは珍しくない。誰かを撃つ前に証拠を見つけろって仕事だってある。だが、帰る場所に自分以外の誰もいないというのは、また話が違う。
「意外だよな」
「何がですか?」
「俺、あいつはもっと人を使う方だと思ってた。貴族のお嬢様だろ。家のことは誰かに任せて、自分は調べ物だけしてるって」
シュテルは笑わなかった。
「そういう暮らしも、昔はあったのかもしれませんね」
「……ああ」
俺は取っ手を回す速度を落とした。
家族がいた頃なら、リゼリアは畑に出る必要なんてなかっただろう。飯も、掃除も、誰かがやってくれたはずだ。ノワールヴェイン家が残っていれば、こんな森の奥に1人で隠れて暮らす理由だってなかった。
それが今は、どの野菜を残すかも、小麦を何袋持ち出すかも、自分で決めている。
あいつの手袋の下には、俺たちが知らない仕事の痕があるのかもしれない。
「……でも、少し安心しました」
シュテルが言った。
「何が?」
「リゼリアに、生活していた時間があったことです。ずっと誰かを追い続けて、休むこともなかったんじゃないかと思っていましたから」
「それも、なかったとは言えねえけどな」
「えぇ。でも、ここでは種をまいて、次に帰ってきたときのことを考えていたんです」
シュテルは、洗った根菜をひとつ手に取った。
「昨日、書庫へ行くのを我慢してくれてよかったです」
「そうだな」
あいつは、やることが見つかると一直線だ。
王国の記録にある名前を追い、亡くなった父親が何に反対していたのかを調べ、港でも聖都でも走り回った。そんなリゼリアがこの家でやっていたのは、畑を見て、備蓄を確かめ、また旅に出る準備をすることだった。
今はその仕事を、俺たちが分け合ってる。
「……手ぇ動かすか」
俺は製粉機の取っ手を握り直した。
「粉、まだ要ります?」
「はい。あと少しだけお願いします」
「了解。今度こそ腕が取れそうだ」
「カルマの腕なら、そう簡単には取れませんよ」
「……信用されてんのか、酷使されてんのか分かんねえな」
シュテルは、今度こそ声を出して笑った。
◇
小麦粉がまとまったところで、次は生地を練ることになった。
パンを焼くと言っても、発酵させて大きく膨らませるようなものじゃない。粉と水と少しの塩で平たい生地を作り、薄く伸ばして焼く。旅先でも温め直せるし、腹にもたまる。
俺は言われたとおり、水を少しずつ加えた。
「……くっつくな、これ」
「粉を足しましょう。少しずつですよ」
「ちょっとって、どれくらいだ?」
「今の半分くらい」
「先に言ってくれよ」
「カルマ、まだ入れてませんでしたよね?」
「……ああ。なら問題ねえ」
俺が手を止めると、シュテルが肩を震わせた。
「なんで笑うんだよ」
「いえ。銃の手入れをしているときは、あんなに迷わないのにと思って」
「銃には分量の目盛りがあるからな」
「料理にもありますよ」
「……本当だ」
見れば、脇に置いた容器に目盛りが刻まれている。
なるほど。ちゃんと道具を見ろってことか。
俺は咳払いして生地をこねた。
しばらくすると手触りが変わった。最初は指にまとわりついていたものが、1つにまとまる。力を入れて押すと、少し遅れて押し返してくる。こうなると面白くなってきた。
「これ、案外いいな」
「では、次もお願いします」
「……言うと思った」
シュテルは乾かす野菜を並べ終えると、今夜の煮込みに使う材料を分けた。小麦粉を少量の水で溶いて鍋へ入れ、とろみを付けながら根菜をゆっくり煮るらしい。
俺は焼き上がった平たいパンを網へ移し、冷めたところから布で包んだ。熱いうちに密閉すると湿気がこもる、とシュテルに言われたからだ。覚えておかないと、次に俺が荷造りしたとき怒られる。
「そういや、あいつ何匹狙ってんだろうな」
「レーサーラビットですか?」
「ああ。1匹取れりゃ十分じゃねえかと思うんだけど」
シュテルが少し考える。
「肉は多い方が助かります。でも、リゼリアがあんな顔をしていたので……」
「そう。そこなんだよ」
俺は笑った。
「野菜にはあんなに慎重なのに、ウサギの話になった途端、勝負を挑む顔してた」
「見てみたいですね。狩っているところ」
「俺もだ。……でも、足手まといになるならやめとく」
「2人では大変、と言っていましたし」
「あれ、たぶん自分が1人でやりたいんだと思うぞ」
シュテルは否定しなかった。
窓の外では、風が菜園の葉を揺らしていた。森は静かだ。銃声も、獣の叫びも聞こえない。ここから東の森までは少し距離がある。
俺は焼けたパンをひとつ割って、シュテルへ差し出した。
「味見」
「ありがとうございます。……あ、おいしいです」
「だろ。俺がこねたからな」
「焼いたのもカルマですしね」
「もっと褒めていいぞ」
「はい。これなら旅先でも作れそうです」
「それ、また俺が作る前提じゃねえか?」
「……お願いしてもいいですか?」
笑ってそう言われると、断る理由が見つからなかった。
◇
夕方が近づいた頃、裏口の方で水の流れる音がした。
俺は生地の付いた手を洗って、窓から外を覗いた。
リゼリアが帰ってきていた。
外套の裾に乾いた草が付き、まとめた黒髪も少し乱れている。怪我をしている様子はない。だが、片手に持っているのは獲物じゃなかった。
ゼェレにもらった、あの収納袋だ。
「おい、シュテル。帰ってきたぞ」
2人で裏口へ向かうと、リゼリアは水場で手袋を洗っていた。
「ただいま戻りましたわ」
「おかえりなさい。怪我はありませんか?」
「えぇ。少し走りましたけれど、問題ございません」
「で、肉は? まさか逃げられたのか?」
俺が尋ねると、リゼリアは不思議そうに瞬きをした。
「いいえ。きちんと確保してまいりましたわ」
そう言うと、作業場の台に清潔な布を広げた。そこへ収納袋の口を向ける。
どさっ。
長い耳と、妙に発達した後脚を持つウサギが1羽、台に現れた。
「おっ、でけえな」
普通の野ウサギより明らかに大きい。中型の獣と呼んだ方が近いくらいだ。耳の先の毛が濃く、泥の付いた後脚は、俺の前腕よりずっと太かった。
どさっ。
さらに1羽。
どさっ、どさっ。
「……おい」
5羽目が台に落ちたところで、俺は思わず収納袋を覗き込んだ。
……まだ入ってねえだろうな。
幸い、それで最後らしい。台の上に並んだ5羽は、どれも布に包まれていた。これなら収納袋の中も汚れずに済む。
1羽の包みが少しずれて、首元の毛が見えた。短い傷が1つあるだけで、身体のほかの部分はほとんど傷ついていない。速い獲物を追い回した割に、ずいぶんきれいな仕留め方だ。
「……全部、レーサーラビットですか?」
シュテルが、目を丸くして尋ねた。
「えぇ。5羽ですわ。これなら道中の分も十分に作れそうですわね」
「5羽!? おまえ、1人で全部獲ったのか?」
「えぇ。ほかに誰がおりますの?」
「いや、そうだけどよ……」
リゼリアはいつもの涼しい顔をしている。だが、その赤い瞳は隠しきれないほど楽しそうだった。
「……逃げられたんだろ?」
俺が訊くと、彼女は一瞬だけ目を逸らした。
「最初の1羽には、1度だけ」
「やっぱりな」
「予想より早く切り返しましたの。次の跳躍では同じ方向へ逃げると思っていましたら……逆でしたわ」
そこでリゼリアは、なぜか嬉しそうに微笑んだ。
「見事でした。あれほど綺麗に踏み切りを変えられると、こちらも考え直したくなりますもの」
「いや、笑うところか?」
「正面から追っても追いつけませんから、逃げ道を絞りましたの。あの子たちは開けた場所へ出る瞬間に大きく踏み切ります。次の着地点を読んで、魔札を置いておけば……」
「足を置くところを取ったわけか」
「えぇ。速さに付き合うより、そちらの方が確実ですわ。あとは肉を傷めないよう、慎重に仕留めました」
理屈は分かる。
だが、俺たちが小麦粉と格闘している間に、こいつは音速兎を5羽も相手にしてきたのか。
「……おまえ、途中から狩りを楽しんでただろ」
「食料を調達するためですわ」
「それ、朝も聞いた」
「……久しぶりでしたので」
シュテルが堪えきれずに笑った。
「リゼリア、本当に楽しそうですね」
「……そう見えます?」
「はい。とても」
リゼリアはしばらく黙っていた。
それから、少し照れたように口元を緩めた。
「えぇ。久しぶりに、よい狩りでしたわ」
俺も笑うしかなかった。
王国の記録を前にしているときは、あんなに険しい顔をする女が、今日はウサギ相手に満足そうにしている。
悪くない。
こういう顔をする日が、もっとあってもいいと思った。
◇
獲物は、屋敷の裏手にある作業場で処理した。
リゼリアが最初の包みをほどいたところで、俺はまた驚かされた。5羽とも、森で締めて血抜きまで済ませてあるらしい。肉を傷めないよう、捕まえたその場で処理してきたわけだ。
「……おまえ、血抜きまでやってきたのか?」
「えぇ。帰ってからでは遅くなりますもの。獲物を仕留めたら、できるだけ早く済ませるようにしております」
リゼリアはそう答えながら袖を留め、作業台にナイフを並べた。皮を外し、関節の位置を確かめて刃を入れる。手元を見なくてもできる、とまでは言わないが、動きに迷いがない。肉を無駄に傷つけず、食べる部位と保存に回す部位を次々に分けていく。
俺だって肉を扱う仕事をしたことはある。だが、こいつの手つきは、たまに狩りをする奴のそれじゃなかった。
「カルマ、そちらの桶を取っていただけるかしら」
「あ、ああ。これか?」
「えぇ、ありがとうございます」
上品な声で礼を言いながら、手は休まない。
……相当たくましいお嬢様だわ……。
公爵令嬢が1人で5羽の獲物を仕留め、何でもない顔で肉の処理まで進めている。クロイツハーフェンで会った頃には想像もしていなかった光景だ。けれど、3年間この森を拠点にして暮らしてきたなら、こういう仕事も日常だったんだろう。
俺は水を運び、シュテルは台所から道具と清潔な布を持ってきた。リゼリアが切り分けた肉を受け取り、使う分と保存に回す分を別々の容器へ移していく。
5羽分の肉を骨から外すと、それだけでかなりの量になった。厨房から持ってきた秤で計ると、合わせて8.5kgほどある。
「……食いきれるのか、これ」
「食べるのは今夜の分だけですわ。残りは干し肉にいたします」
「次の村まで、歩いて1週間でしたよね」
シュテルが作業台にメモを広げた。
「3人なら、1日にどれくらい必要でしょう」
俺は肉を見た。これだけあれば何とかなりそうだが、勘だけで旅の食料を決めるわけにもいかない。
「パンと野菜も食うんだろ? 干し肉を1人1日100gにすれば、3人で300g。7日で……2.1kgか」
「そうですわね。干すと水分が抜けて、重さは生肉の3割ほどになります。干し肉を2.1kg作るには、生肉が7kgほど必要ですわ」
「8.5kgあるなら、夕飯に使っても足りそうですね」
「えぇ。乾燥の具合によって仕上がりは変わりますから、少し多めに仕込みましょう」
俺は残りの肉と、山のような骨を見比べた。
「……あの袋がなかったら、5羽持って帰るだけでもひと仕事だな」
「本当に助かりましたわ。袋がなければ、何度か往復するところでしたもの」
ゼェレの悪態には腹が立ったが、礼を言うべきところは言わなきゃならねえ。本人がここにいないのが、ちょっとだけ残念だった。
「でも、肉だけじゃ1週間歩けねえぞ」
「小麦も用意していますわ。1人1日500g程度の粉を見込めば、3人で7日分は10.5kgほど。野菜や残りの保存食も合わせて持っていきます」
「10.5kg……さっきから石臼回してた理由が分かった」
「まだ全部は挽けていませんよ」
シュテルのひと言で、俺は黙った。
どうやら、明日も製粉機の世話になるらしい。
「……こういうの、いつ覚えたんだ?」
「父が生きていた頃から、多少は。ですが、必要に迫られて覚えたことの方が多いですわ」
「3年間、ずっと1人でやってたのか」
「そうですわね。この森は狩りをするには悪くありませんし、必要なものを調達するには十分ですもの」
リゼリアは作業の手を止めずに答えた。
俺は畑の土と、製粉機の取っ手を思い出した。
書庫の資料だけじゃない。あいつがここで積み重ねてきた時間は、こんなところにも残っている。
「今度から、俺にも教えてくれよ」
思わずそう言った。
「何をですの?」
「こっちのやり方。肉の下ごしらえも、保存の仕方も。おまえが毎回1人でやる必要ねえだろ」
リゼリアが顔を上げた。
「……そうですわね」
答えるまで、ほんの少し間があった。
「では、こちらをお願いしてもよろしいかしら」
「おう」
渡された道具は、俺が使い慣れた銃とはまるで違った。
けど、やることが分かれば何とかなる。
シュテルも作業場へ顔を出した。
「肉の保存用に塩を用意しました。全部まとめては使わず、一部は今夜焼きましょう」
「いいな。パンもあるぞ」
「……もう焼いてくださったの?」
リゼリアが目を丸くした。
「カルマが小麦を挽いて、生地もこねてくれたんです」
シュテルが答える。
「おい、そんな大げさに言うなよ」
「大げさではありません。しっかり作業してくれましたから」
「……そうでしたの」
リゼリアが俺を見た。
「ありがとうございます、カルマ」
「いいって。力仕事くらいしかできねえと思ってたけどな」
「そんなことはありませんわ。台所から、とてもよい匂いがしていましたもの」
妙に照れくさくなって、俺は手元の道具へ目を戻した。
「じゃあ、夕飯は期待しとけ」
「えぇ。楽しみにしております」
◇
その日の夕方から、料理と保存食の仕込みに取りかかった。
新しく挽いた小麦粉の一部を焼き、残りは乾いた袋へ分ける。根菜は煮込みに使い、持ち歩く分は傷のないものを選んだ。保存に向いた葉は薄く切って乾かし、乾ききらないものは今夜の鍋へ入れる。肉はその日のうちに食べる分と、干し肉にする分に分けた。
シュテルが火加減を見ている間に、俺は使い終わった道具を洗い、リゼリアが残りの肉を細長く切り分けて塩を振る。燻すための木片も、薪小屋の乾いたものから選んだ。屋敷の裏にある小さな燻製室を掃除し、火と煙が抜ける具合を確かめる。
「今日のうちに全部できるか?」
「いいえ。しっかり水分を抜くまで、2~3日は見ておきたいですわ。表面だけ乾かして持ち出すのは危険ですもの」
「……出発も、それに合わせるか」
「えぇ。急ぐあまり食料を傷ませては、本末転倒でしょう?」
異論はなかった。明日も明後日も、火加減と乾き具合を見ながら仕込みを続けることになる。
「意外と手間がかかるんですね」
シュテルが鍋をかき混ぜながら言った。
「買えば一瞬だもんな」
「でも、ここなら買い物へ行くより早いこともあるんですね」
「道は遠いし、森の外まで出たら目立つ。隠れ家ってのは、住むのもひと仕事だな」
リゼリアが鍋の中を覗いた。
「えぇ。以前は旅から帰るたびに、片づけと補充で1日使っておりました」
「そりゃそうだろうな。1人分でも大変だ」
「……今は3人分ですものね」
彼女は小さく笑った。
「その分、手が6本ありますわ」
「なら、俺の分は銃を持つ手だけにしといてくれ」
「それではパンが焼けませんよ」
シュテルの返しに、リゼリアが笑った。
「そうですわね。今後もカルマには製粉をお願いしたいですし」
「おい。勝手に決めるな」
「お嫌ですの?」
「……嫌じゃねえけどよ」
言った途端、2人に笑われた。
何だか負けた気がする。
でも、まあいいか。
俺には俺の仕事がある。シュテルにはシュテルの、リゼリアにはリゼリアの得意なことがある。それだけで、3人でいれば1人よりずっと多くのことができる。
夕飯ができた頃には、台所に肉と野菜の匂いが満ちていた。
厚めに切った肉は表面が香ばしく焼け、根菜の煮込みには小麦粉でほどよいとろみが付いている。俺が焼いた平たいパンをちぎって浸すと、保存食ばかりだった数日前が嘘みたいだった。
「……うまい」
思わず言うと、シュテルが頷いた。
「おいしいですね。レーサーラビットのお肉、初めて食べました」
「これだけ旨いんなら、あいつが張り切るのも分かる」
「味だけが理由ではありませんわ」
リゼリアが静かに言った。
俺は顔を上げる。
「……やっぱり勝負したかったんじゃねえか」
「否定はいたしません」
「そこは否定しろよ」
シュテルが吹き出した。
リゼリアは涼しい顔で肉を切り分けながら、少しだけ得意そうにしている。俺が知っているあいつと、今日初めて知ったあいつが、ようやく同じ人物に見えてきた。
◇
それから2日、屋敷では肉を乾かす匂いが絶えなかった。
交代で燻製室の火と風通しを見ながら、小麦を挽き、余った粉を乾いた袋へ移す。シュテルは菜園で採った野菜をより分け、傷みにくいものを旅用に包んだ。リゼリアは肉を何度か計り、乾きの甘い部分を切り分けてもう1度火にかける。
俺も手伝った。というか、製粉機の取っ手を握るのは、いつの間にか俺の役目になっていた。
3日目、よく乾いた肉を冷ましてから計ると、2.3kgほど残った。夕食に食べた分を除けば、生肉の3割ほどだ。3人で7日分の2.1kgを取り分けても、少し余る。
「よし。これなら次の村か街まで持つな」
「はい。途中で補給できれば、その分は予備に回せますね」
シュテルが1日分ずつ肉を包み直した。袋に入れるのは、完全に冷めて乾いたものだけ。収納袋には保存の魔術がないのだから、そこは念入りに確認した。
夕食を済ませたあと、俺たちは出発用の荷物を点検した。
食料は3つの収納袋へ分け、どれか1つを失ってもすぐに困らないようにしておく。水筒と今すぐ食べられるものは取り出しやすいところへ。書類は《ローズ・リスト》へ整理し、現地で見せる必要のある紹介状だけは別にした。
俺は銃と弾薬を点検し、予備のワイヤーを巻き直した。灰触で使った護灯台車は、帰路の手配を考えて屋敷の物置に置いていく。積み込んだ物を下ろすと、手押し用の車体は随分軽くなった。
「……これ、帰るときはどうすんだ?」
「監視所へ戻る際に、また使いますわ。馬も預けてありますから」
リゼリアが答えた。
「なるほど。無理に持っていく必要はねえってことか」
「えぇ。ベネブルグへは別の街道を使います。霧の中を戻るより、少し遠回りでも安全ですから」
俺は地図のその道を確かめた。王都へ向かう商人も使うらしい。途中で人目につく場所もあるが、そこは変装や荷の扱いを考えればいい。何しろ、王国の中枢へ近づく前に、俺たちが余計なことをして目立つわけにはいかない。
「なあ、リゼリア」
「何でしょう?」
「この家、また戻ってくるんだよな」
言ってから、ずいぶん間の抜けたことを聞いた気がした。
だが、リゼリアはすぐに答えた。
「えぇ。もちろん」
声に迷いはなかった。
「ここは、わたくしの帰る場所ですもの」
シュテルが荷物の口を閉めた。
「では、留守の間に困らないよう、菜園も整えておきましょう。採り残した野菜も、次に使えるように」
「そうですわね。明日の朝、最後に確認いたします」
俺は笑って、銃をホルスターへ戻した。
「帰ったらまた小麦挽きか。腕鍛えとくかな」
「今度は私も手伝いますよ」
「……あれ、俺がやるのは確定なんだな」
「カルマが上手でしたから」
シュテルが真面目な顔で答える。
横でリゼリアまで頷いた。
ったく。
こういうところだけ、息がぴったり合いやがる。
窓の外には、日が落ちたばかりの森が広がっていた。灰触の霧はここまで届かない。台所には、焼いたパンと煮込みの匂いがまだ残っている。数日かけた仕込みも終わり、明日には、この家を出る。まずは1週間ほど先の村か街へ。そこからベネブルグを目指すことになる。次の土地では、また厄介なものを見ることになるだろう。
それでも、今夜だけは腹いっぱい食って、きちんと眠れる。
3年間、この家で1人分の明日を用意してきたリゼリアが、今日は俺たちの分まで考えている。
俺も、次にここへ戻るときは、手ぶらじゃ帰らないようにしよう。
そう思ってから、ふと台所の方を見た。
「……なあ。残ったパン、1枚くらい食ってもいいか?」
「明日の朝の分です」
シュテルが即答した。
「1枚だけだぞ?」
「カルマ、さっきもおかわりしていましたよね」
「……はい」
リゼリアが笑う。
「明日の朝まで楽しみにしていてくださいませ」
俺は大げさに肩を落とした。
王国の陰謀を追う3人のうち、今夜一番厳しい相手は、どうやら台所にいるらしい。




